日本海呼称、油断するな!

皇紀2672年(平成24年)8月9日

 本日は昭和二十年八月九日に米軍が長崎市へ原子爆弾を投下、一瞬のうちに約十万人の市民を大量虐殺してから六十七年目にあたります。

 ところで、七日記事で申したとおり自民党は「何となく合意体制が続く」道を選択しました。もう民主党も自民党も創価学会=公明党もおしまいです。どうぞ消えてなくなってください。増税法案が通っても施行前の総選挙で思いっきり拒否の意思を表明しましょう。

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 http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK20120807……
 ▲東京新聞:「日本海」呼称そのまま 国連地名会議

 一部の保守論壇では「大勝利」などと伝えていますが、連合国(俗称=国際連合)が開いた第十回地名標準化会議の結論は、まずこの会議が厳密には海域呼称を話し合う場ではないということ、そして日本と韓国・北朝鮮で話し合ってくださいということでした。

 つまり、連合国は韓国・北朝鮮が勝手に「東海」呼称の併記をわめきだしたことに対して「うるさいからよそでやって」と言いはしたが、わが国の主張が全面的に認められた結果として日本海単独呼称に決まったということではありません。

 決して安心してはいけないのです。朝鮮半島の一国一地域がこれほど執拗に国際水路において聞いたこともない名前を持ち出してまでわが国を貶めようとしている現実を私たちは直視し、日本海の名を守り抜くよう今後一層戦わねばなりません。

 そのためには私たち一人一人が声を上げることこそ重要であり、本当はこの問題に何らの興味も抱いていない欧米人に「日本海と名づけたのは欧米の探検家たちであり、偉大な歴史認識である」と説明していかなければならないのです。むろんこの件では中共や東南亜諸国の応援も必要になります。

 もう一度申しますが、油断するな!

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瓦礫バッヂと開会式の真相

皇紀2672年(平成24年)8月8日

 http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/2ebd36d7da3d85d950……
 ▲原発問題:選手がつけた福島の瓦礫製のバッジ ”放射能がれき持ち込みを問題視した英BBCが生放送し、強制退場”

 私の元に上記ブログ記事内容の真偽を問う声がいくつか寄せられました。倫敦五輪大会の開会式はまったく見ていなかったので日本代表選手団だけが入場行進のまま退場していたことは知りませんでしたが、結論から申しますと「放射能云々」は嘘であり出鱈目です。

 民主党の野田佳彦首相がもはや政治思想の左右を問わず「引きずり下ろし」の対象となっていることは申すまでもありませんが、実は消費増税反対の私たちよりも、現有原子力発電所再稼動反対の極左団体のほうが怒りの度が過ぎているのではないでしょうか。

 実はここで問題なのは放射性物質の付着したいわゆる「福島県内の震災瓦礫」ではなく、いくつかの報道や環境省の発表どおり、政府から選手団に対して配布された「お守り」は宮城県石巻市と南三陸町の小中学生が流木で作ったものだということです。

 中央省庁の発表にはそれこそ建前と中身が違っているものもありますが、こればかりは本当に宮城県の子供たちが作ってくれたのですから嘘のつきようがありません。

 また、約四十人の選手団が退場となってしまった場内誘導の手違いについて、倫敦五輪組織委員会から謝罪があったことを自民党の橋本聖子参議院議員(副団長)が共同通信の取材に答えています。

 なお、英国放送協会(BBC)は「日本選手団がつけた震災瓦礫バッヂの放射性物質付着の可能性を問題視した」という件の放送などしていません。現にこのような番組を見た人は誰もいないのです。

 福島県外に運び出すべきでない瓦礫の最終処分や使いものにならないと分かった現行軽水炉型原発についての私の意見を繰り返すつもりはありませんが、無責任な対応しかしない民主党内閣に対する怒りはこのような流言飛語を信じたがる人たちと恐らく多少なりとも共有しています。何か疑う余地があればとりあえず信じると仮定してみてもよいでしょう。

 しかし、事実に基づかない恐怖に思わず目を閉じて思考を停止させ、何も疑わず信じてしまう嘘や出鱈目の類いがどれほど罪深いものか、よく考えてみてください。私たちは暮らしの防衛のために自立した資源開発と核開発をしなければなりません。「お国に騙された」を言い続けてどうしたいのですか。

自民党で機能する占領憲法

皇紀2672年(平成24年)8月7日

 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120806/stt120806……
 ▲産経新聞:腹くくった谷垣氏 解散確約を優先、強硬作戦決断のウラに小泉元首相

 私は一貫して「税と社会福祉の一体改革」をめぐる民主、自民、創価=公明の三党合意を批判してきました。こんな合意に対する私たちの沈黙は、たとえそれが「諦め」からくるものであっても同意とみなされるのです。皆様は本当にこれでいいのですか?

