皇紀2671年(平成23年)12月27日
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111226/dst11122611……
▲産經新聞:靖国神社の門に放火 防犯カメラに不審な男
靖國神社で26日午前、境内にある神門の一部が放火されました。産經新聞社の記事でも指摘されている通り、事件発生前に犯行声明と思われる書き込みがインターネットの「ツイッター」上になされており、警視庁麹町署が関連を調べています。
その書き込みが上記画像なのですが、すでにアカウントごと削除されています。この者は「アマテラス」を名乗りながら、なぜか自称「在日コリアンの苦しみ」なるものを私たちに届けるために「靖國神社を放火してやろう」などと書いていました。
天照大神(天照大御神、或いは天照皇大神)は自然祭祀の神ですから、すべて人類が人種の差なく祀ってよいものです。よって、この者が本当に韓国・朝鮮人であったにせよ、神の名を知っていることに何の不思議もありません。
ただ、自らがその名を騙り、自然祭祀とも靖國神社ともまるで無関係ないわゆる「在日問題」を持ち出して破壊活動(テロリズム)を宣告するなど、あってはならないことです。この者が容疑者か否かはまだ分からないにせよ、これは単なる放火事件ではなく、テロの可能性があります。
私はこれまで、靖國神社について「本来の祭祀」「国家神道という過ち」「政治によって選別された招魂」という観点から批判してきました。それでも参拝しますし、まさか火を放たれて当然などと思うこともありません。少なくとも現在祀られている御霊を冒涜するような真似は、日本民族ならば出来ないことです。
「靖國神社の存在が民族を戦争に駆り立てた」といった類いの虚妄をもとに叫ばれる破壊活動が、すぐそばの朝鮮総連本部の慌ただしい時に芽吹くというのは、何やら「対立扇動商法」の影を感じます。この末端構成員が神の名を騙ったのも、個人というより組織としての手法でしょう。
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皇紀2671年(平成23年)12月26日
http://www.news-postseven.com/archives/20111224_77797.html
▲NEWSポストセブン:被災地で幽霊騒動 ゼネコン社員「彼らは冗談で言っていない」
私はここで心霊現象を解説するだけの知識を持ち合わせておりませんし、よって自身の不思議な体験を論理的に説明することも出来ませんから、宗教学的、或いは精神医学的に東日本大震災被災地の「幽霊騒動」を論評するつもりはありません。
恐らく取材に答えた建設会社社員が「最初は、冗談にしても程があると怒りました」というのは、被災して亡くなられた約2万人の御霊を話のネタにするような不謹慎を叱ったのでしょうし、いたずらに「幽霊騒動」を起こして、被災地を窃盗団の巣窟にしてはならないという想いもおありだったでしょう。
かつて被災県下の神社がいくつも無傷のまま残っている不思議を取り上げましたが、これは先人たちが自然祭祀によって後世に遺した想いがこれらの神社だったのであり、私たちが先祖代々からの相続人として初めて自由と権利を行使しうるというのは、このような先人たちの築かれた皇土に現世の私たちが暮らしているからなのです。
いわゆる「幽霊」の不思議は、なぜこれまで何億と亡くなった者の魂がすべて現れるわけではないのかというところにあるのですが、これはひょっとすると、現れる側というよりも見たと言うこちら側の想念の問題なのかもしれない、と。「被災者の霊だ」と言って彼らが恐れるのはなぜか、という問題です。
東京都内でこれまで亡くなった方の数こそ計り知れませんが、ではなぜ例えば昭和20年の東京大空襲の特定の印象だけが現れたりするのか、これまた不思議な話です。私には、彼らの招魂が十分に果たされず、私たちがすっかり忘れたままその地を汚したからなのではないかと思えてなりません。
被災地もこれとまったく同じでしょう。天皇陛下が被災地をまわられたのは、突如地震に襲われ、津波に呑み込まれて亡くなられた方の招魂のためであらせられたに違いないのですが、私たちの多くがその意味を理解していなければならないのです。
連合軍と戦って死んだのに、いまだ連合国の占領統治にまかせたままの日本では、心の平安は取り戻せません。地震と津波で死んだのに、生き残った者、すなわち死んだ者が心残りに感じたかもしれない人々のための復興も出来ないのでは、かつての先人たちがしてくれたようなことを、私たちは子孫にしてあげられないのです。この漠然たる不安こそが「被災者の霊だ」と言って恐れる騒動の正体ではないか、と。
現世個人さえ楽しければ何でもよいのでしょうか。そうであるはずがありません。祭祀と皇室を理解することがどれほど大切なことか、上記配信記事とは内容がかけ離れましたが、被災者を想う時、どうしても避けて通ることは出来ないのです。
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皇紀2671年(平成23年)12月25日
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=1224&f=nati……
▲サーチナ:韓国のドキュメンタリー番組、旭日旗の映像に抗議殺到=韓国
