鳩山乱入で反原発活動終了

皇紀2672年(平成24年)7月21日

 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120720-OYT……
 ▲讀賣新聞:鳩山元首相が抗議活動合流「再稼働やめるべき」

 一般市民を巻き込んだ首相官邸前での「反原発」活動を主催してきた各極左団体は、鳩山由紀夫元首相に抗議すべきです。わが国政治を迷走の淵へと陥れ、国内外から「莫迦」と非難されたこの政治家の乱入で、一瞬のうちに「反原発」活動の未来がなくなりました。

 そもそも鳩山元首相は、就任と同時に私たち国民ではなく連合国(俗称=国際連合)に対し、地球温暖化とされる不確定現象との因果関係が疑われている二酸化炭素の排出削減目標(すなわち日本が払うカネ)を突如高く設定して発表した際、拍手喝采の中にあって原子力発電の重要性を訴えていたはずです。

 発言を二転三転させる人物であることは申すまでもありませんが、またも彼が見事に私たちを騙しにかかろうとしているわけは、恐らく次の総選挙で落選するかもしれないと自覚し、この「反原発」活動に参加する万単位の極左団体構成員と彼らに騙された一般市民の票を当て込もうという算段に違いありません。

 しかし、彼の乱入で一般市民は引いていくはずです。だからこそ、今後は団体の参加強制が厳しくなるでしょう。よって活動そのものは維持されますが、私のように「現在の軽水炉型原発をやめよう」という主張の者すら決して同意できない活動だっただけに、その独占状態は自立した資源国家・核開発国家を目指す訴えの邪魔でしかありませんでした。

 どうぞ消えてください。騙されるというのは、騙す人間だけでは成立しません。騙された人がまた他の人を積極的に騙そうとし、互いに騙しあわない限り、この「悪」はうまれないのです。

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韓国産食中毒まねいた政府

皇紀2672年(平成24年)7月20日

 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120719-OYT……
 ▲讀賣新聞:韓国産ヒラメからクドア・セプテンプンクタータ

 米国食品医薬品局(FDA)が韓国産海産物の人糞汚染を突き止め、店頭での販売禁止を勧告したことは、ここでも六月二十日記事で取り上げましたが、読む方によっては「また韓国批判か」「保守とか言っている人はどんだけ中韓が嫌いなんだよ」とうんざりされるかもしれません。

 しかし、山形県新庄市で十八日に起きた韓国産平目による食中毒事件はそれほど単純な話でなく、実はわが国政府が昨年九月二十二日から韓国産平目にこれまで実施してきた精密検査を全面免除したことが引き起こしたものだったという情報があるのです。

 政府がこの判断に至ったのは、韓国農林水産検疫検査本部の主張してきた「検査にかかる通関遅延料(年間約三千八百万円)の削除要求」に応じたためで、これが事実であれば国民の食の安全を軽視した結果にほかなりません。

 わが国の衛生管理概念とまったく違う国からの食品輸入は、特に中共に対してもそうですが、徹底した通関時の検査をもって対応するのが当たり前です。それはたとえ日米友好を前提としても、例えば米国産牛肉の輸入に関して同様とお考えください。

 そして、わが国が世界中から信用される国家、農と漁の自給・輸出戦略を拡充するには、私たち自身の衛生概念を守り続けることです。にもかかわらず、このようなところで安全の底が抜け落ちたことは、政府の対韓「なんでも」緩和に私たちがあまりにも無批判だったことが原因だと自覚せねばなりません。

 何度でも申しましょう。食の安全に優先される日韓関係などない、と。

在韓大使館はもういらない

皇紀2672年(平成24年)7月19日

 http://sankei.jp.msn.com/world/news/120716/kor120716……
 ▲産経新聞:日本大使館新築計画、許可下りず 韓国「高度制限超える」

 在外公館の建設について、当該国の法律や規制、文化風土に従う必要があることは大前提ですが、在ソウル日本国大使館の新築計画に関して申せば、周囲に高層建築が立ち並んでいる中、二年前からの新規制運用とは言えわずか地上六階(高さ約三十六メートル)の建物すら許可しないとは、間違いなくわが国に対する嫌がらせです。

 まして、大使館の前にわざわざ不見識な銅像の設置を区が許可したことから始まって、旧朝鮮総督府のあった景福宮にほど近いわが国大使館がそれほど「目障り」ならば、いっそ政府は「もう在韓大使館を引き上げる」と発表すればよいでしょう。

 もちろんこれは駆け引きのうちであり現実的対応ではありませんが、実際に例えば在北京大使館へ機能統合し、外務省は嫌がるとしても大使を在中・在韓の兼任一名とすることは可能です。

