ウイルスの侵入を許す政府

皇紀2670年(平成22年)5月19日

 平成7年製作・公開の米国映画『アウトブレイク』は、ザイール(現コンゴ民主共和国)から米国に持ち込まれた極めて致死性の高い出血熱をもたらすウイルスと、その爆発的感染保身のために隠蔽しようとする米軍上層部と闘う人々を豪華キャスト(ダスティン・ホフマン、レネ・ルッソ、モーガン・フリーマンら)で描いて大ヒットしました。監督は、独国出身で『Uボート』『ネバーエンディング・ストーリー』『エアフォース・ワン』などのウォルフガング・ペーターゼンです。

 昨年にも、韓国で無許可の編集(内容の改ざん)版公開が問題となった日本映画『感染列島』(監督=瀬々敬久 主演=妻夫木聡、檀れい)が発表されましたが、わが国では昭和55年、米軍によって極秘開発・隠蔽されたウイルス兵器によって人類がほぼ絶滅するという小松左京原作の『復活の日』(監督=深作欣二 主演=草刈正雄、オリヴィア・ハッセー、ジョージ・ケネディ)が製作・公開されて話題になりました。

 ウイルスのような目に見えぬものの侵入を映画で表現するのは本来難しいのですが、感染する人々の苦しみが或る種の恐怖表現となり、観る者を震撼させます。そして、必ずと言ってもよいほどつきまとうのが、軽率にウイルスを持ち込む愚か者と、情報を隠蔽する国家権力の存在です。

 発生から1ヶ月が経とうとしている宮崎県内の畜産農家たちを著しく疲弊させた口蹄疫は、メディア報道が画一的で、私たちの「どこから? なぜ? 何をしているのか? これからどうなるのか?」の問いに答えるものがありません。

 「何をしているのか?」については、13日記事で県下の農家の方から頂戴した情報の一部を書きましたが、これについては目下の報道も取り上げています。「これからどうなるのか?」については、まさに鳩山由紀夫首相や赤松広隆農水相らが答えなくてはいけませんが、初動体制の大いなる誤りを認めない内閣に一切期待できません。

 問題は、この口蹄疫が「どこから?」来たもので、「なぜ?」これほど感染拡大してしまったのかということでしょう。これをズバリ報じているメディアがほぼない(※後述)ので、推論の域を出ないことをおことわりして簡単にまとめたいと思います。

 まず、私たち日本国民の広く知らされていない状況下で、近隣国・韓国で口蹄疫が爆発的に感染していたことは確かです。それを警告していた自治体がありました。例えば、長野県は公式にその情報を1月8日・20日、4月12日に発しています。

 http://www.pref.nagano.jp/nousei/tikusan/eisei/fmd/fmd1.htm

 ▲長野県公式ホームページ:口蹄疫情報 (ページ下部のPDFファイル)

 農林水産省も同様のPDFファイルをリンクさせており、やはり宮崎県での発生(4月21日)以前に韓国での感染確認を発信していました。あとは、この韓国で発生したO型ウイルスと、宮崎県で牛や豚が感染しているウイルスが同型かどうか、ということでしょう。

 http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20100507-OYT1T00974.htm

 ▲讀賣新聞:宮崎の口蹄疫、韓国・香港のウイルスと酷似

 このように報じられているのですが、どうにも各社とも小さな記事でしかなく、少なくともテレビメディアが「なぜ?」持ち込まれたのかについてまるで追及する姿勢を見せません。ここには、軽率にウイルスを持ち込む愚か者と、情報を隠蔽する国家権力が存在しているはずなのです。

 まったくの未確認ですが、以下の記事が本当に農家の断末魔の叫びだとすると、口蹄疫対策に足りないと私も聞かされていた消毒薬ビルコン(独バイエル製薬)のストックを増やし始めた中共や韓国をよそに、日本の鳩山内閣はまったくの無策で、しかもこの期に及んで農水省保管の5000本のビルコンの放出要請に赤松農水相が許可を出さないと言います。

 http://tokiy.jugem.jp/?eid=645

 ▲たまねぎ通信:【拡散希望】 宮崎の口蹄疫・現場の叫び

 これには、宮崎県選出の民主党代議士が韓国から本年1月、口蹄疫発生区域(京畿道抱川市)として受け入れを断わった熊本県の農家にかわって韓国人研修生を宮崎に斡旋したといったような噂までありますが、まったく真贋がはっきりしていません。しかも、抱川市で発生していたのはA型ウイルスとの情報もあり、ならば感染経路は別にあるかもしれないのです。