 消費増税案にいくつもの嘘があることは何度も申してきましたが、社会福祉制度の充実に予算が編成されなおすというのもまったくの出鱈目です。自民党も公明党もいわゆる「土建屋利権」に予算を配分するつもりでしょう。最終的には民主党もこれに同調するはずです。

 わが国の社会基盤(インフラストラクチャー)は各地で老朽化し始め、もはやいつどこで水道管やガス管が破裂するか分かりません。ですから公共事業に投資して仕事と雇用を増やし、お金の流動性(まず資源関連産業を興して日本銀行に円を増刷させねばならないが)を高めることに私は賛成ですが、私たちを騙してやる、もっと申せば政治が或る程度の批判覚悟で大きく発表してからやらない限り同じことでも景気回復効果は薄まってしまうのです。

 これほど大事な議論をすることもなく、三党合意をめぐって自民党内の意見が割れ始め、公明党は自民が内閣不信任決議案を提出する可能性に自制を求めてあくまで未来のない民主党と心中しようと呼びかけています。

 森善朗元首相は清和会内部の取りまとめに嫌気がさし、谷垣貞一総裁を応援することで逃げましたが、小泉純一郎元首相のたわ言に耳を傾ける前から彼らが決断すべきは、民主党の増税案に反対して戦うことだったのです。

 恐らく明日八日が注目すべき一里塚となるでしょう。谷垣総裁は「俺に喧嘩を売っているのか」とまで民主党を非難したのですから、売られた喧嘩は買えばよいのです。八日に採決しないなら不信任案を突きつけて徹底的に戦ってやる、と言えば彼は「民主党を撹乱するために三党合意をやった。最初から国民のために賛成するつもりはなかった」とでも何でも釈明すればすみます。

 これができなければ私が何度も申してきたとおり自民党はおしまいです。あのような「占領統治体制保守の売国政党」は潰れてくれたほうがよいのですが、私たちが二十年も苦しみ続けてきた給与・物価下落(デフレーション)経済をどうにもする気がない民主党を叩き潰せるなら「もう一度見ててやるからやってみろ」と言いたい。

 しかしながら、自民党の執行部にはもうこれをやる余力はないでしょう。八日に採決されるか、されずとも何となく合意体制が続くか、いずれにせよその瞬間に政党政治の崩壊は決定的となり、また「隠れ共産主義者」が大政翼賛会のようなことを言い出すに違いありません。その正体は三党連立か大阪維新の会による国会占拠かもしれないのです。

 占領憲法(日本国憲法)は米軍や中央情報局、或いは「反共」を標榜した統一教会と手を組んだ自民党による一党支配によって機能するようできていたのであり、それ以外の政党が三年以上も政権を維持して機能するようにはできていません。だから民主党は連合国(ここでは世界銀行や国際通貨基金)を背景にした財務省の言いなりになって自民党化する他なかったのであり、国家主権を取り戻したわが国がこれを「憲法」と呼び続ける限り皆様の信じる「私たちの意見が反映される政治」など妄想に過ぎないのです。

 実際これまで「日本新党に乗った」「小泉に乗った」「民主に乗った」と騒いで投票してきた私たちの選択はどれもこれも間違っていたではありませんか。憲法制定過程の元を正さないから間違いを繰り返すのです。

広島、67年目の原爆忌

皇紀2672年(平成24年)8月6日

 http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012080400097
 ▲時事通信:トルーマン孫、慰霊碑に献花=原爆忌に合わせ来日-広島

 大東亜戦争末期、わが国の対戦相手国の一つだった米国のフランクリン・ローズヴェルト大統領が急死したことに伴い副大統領だったハリー・S・トルーマン大統領が昭和二十年に原子爆弾の使用を決断し、八月六日に広島市へ投下、一瞬のうちに約十万人の市民を大量虐殺して本日で六十七年目を迎えました。

 私たちは毎年この日に「核兵器のこと」や「これからの日米関係」などを考えるのですが、本年はトルーマン元大統領の孫であるクリフトン・トルーマン・ダニエルさんが平和祈念式典に出席しています。

 彼はいくつかの取材に対して「米国史の本では“原爆は戦争の終結を早めた”と学んだが、視点を変えればさまざまな議論があり、結論づけることはできない」と答えており、主語の不明確な原爆慰霊碑を前にして「一つの国や民族ではなく人類全体の願いだ」と説明を受けると深くうなずいたそうです。

 わが国の政治家や政治活動家らが中韓へ出かけていって勝手に謝罪してくることについて、賛否両論の相互非難合戦が始まるのは毎度のことですが、被爆された方々の想いがさまざまにあることを承知で申しますと、私は米大統領やその関係者らに謝って欲しいとは思いません。大東亜戦争は終結手続きをすでに終えています。

 クリフトンさんの発言は決して「反米」的ではありませんし、彼は「さまざまな見方がある」と言っただけで「反米」米国人に当たるとも言えません。それは連合国の勝利に伴う米国の立ち位置によるところも大きいですが、あの戦争に関わったすべて先人たちの行ないの全否定を一切していないことこそ私たちが注目すべきことなのです。

