京都対韓ヘイト動画の正体
第4回 救国の提言講演会・東京「どうなる日本、どうする日本」
日 時 5月13日(土曜日)午後18時より(開場10分前)
場 所 文京シビックセンター5階会議室A(地図は施設提供の案内図を参照)
講 演 「憲法」と「小池ファースト都議選問題」「朝鮮半島問題」「デフレ問題」
そして「皇室典範問題」
遠藤健太郎 一般社団法人日本政策協会理事長
西村眞悟前衆議院議員、故・三宅博前衆議院議員からのメッセージもご紹介
未公開情報、平成二十六年の未配信記事も特別配布
参加費 1,000円(資料代・お茶代込み)
申込み 参加お申し込みページより
ご氏名、参加人数をお知らせください。(送信は一回)
万障お繰り合わせの上、ご参加ください。
本日は、子供の日(端午の節句)です。公式には、子供を「こども」と表記するようですが、現在でもグレゴリオ暦の五月五日以外に旧暦で子供の元気な成長を祈る儀式をする地方があるといいます。
端午の起源は、楚の国にあり、決して朝鮮半島にはありません。また、現在の中華人民共和国は、楚以来の歴史的継続性が一切ない新興の共産党国家です。
わが国では、もともとあった「五月忌み(さつきいみ)」という田植え前の穢れ払いの儀式と楚起源の端午が結びつき、現在の形になったと言われていますが、そもそも五月忌みは「女天下」という、女性を戸内に守って特に家の中を取り仕切ってもらう女性のための節句でした。
これが日本の文化であり、女性を家に「閉じ込める」ことが「女性差別」だなんてとんでもないのです。何度でも申しますが、それを「一億総活躍」「女性が輝く社会」と称して(もちろん外で働きたい人を別にして)何が何でも女性を戸外に出し、一方で「少子化対策」と称して何度も出産させようというのは、あまりにも女性をないがしろにしてはいまいかという指摘があってもよいはずでしょう。
どうか日本の全ての子供たちが健やかに育ちますように。
https://youtu.be/0c5ejRMx_5E
▲YOUTUBE 민성님팬민성애청자:일본 여행 방송중 혐한 일본인
さて、三日にこの動画を拝見し、どうも(直感で)様子がおかしいので、しばらく情報を集めておりましたが、やはりこの動画は配信者に問題があるようです。
とはいえまず、初見の感想を申せば正直「ひどい」と思いました。よって事情を知らない多くの人は、さだめし同じように感じたでしょう。かつて日本人が仏パリ市内のレストランで、端っこの薄暗い席にわざと通されたというような話を思い出すほどでした。
私たちは、いきなり他人種を明らかに侮蔑するような態度をとるべきではありませんし、そのようなことを憚る民族だったはずです。
しかし、韓国人はヘイトスピーチをやめますか? 日韓併合条約締結の事情すら一方的に対日ヘイトにし、七十年以上も「日本人は全員死ね」「日本国は海に沈んでしまえ」と私たちに向かって吐き捨ててきました。それに乗っかる(例えば自称人権派弁護士や朝日新聞社記者のような)日本人までいたのです。
そうして醸成された対日ヘイトの結果がこれではないでしょうか。哀しいことですが日韓対立ビジネスは存在しており、一見すると「優しい」「自己反省を促す」ような対日批判こそ人間の憎悪感情を扇動する道具(反日)でしかないのです。
以前申したように私は、十数年前から韓国の映画やドラマ、バラエティー番組を見ていますが、この動画の配信者である「韓国人俳優ユ・ミンソン」氏を知りません。
どこの事務所に所属しているのか存じませんが、このような「自撮り配信」を許すような芸能事務所が韓国にあるとも(韓国の結構厳しい芸能事情を知る限り)思えないのです。
私が彼を知らないのはともかく、韓国国内でも「二十五歳を自称しているが本当は三十七歳で無職」との指摘があり、さらに調べると「頻繁に訪日して韓流俳優を名乗り日本人女性を誘惑(ナンパ)している」らしく、彼の食い扶持になっている有料配信の部分でその破廉恥な様子が流れているといいます。
資料 クリックして画像を表示
その警告がここ(上記画像参照)に掲げられた三人の訪日韓国人であり、韓国人の中から彼らを危険視する声が上がっているのです。
もちろんこれをもって対韓ヘイトが正当化されることはありませんが、訪日韓国人の行ないに憔悴し始めた日本人がいるのも確かで、この動画を公開したユ氏に「これだから日本は悪口をいわれるんだ」だの「自分は日韓交流のために動画を配信してきたのに」だのといわれるのは、強烈な違和感を禁じえません。
この動画がもつ或る種の嘘臭さは、いきなり「居酒屋ですか」と尋ねた男を見てすぐ韓国人と分かった男性客の存在であり、自作自演ではないかとまでいわれています。或いは、その訛り方ですぐに韓国人と分かるのがさすがの京都市民、とも申せましょう。
報道各社もこの動画の件を取り上げたようですが、単に「かわいそう」で終わるよう伝えられる話ではなかったのです。