皇紀2672年(平成24年)12月28日
西村眞悟衆議院議員が衆議院「海賊行為への対処並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する」(通称=海賊・テロ対策)特別委員会の委員長に就任されました。
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http://npn.co.jp/article/detail/16589588/
▲リアルライブ(週刊実話):国内で変異株出現・韓国ではキムチ751トン回収 年末年始が怖いノロウィルス・パンデミック
すでにご存知の方もおられると思いますが、わが国では目下ノロウィルス感染の報告が各医療機関から相次いでいます。これは非細菌性の急性胃腸炎を引き起こす病原体であり、極めて感染力が強く、一般的には外部接触による経口感染を徹底的に遮断するしか予防方法がありません。
帰宅直後のうがいや手洗いも重要ですが、感染しますと対症療法しかありませんので、皆様に於かれましてもくれぐれもお気をつけください。
この感染源についての報道はまったくなされていませんが、一つの可能性が厚生労働省によって確認されています。しかし、もう一度申しますが警戒を促す正しい報道がまるでありません。
http://www.mhlw.go.jp/topics/yunyu/other/2012/dl/121206-01.pdf
▲厚生労働省:通達 韓国産食品の取扱いについて
厚労省通達には、週刊実話が報じた「西安東農協・豊山キムチ工場」の名が明記されています。記者が「わが国に輸入され続けている」という疑念を抱いた韓国産朝鮮漬は、今月六日より回収(積み戻し)の指導が始まったようです。
ところが、私たち消費者に情報が届いていない現状は一体どういうことでしょうか。政府と報道各社は、インターネットを利用して厚労省通達を確認できる国民が一体何人いると把握しているのでしょう。これに報道の価値はないと思っているなら、文字通りの「人でなし」です。
さらに申せば、そもそも厚労省の腰が重いのも気がかりであり、前述の通り感染経路を遮断するしかないのに対し、輸入禁止を宣言した上で国内の感染実態を調査しようともしていないことは、まさに政府に対する国民の不信を買うでしょう。まだよく分からないというのが実態のようですから、それならそれで構いません。
以前にも申しましたが、現下の「反原発」論調の根底に流れているのは原子力発電そのものではなく政府に対する不信です。信じることのできない政府が安全を宣言する発電所など受け入れられないという国民的感覚こそが「反原発」の正体に他なりません。
食品安全の分野でこれを犯す政府に未来はないのです。だからこそ民主党政権は完膚なきまでに否定されたのですが、就任したばかりの田村憲久厚労相にお知らせしましょう。
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皇紀2672年(平成24年)12月27日
http://geopoli.exblog.jp/19713391/
▲地政学を英国で学んだ:グローバルvsローカル 価値観の対立
国際地政学研究所の奥山真司上席研究員が主宰されているブログに面白い記述がございました。彼は私と同い歳ですが、わが国が海洋国家であることを鑑みれば英国で地政学を学ばれたのは正しい選択でいらしたと思います。
奥山氏は、わが国が抱える主として対外的問題を局地的価値観で引きこもるよりも、国際的価値観にくるんで表に出してしまえ、と指摘しているのです。
確かに大日本帝國憲法はわが国の国柄を国際的価値観たる「憲法」に起草したものであり、もっと分かりやすく申しますと、例えば雅楽の素晴らしさを西洋楽器の楽団編成に加えて一つの楽曲にし、欧米の演奏会に出すというようなことでしょう。
私は子供の頃からヴァイオリンを習っておりましたが、室内管弦楽として童謡などを編曲し演奏したことがありました。これだと欧米人の耳にも届きやすいに違いありません。