 漢民族や朝鮮民族の「死者に鞭打とうと墓を掘り返して遺体を破損する」といった考え方に私たちはさんざん苦しめられてきましたが、これからは毅然とこれを跳ね返さねばなりません。その上でしか「反核」或いは「核兵器の全廃」を目指す議論などできようはずもないのです。

 「核開発」と「核兵器の開発」はまったく別であることも申し添えておきますが、政治思想によって米露中の核兵器のそれぞれを「きれい」「汚い」と言い合ってきた私たちは、もう一度この日にわが国の自立を考えようではありませんか。自立している者の発言には真実があり、そうでない者の発言はほとんど無意味なのです。

今こそアール・ヌーヴォー

皇紀2672年(平成24年)8月5日

【コラム】

アール・ヌーヴォーってのは、
 革命に対する反抗的芸術運動だった、と。

 英国で「産業革命」が起きたのはわが国の宝暦から明和にかけてのころ、つまり西暦で言えば千七百六十年代でありますが、七年戦争の終結によって仏国が英国に工業化の優位を持っていかれたのがきっかけですね。資源をとるための植民地とか。

 それでまぁ英国はドドーンといくわけですが、わが国でも明治維新があって産業の工業化が進んで、大正三年に第一次世界大戦が起こります。それを境にちょっと待てよ、と。ハタと気づけば自分たちの身の周りには画一化された何の変哲もない大量生産品が並んでたわけよ。

 革命がもたらしたのは装飾を否定した安物ばかりで、そりゃ「モダンデザイン」なんぞともて囃されもしたでしょうが、これに反抗したのが「アール・ヌーヴォー」だったのです。その起こりもやっぱり英国だった。

 私がアール・ヌーヴォーと聞いて真っ先に思い出すのはハプスブルグ帝国時代のグスタフ・クリムトなんだけど、本当は英国の「アーツ・アンド・クラフツ運動」が先駆けなんですね。彼らは英国人らしく何事にも厳正でうるさいのですが、仏国では工業化の象徴となった鉄なんかも表現素材として平気で使っている。

 で、今日は何が言いたいのかって。まぁ要は今こそ「第二次アール・ヌーヴォー」を起こす時じゃないのか、と。それほど今は新自由主義経済が蔓延して、企業も当然のように安い労働力を求めて新興国を食い荒らしてきたんだけど、ふと見回せばつまらぬ品々と出鱈目な金融派生商品しか残っていなかった。実体もないのにユーロの信用に支えられた希国の正体に今ごろ騒いでみてももう遅い。

 こんなことで人類は本当にいいのかね。クリムトがウィーン分離派になるきっかけは、或る大学の講堂天井画を依頼されて理性の優位性を否定した作品に仕上げたからなのだが、アール・ヌーヴォーってのは皆様もご存知の通り、自然に着想を得たフォルムの真正性によって成り立っている。

 植物のもつ曲線などを生かしたこの流れはのちに「アール・デコ」へと受け継がれていきましたが、私が最も気になるのは「振り返れば悪趣味な装飾の流行に過ぎなかったか否か」といったことではなくてね、なぜ欧州の人々が自然の洗練されたフォルムに回帰したのかということなんですよ。それこそが重要である、と。

 人間は或る合理的な発見をすると革命を起こしてきた。ところがこの「革命」ってやつは大抵俗悪で役に立たない。仏革命もいわばブルボン朝に対する衆愚の嫉妬が原因で、個人の自由とかナントカはそれを正当化するための道具でしかなかった。ジャン=ジャック・ルソーの社会契約説もそう。

 一見よさそうなんだけど飛びついてしばらくすると酷い代物であると分かる。それで帰るところはやっぱり自然の法則なわけで、個人の理性を絶対視する社会の間違いに気づくわけです。英国のアーツ・アンド・クラフツの考え方もそこにあった。

 只今ファスト・ファッションの大流行ですが、こんなものは長続きしませんね。もしパリの百貨店に行って安物の大量生産品が置かれていたら、あなたはどう思いますかって話ですよ。日本の百貨店が駄目になり始めたのは、ニーズを捉えることはおろかニーズを作り出す能力を失って店舗面積をテナントで埋めだしたからです。

 機械が作る回転寿司で人間が満足するってのは実はとても恐ろしいことなんだけど、もうほとんど誰も気にならなくなっちゃった。アール・ヌーヴォーにも影響を与えた「ジャポニスム」を日本人自身が忘れてしまったとすれば、それは間違いなく天皇陛下の自然祭祀を忘れたためだろうと容易に想像がつきます。

 私たちはもう一度、自然に畏怖の念を抱いてきた自分たちの国柄を見つめなおす時なのです。それは決して偏狭な国粋主義への誘いではなくて、人間の周りをよく見ることでしか疲弊しきった社会の再生はありえないからですよ。

 文=遠藤健太郎 (真正保守政策研究所代表 大阪芸術大学元副手)