 映画でも描かれているように、軽率にウイルスを持ち込む愚か者と、情報を隠蔽する国家権力ほど恐ろしいものはありません。「なぜ?」というのは、鳩山内閣もメディアもまともに答えない・応じない・報じない理由こそ知りたいものです。

 http://sitarou09.blog91.fc2.com/blog-entry-176.html

 ▲【日本を】『日本解体法案』反対請願.com【守ろう】

  意見書文例:韓国から伝染し国内へ上陸した「口蹄疫」への対処をお願いする与野党議員への意見書 *利用、改変可*

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込められた権力批判が…

皇紀2670年(平成22年)5月18日

 昭和62年製作・公開の日本映画『竹取物語』は、わが国最古とされる(平安時代前期?)の古典をベースに、かぐや姫の物語を東宝の特撮技術(本作を最後の仕事とした、『日本沈没』昭和48年版や『ゴジラ』昭和59年版などの中野昭慶特技監督)を用いて描いた市川崑監督作品です。

 市川監督といえば、私は『犬神家の一族』や『細雪』を取り上げたいのですが、それは後日としましょう。恐らく市川監督は、凛として美しく、ときに激しく気丈な女性を描こうと、『細雪』の蒔岡雪子や前作『映画女優』の田中絹代(ともに吉永小百合)の系譜として本作のかぐや姫(沢口靖子)を登場させたに違いない、と私は思うのです。

 思えば、市川映画に登場する女性はほぼそうであったように思います。本作製作のころには亡くなられていましたが、妻で脚本家の和田夏十(わだなっと)さんのイメージなのでしょうか。例えば、和服美人が勢いよく部屋を出ると、ふすまに裾が挟まっており、それを女が向こう側でこれまた勢いよくスっと引くといった場面が、私の好きな「市川演出」なのです。

 ですから、本作に古典『竹取物語』に関する研究成果の描写を求めるのは間違っているかもしれません。『細雪』の蒔岡姉妹を包み込んだヘンデル作曲の歌劇『クセルクセス』の『オンブラ・マイ・フ』を再び音楽に使用(本作では谷川賢作が編曲)したことからも、やはりかぐや姫を描きたかっただけの映画なのでしょう。しかし、それにしても雑な構成だったように思えてならないのです。

 今日の研究では、第40代の天武天皇と第41代の持統天皇に仕えた藤原不比等らを指し、このころから始まった藤原氏の絶対権力を批判したものだっただろうと言われています。ところが、本作ではあくまで帝(石坂浩二)が絶対権力者であるかのように描かれてしまいました。これではわが国のかたちに大いなる誤解を与えるでしょう。

 物語の展開を単純化すべく、実はいくらでも面白く描けたはずの古典に込められた権力批判を描かなかったことで、本作は非常につまらない子供騙しの映画になっています。

 羽衣伝説に材を得た異界からのかぐや姫を異星人と設定し、蓮の花をモチーフにしたという巨大な宇宙船が襲来する後半の見せ場も(初見の中学生のころは少しワクワクしましたが)今となっては何やら虚しく、当時全世界公開をうたった本作は決して大ヒットしませんでした。

 また、配役に関する批判も多く、特に竹取の翁(三船敏郎)と妻の嫗(若尾文子)がイメージに合わないとされ、これには私もどちらかと言えば小津安二郎監督作品のイメージを借りたほうがよかったように思います。例えば、笠智衆と(杉村春子ではトゲがありすぎるので)三宅邦子の翁と嫗ならどうであったか、と。

 とにもかくにも、平成の御代にあって第125代今上陛下を政治利用してきたような政治家や国民がワンサカおります。それも占領憲法で「すべて国民」が「主権者」なのですから仕方がありません。仮に紀貫之が古典『竹取物語』の筆者とされ、彼がわが国に残した警告はまったく生かされないのでしょうか。

 官や民の権力が暴走しないよう、祭祀王たる天皇陛下がおわすのに、いつの世も勘違いした権力者は暴走し始めます。そして、周りはメディアも含めて萎縮し、その間違いを正せなくなって何らかの破壊へと突き進むのです。

 私たちは、もう藤原氏を批判した書を焼き払われたりはしません。権力批判を暗喩でしか表現できない時代や国家でもありません。堂々と言いましょう

 http://sitarou09.blog91.fc2.com/blog-entry-159.html

 ▲【日本を】『日本解体法案』反対請願.com【守ろう】

  文例:「国会法改正案」への反対意見書 *利用、改変可*

 ◎民主党の小沢一郎幹事長は、さすがにこのままでの成立を断念するようですが、18日に自民党やたちあがれ日本などの野党5党が関連法案の撤回を求めることに決まりました。あともう一歩です。

伝統の一戦!守る闘い!