ところが奥山氏の表現によれば、私たちはこれを「なぜか『うちらの特殊事情です』と言ってがんばってしまう傾向が強い」というわけです。局地的価値観はまさしく局地的なものですから、そのままではどんどん孤立していく、と。
この価値観は奥山氏も断っておられるように尊いものですが、もう一つ例を挙げて分かりやすく申せば、私たちが対人関係に於いて用いる「まぁ、それはナンですから」といった表現は、私たちの間で尊重される道徳観に基づくものであり、当然なのですが海外ではまったく通じません。これは私も外国人との交流経験から何度か指摘してきたことです。
北朝鮮による日本国民拉致事件、或いは沖縄県石垣市尖閣諸島や島根県隠岐郡隠岐の島町竹島、または北海道千島列島ならびに南樺太などの諸問題は、ただひたすら「日本国民の拉致」「日本固有の領土」という主張だけで国際的理解がわが国に得られるなど決してありえません。これまた何度もそう申してまいりました。
これらの問題を欧米友好関係国が理解しやすい国際的価値観にくるんで表に出すことで、一気に各国の論調が変わってきます。そのような発信力をわが国が持たない限り、決して解決しないのです。
わが国は大いにその力を期待されてもいますが、同時に世界最大の債権国家は破壊と略奪の好機を狙われてもいます。奥山氏の指摘通り、喧嘩の一手法として弱いふりをしてでも国際的価値観を振りかざさなければ、真っ直ぐ通れる道も通れないのが現実です。
出来ない原因の一つは、占領憲法(日本国憲法)の現行有効状態にあります。これこそ局地的にももはや通用しなくなった局地的価値観であり、海外では通じません。まずこのことに気づいてください。大日本帝國憲法を復原すれば、私たちは再び先人が苦心しながら近代国家を作り上げた頃の国際的価値観の感覚を取り戻すでしょう。新しい政権が「日本を取り戻す」と言うなら、これは必ず成すべきことなのです。
※ 本文中の主張は奥山氏の記述に材を得た私の見解であり、奥山氏の思想やそれに類するものを示唆するものではございません。
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皇紀2672年(平成24年)12月26日
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/121225/……
▲産経新聞:漫画「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さん死去 広島で被曝
漫画『はだしのゲン』で世界的に知られる漫画家の中沢啓治氏が十九日、広島市内の病院で亡くなられていたことが分かりました。衷心よりお悔やみを申し上げます。
いわゆる「保守派」の間では非常に嫌われてきた方ですが、私は或る時から氏のことも氏の作品に対しても彼らとまったく違う見方をしてきました。以前に少し取り上げています。それでもいつかきちんと書こうと思っていましたが、とうとう中沢氏のほうが先に亡くなられてしまい、何だか勝手ながら申し訳のない気分です。
皆様等しくおっしゃるとおり、私と『はだしのゲン』の出会いは小学校の図書室でした。一通りの偉人伝を読み終えた私は、漫画の希少性も助けて全校児童とこれを読み争い、とうとう夏季休暇中登校日の「平和学習の日」にアニメーション映画化された作品を体育館で観たのです。これらを仕掛けたのは恐らく日教組(現在和歌山県内では日本共産党系の全教のほうが多い)だったでしょう。
多くの女子児童は悲鳴を挙げ、中には気分を悪くして保健室に運ばれる同級生もおり、私も漫画と映画の相乗効果で原子爆弾に対する恐怖を夢に見るまでのものにし、当時はまだ米ソ冷戦下でしたから「核戦争で人類は滅ぶかもしれない」と本気で思いました。街で硝子張りの建物を見ただけで核爆発時の惨状を想像し、怖くなったものです。
しかし、中沢氏の被爆体験は私たちのこの恐怖以上のものだったのであり、過剰描写などの指摘はあるものの子供の頃の印象的体験として描かれた『はだしのゲン』が優れた漫画作品であることに違いはありません。敢えて申しますと、所詮は漫画であり映画なのです。