 こうなれば本当に困るのは韓国に違いありません。この国が日米の援助なくして成立しないことを、彼らはあまりにも知らないのです。なぜわが国が老朽化した在韓大使館をそのままにしないのか、すなわち「日本は韓国との関係を大切にする」という意思表示を、韓国自身が拒否したのが今回の「新築不許可」通達ということになります。

 仮にも政府が対処できないとすれば、もう間違いなく大日本帝國憲法下で存在した交戦権の現状欠落が原因です。占領憲法(日本国憲法)では、相互理解を目的とした口げんかすらできません。交戦権がないということは、他国と実体のある友好関係を樹立できないということなのです。

聴取会への不信と博報堂

皇紀2672年(平成24年)7月18日

 http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2012071700412
 ▲時事通信:発言者選び、「改善の余地」=エネルギー政策の聴取会で-細野環境相

 政府が各地で主催した「エネルギー・環境の選択肢に関する意見聴取会」で、東北電力や中部電力などの社員らが数少ない発言者に選らばれていたことから、いわゆる「やらせ」の可能性が指摘されています。

 この会は、そもそもいろいろな立場や考え方の人から意見を聴取することが目的のはずですから、まさか全員が「原子力発電に反対」になるよう操作されることも許されません。

 ですから、私のような「国家・国土を守るために現在の軽水炉型原発への依存をやめる新しい資源採掘(日本は資源大国だ!)と核開発を」という立場の者からしても、ただただ原発推進(全体の二十から二十五%を原発で賄うという将来像)を唱えた電力会社社員の発言を一方的に非難するのはおかしいと思います。

 それでも聴取会の参加者が細野豪志環境相や古川元久国家戦略担当相(ちなみに、二人とも数年来の異常な移民大量輸入=外国人の人権軽視推進派)に対してさえ怒鳴りつける場面があったのは、この聴取会を博報堂に任せきりにした政府の失敗が原因です。

 仮にも電通が受け持っていれば今回の騒動が報道されたかどうかすら怪しいものですが、経産省資源エネルギー庁によると博報堂は聴取会の仕切りを七千八百五十四万円で落札しています。その結果、発言者の抽選結果が当日にならない限り本人に知らされないという不手際(というより最初からその程度の企画内容)が発生しました。

 そこで参加者に疑念が生じたのです。発言者の抽選って本当に無作為に行われたの、と。広告代理店へ依頼するにせよ、政府としての方針は代理店に伝えられており、その結果がこれということは、政府側が積極的に電力会社側の発言を引き出していたと疑われてもやむを得ません。

 なんて頭の悪い人たちなのでしょう。枝野幸男経産相の他人事みたいな批判……次は細野首相誕生? 冗談ではありません。最初から私たちの意見を聞く気もない偽善者の顔と名前は、しっかり覚えておくことです。

日本人が日本文化を冒涜

皇紀2672年(平成24年)7月17日

 http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012071600009
 ▲時事通信:「那智の滝」でロッククライミング=世界遺産、3人逮捕-和歌山県警

 世界文化遺産に指定されている熊野那智大社の別宮である飛瀧(ひろう)神社の御神体「那智滝(なちのたき)」に十五日、登山(登攀)家の佐藤裕介容疑者、大西良治容疑者と宮城公博容疑者の三人が無断で侵入のうえ登ったとして、和歌山県警察新宮署に現行犯逮捕されました。

 登山家にとってはわが国随一の滝にただ登りたかっただけかもしれませんが、印国のカランカ峰など世界各国で登攀実績のある佐藤氏ともあろう人が、不法侵入のうえ御神体を傷つけるとは、あまりにも伝統文化に対して無知・無神経すぎます。

 この飛瀧神社は本殿も拝殿もなく、那智滝を直接拝むわけですが、これは宗教ではありません。自然祭祀です。

 御神体を理解していない者は佐藤容疑者らの行為を軽く捉えるのでしょうが、崇拝すべき対象を傷つけたといったことではなく、彼らは自然を守ろうという祭祀そのもの、すなわち自然の恵みをいただいて生きる人類の営みを冒涜したと自覚しなければなりません。

 このようなこと自体を軽く考えるのかもしれませんが、それでは世界各国をめぐることなどできないのです。例えば泰国(タイ)で子供の頭を撫でてはいけませんが、これは宗教(テーラワーダ仏教)でなく自然の精霊(ピー)信仰からきています。それを「私は教育家であり、子供の頭を撫でて褒めよと広めている」などと押し通せば、必ず泰国の親たちに怒鳴られるか、殴られるかするでしょう。

 それどころか日本人自身が日本文化を傷つけるようになったのですから、天皇陛下と皇室についてだんだんと無知になってきたのも無理はありません。国体(國體)護持というのは、国家権力に盲従する類いの偏狭な愛国行為ではなく、祭祀を実践するすべての愛国心のことなのです。