韓国と北朝鮮や中共のテレビ番組では、私たちが驚き呆れるような「日本非難」「米国非難」映像が放送されていたりするそうですが、韓国MBCが23日に放送した『南極の涙』では、わが国の南極観測史が取り上げられ、その中で旭日旗が映されたことなどに視聴者から抗議が殺到しているといいます。
わが国政府が昭和32年の官報で発表したのは、亜州の国が初めて南極に設置した基地の名称が「昭和基地」だということでした。
その後、亜州では昭和60年に中共が長城基地を、韓国がその3年後に世宗基地を設置していますから、いかにわが国の南極観測事業が先駆けていたか分かります。
韓国の放送局が、歴史の一端としてこれを描いたまではよかったのですが、ここで気になりますのは、旭日旗が「軍国主義」の象徴であったり、南極観測船『宗谷』が「軍艦」という認識のまま非難の対象にされていることです。
韓国人はこうしてすべての歴史を自分勝手に修正していくのでしょう。
この間違いをこそ放置していますと、来年には何を言われるか分かったものではありません。観測船『宗谷』は、もともと大日本帝國海軍の特務艦だったものの、占領統治期に海上保安庁巡視船としての任務を経て、当時は砕氷船だったのであり、これを旭日旗と結びつけて「軍艦」と説明するのは間違いです。
ところで、TBSの日曜劇場『南極大陸』の視聴率は10%前後に終わったそうですが、多額の製作費をかけたにもかかわらず、安普請の無表情な家政婦(松嶋菜々子)に負けたのはつらかったでしょう。
フジテレビジョンなどが製作した昭和58年の映画『南極物語』(蔵原惟繕監督)は、長らく配給収入の記録に於いて邦画第1位であり続けたほど当たりましたが、昭和55年に世界で初めて南極での劇場用映画撮影を木村大作氏が敢行した映画『復活の日』(深作欣二監督)の場合、そこそこ当たった程度では巨額の製作費とつり合わず、失敗に終わりました。製作したのは角川映画と、やはりTBSだったのです。
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皇紀2671年(平成23年)12月24日
在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が故・金正日の国葬参列を名目に、現在対朝制裁措置として入港が禁止されている万景峰号の入港を認めるよう民主党議員らに打診していた問題で、さすがにこれを認めるわけにはいかない民主党は、彼らが空路で中共を迂回するのを黙認することで決着させました。
しかし、総連最高幹部の1人である許宗萬ら6人の再入国を認めないと発表してしまった政府は、つくづく頭が悪いとしか申しようがありません。
総連の事前申請は、政府による不許可を想定していたはずで、時間的制約もあって最初から許らが万景峰号を弔問用に使用する気はなかったはずです。
許らには渡航を黙認し、いざ再入国の段になって「禁止されているのをご存じないの?」とやってやればよかったでしょう。仮にも彼らが「人権」を持ち出せば、日本人拉致事件こそ重大な人権蹂躙だと訴えるべきです。そもそも彼らは祖国に帰ることが出来て何の文句がありましょうか。
つまり、許らは国葬に参列したくないのであり、ここに北朝鮮と総連の温度差が垣間見られます。すべてカネ絡みです。
北朝鮮に送金するような政党に、拉致事件解決の戦略と兵站を練ることなど出来ません。許らに好都合な言い訳を与え、ほかの在日朝鮮人が中共を迂回するのは構わないとしたのは、まさしくわが国の対朝制裁に抜け道があることを堂々と明かしたようなものです。
彼らの持つ弾道弾の部品・素材が、中共や露国を迂回して輸出された日本製品であることを見逃してきたのが、自民党と公明党(創価学会)であり、民主党にほかなりません。
よって、経済制裁を北朝鮮が恐れた形跡はないのです。彼らが本当に恐れたのは金融制裁だったのであり、その米国が打った拉致事件解決の好材料を台無しにしたのが民主党です。
このことは何度も申してまいりましたが、皆様も本気で怒って下さい。拉致被害者ご家族に、もうこれ以上長時間にわたる苦痛を与え続けてはならないのです。
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皇紀2671年(平成23年)12月23日
本日は天長節です。今上陛下は、昭和8年の御生誕から78年目の日をお迎えになられました。
▲YOUTUBE:世界最強の天皇陛下
現下、最も私たちが皇室に想うことは、祭祀の何たるかを知り、自ら実践することであり、何より雑念をお届けしてしまわないことです。
これは、特に東宮と秋篠宮にも想うことであり、軽率な宮内庁の情報管理を叱り、一切の雑音を発さぬよう厳に気をつけなければなりません。
皇室は「天皇制」ではなく、よって国家権力ではなく、まさしく祭祀であり、国家権力は司法・立法・行政の三権です。仮にも国民として、或いは労働者として何か不満を表明するならば、その相手は三権に対してであるのが当然で、臣民の自覚を持てば、祭祀を実践することによる國體(国体)の護持に務めるでしょう。
それは、文字通りの「平和」であり「協和」であり、また衆に及ぼすべき「博愛」なのです。
本日は、これ以外に一切の雑音を取り扱いません。ただただ「奉祝」なのであります。
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