『はだしのゲン』にとって最大の問題は、国家転覆を目的とした革命のための道具を探し回ってきた極左の破壊活動団体がこの作品を舐め倒し、思いっきり悪用したことに他なりません。そして、中沢氏も幼少の頃の無知につけ込まれて利用されたと思います。祭祀を司られる皇室を「天皇制」と異称し、これに大東亜戦争すべての責任を被せるという持論も、私には後付けだったように思えてならないのです。
所詮は……されど漫画であり映画であり、世界各国の政府がそうしたようにこれら表現は戦意高揚の道具に利用されました。わが国にもあったこの過去を批判しながら破壊活動家たちは、『はだしのゲン』を「反皇室・反国家」の国民的意思高揚を目標に掲げて悪用し続けたのです。
私には、作品に登場するゲンの父親が、大地に麦を育て、子が強く育つよう祈りながら、拷問されても国家崩壊を阻むべく戦争に反対した愛国者に見えます。そして「敗れた」とされたわが国の民として反骨精神を露わにした作風は、ゲンの成長とともに極めて非主流の躍動的なものへと変わっていきました。そこが極左につけ込まれやすかったのでしょう。
私たちの多くは中沢氏を笑えるでしょうか。批判できるでしょうか。己の無知につけ込まれてまんまと利敵の主張を展開していることはないでしょうか。この顛末に右も左もありません。かえすがえすも私は中沢氏のご冥福をお祈りせずにはいられないのです。本当にお疲れ様でした、ありがとうございました、と。
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皇紀2672年(平成24年)12月25日
http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2012/12/23/……
▲聯合ニュース(韓国):中国の大陸棚境界案 韓国側に拡張=韓日と対立も
米連邦議会の上下両院は二十、二十一の両日、沖縄県石垣市尖閣諸島を日米安全保障条約第五条の適用範囲とする条項を盛り込んだ国防権限法案を賛成多数で可決しましたが、ここで重要な決定事項は在日米軍海兵隊の瓜姆(グアム)島への移転費用の満額復活です。
この移転を補うわが国自衛隊の防衛力強化がなされるのであれば問題はありませんが、占領憲法(日本国憲法)の有効を前提とする限りそれは恐らく議論されません。だから占領統治体制保守の議論は米軍との共闘ではなく、米軍への依存に終始するのです。
地政学的に太平洋防衛の観点から、沖縄県に在日米軍を置かないという選択はありえません。しかし対等安保でない以上、在日米軍はまるで占領統治期の駐留軍を維持し、わが国独自の外交ができないのです。
中共に対していわゆる「強い外交」が難しいのは、決して中共の卑劣な対日工作が効いているだけでなく、米国政府の要請を受けてしまうこともありました。前回の安倍政権を潰したのは、海上自衛隊による印度洋上の給油活動延長措置を巡る国会運営を行き詰らせ、米国政府の不信を買うよう安倍晋三首相(当時)を陥れた「自称・保守政党」自民党そのものの仕業です。
安倍首相を追い込んだ勢力はわが国の自称・保守派だと私が申したのは、このような経緯が明白だからに他なりません。単に安倍次期政権というのではなく、今度こそ自創(公)連立政権を決して甘やかしてはいけないと警告しているのは、私がこの再来を最も嫌悪しているからであり、まさにもう一度同じことが起きれば確実に安倍次期首相の政治生命は失われてしまいます。だから「竹島の日」などを巡って自民党を批判すべきは批判しなければなりません。
韓国政府が、朝鮮半島に関心を失い始めた米国と、詰まるところ国難に際して非難の対象となる日本を見限って中共に寄っていったのは、中共の領土領海拡張路線を知って怖いからに他ならず、大陸棚延伸という海洋学上通用しない妄言をまかり通す彼らの姿を見て「争ってはならない相手」と見たからです。
それでも韓国政府とて蘇岩礁の権益などを中共に譲る気はありませんが、寄れば日本や越国や比国に対するような扱いは受けないだろう、或いは受けないよう交渉できると思っています。これは大変な間違いで、わが国政府がこれまで中共に試みてきた深謀遠慮もすべて実を結びませんでした。韓国はこのままでは必ず「宗主国」に呑み込まれ、屈辱の限りを受け消えてなくなるでしょう。
韓国は今こそ日米と共闘して中共の恐るべき野望を打ち砕くべきですが、新しい大統領も現状路線を継承すれば前述の対中外交に追われ、結局島根県隠岐郡隠岐の島町竹島を返せば済むことさえできずに終わります。安倍次期首相が特使を韓国に派遣しようとしているのは、この動きを止めるためでしょう。
ところが「竹島の日」までも政府主催にできないよう彼の足を引っ張り、特使の話さえケチがついたように話したがる自民党関係者こそが実は日米韓の連携を阻んでしまうのであり、わが国が毅然としない限り韓国は中共を頼ることを絶対にやめません。これが分からない者は、外交・安保に口を出してはならないのです。
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皇紀2672年(平成24年)12月24日
【コラム】 絶対王政と絶対個性
今ではすっかり王室が一番卑しい存在になった、
いちいち国民に気を使わなきゃならん、と。
平成二十二年に英国が製作した映画で『英国王のスピーチ』というのがある。監督は私と同い歳のトム・フーパーで、現在公開中の『レ・ミゼラブル』も撮った。気のせいか彼の演出はアニメーションの押井守監督に似ている気がする。画の撮り方がそうなのだ。
まぁそんなことはさておき、英国王ジョージ六世の物語はコリン・ファースとジェフリー・ラッシュの名演もあって実に面白かった。英国王室というのはいわば欧州の中心、大陸側からすれば僻地の新興勢力であり、取るに足りない。なんてなことを言っていたら仏国の王室が倒され、ハプスブルク=ロートリンゲン家も皇位を失い、保守的なバイエルンの地にあったヴィッテルスバッハ家でさえもその地位を追われてしまった。
今や皇室は世界の中でわが国にしか残っていない。しかも欧州型の権力者ではない皇帝というのは他に類例がなく、天皇陛下は祭祀を司られるご存在だ。
しかし、王室というのはそもそもその国家の絶対権力に始まっており、英国が欧州で幅を利かせ出したのもエリザベス一世が戦争の指揮を執り勝利した時からだと申して過言ではなかろう。それまでは本当に僻地の王室だった。
そんな中、ジョージ五世の台詞が実に興味深い。英国民に語りかける放送を収録し終えた後、幼少からの吃音に悩み消極的な日々を過ごすヨーク公、すなわちのちのジョージ六世に父王がおっしゃるのだ。今ではすっかり王室が一番卑しい存在になった、いちいち国民に気を使わなきゃならん、と。
民主主義だと皇室も王室もこうなる。神聖ローマ帝国のマリア・テレジアらは啓蒙専制君主を唱えたが、仏革命でマリー・アントワネットとともに処刑されてしまったルイ十六世とて決して絶対王政にふんぞり返っていたわけではない。それでも現世個人の理性を絶対とするならば、王室は消された。
エリザベス二世の代になって英国王室が下賎な報道の視線の先に置かれたのは誰もが知るところだろう。それを「開かれた王室」と言うのだが、そうだろうか。まさしくこの映画の中でジョージ五世がおっしゃったように、ただただ最も卑しい存在に成り下がっただけだ。
その国が弱った時、或いは苦しい時、皆が病める時、特に精神的支柱となるのが皇室や王室の存在だろう。だから今でも爵位を持つ領主たちは災害などの発生時、領地内に住む人々のための巨額の寄付をする。でも知事や市長ではないから政治的実権はない。
東日本大震災の時、被災地では菅直人首相の訪問に罵声が浴びせられたが、天皇陛下と皇后陛下が跪かれて被災された人々に寄り添われたのを見て、或いは流された玉音放送、あの自衛隊員や被災者らを励まされた放送ね、あれを見て私はやっぱり代々より皇統を相続したことの深い意味に気づいたわけよ。
「オレ様の気分はハッピーハッピー」なんぞという程度の理性で仮にも皇室が潰されるほど莫迦らしいことはない。英国王室はエリザベス二世のあとに相当の苦難が待ち受けているだろう。それは自分たちが蒔いた種だ。わが国に置き去った占領憲法の基本である欧米型民主主義というのは、国という大きな家にとってシロアリのような存在であり、私たちの思考回路を「絶対個性」に陥らせる麻薬でしかない。
文=遠藤健太郎 (真正保守政策研究所代表)
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