皇紀2670年(平成22年)5月17日

 目下の泰国(タイ)は、金権・金脈政治で多数の農民を味方につけたタクシン・チンナワット元首相の一派が、アピシット・ウェーチャチーワ現首相体制の失脚をもくろんで暴動を起こし続けているため、日本からの渡航の是非を検討しなければなりません(17日現在 外務省)が、映画で楽しんでいただくことにしましょう。

 平成17年日本公開(前年製作)の泰国映画『風の前奏曲』は、泰国の古典楽器ラナート(「心を癒す」の意をもつ船形の木琴)奏者として実在の偉人ソーン・シラパバーレーン師に関する実話を映画化したイティスントーン・ウィチャイラック監督作品です。第14回スパンナホン賞(泰国立映画協会賞)などを総ナメにしました。

 古典楽器にまつわる『風の前奏曲(原題:ホームローン The Overture)』とくれば、よほど気位の高い文芸大作のように思われますが、実は本作はラナートの格闘技を描いた映画なのです。青年期のソーン師(日本映画『春の雪』にも出演したアヌチット・サパンポン)が宮廷でクンイン(ナロンリット・トーサガー)と演奏対決する場面は、まるで血と汗の最後の一滴までを賭けるような闘いに見えます。

 しかし、もうひとつの重要な見どころは、日本の大正末期から昭和初期に於いて、泰国が欧米列強による侵略の危機にさらされる中、これに対抗すべく近代化と称して「古臭い」伝統文化を否定する(当然ラナートの演奏にも注文をつける)軍事政権が現れ、老年期のソーン師(アドゥン・ドゥンヤラット)がウィラー大佐(ポンパット・ワチラバンジョン)と対決する場面でしょう。

 ソーン師は言います。「近代化とは、この国の歴史的伝統を否定した上でのものか」と。師は欧米列強を恐れて自ら欧米人化する滑稽を軍人たちに説き、しかしながら政治の現実として泰国の独立を守らねばならない軍人たちの想いもあって、この最後の対決は非常に見応えがありました。

 日本は大東亜戦争後、GHQによる占領統治期を経てすっかり米国製占領憲法にひれ伏し、官僚機構も現在その体制のままで、あくまでその法解釈に基づいて立法が動き、GHQに土下座して存続を許されたようなメディア各社が、今も「日本を否定した上での近代化」を垂れ流し続けています。

 本作を観ていると、現代日本人は胸が痛むのです。それは泰国人とて同じではないでしょうか。東南亜で唯一国家の独立を維持し続けた彼らの秘訣は、大日本帝國との同盟の裏で欧米連合国とも通じ、戦後の難を逃れたことであり、それはタクシン元首相のやり方にも似ています。

 彼は北部出身の客家系華人ですが、米国と通じ、同じ「屈米の徒」小泉純一郎元首相とは刎頸(ふんけい)の友であり、一方で一党独裁の中共に当時自ら結党のタイ・ラック・タイ党北京支部を置くことを許されていました。そのようなタクシン元首相が口にした恐ろしい言葉は、泰国民にとっては絶対的存在であるプミポン・アドゥンヤデート国王陛下を暗に見下し非難したものだったのです。

 権力者が自らの国家を売るとはこういうことで、権力を維持するためにはいとわないのでしょう。

 概して泰国民にありがちな「白人至上主義」は羨望からくるものでしょうが、同じ亜州の外国人にはときに差別的でさえあります。私は彼らに、もう一度ラナートの音色に耳を傾けるよう勧めたいところです。そして、私たち日本人が本作に触れたとき、占領憲法のまま経済発展し、プラザ合意に持ち込まれ、勝手にバブル経済が発生して崩壊したままのわが国は一体何なのか、と考えずにはいられません。

独裁のむなしさ分かる映画

皇紀2670年(平成22年)5月16日

 平成17年日本公開(前年製作)の独国・墺国(オーストリア)・伊国映画『ヒトラー?最期の12日間?』(原題:Der Untergang = 失脚)は、世界中の賛否両論を巻き起こして大ヒットしたアドルフ・ヒトラー総統率いる独ナチス党の陥落を描いた独TV界出身のオリヴァー・ヒルシュビーゲル監督作品です。

 一種の歴史劇ですから物語の詳細は省略しますが、ヒトラーを演じたブルーノ・ガンツの素晴らしさは特筆すべきものでした。「そこにヒトラーがいる」と観客に思わせて十分なのです。

 ただ、スティーヴン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』にしてもそう(最後に救われたユダヤ人たちが登場する)ですが、最後に証言者ご本人(ヒトラーの秘書を務めておられたトラウドゥル・ユンゲさん)が登場し、ヒトラーの行いを「私たち独国民はよく知りませんでした」と述べられる場面は、まったくの蛇足だったように思います。

 ナチス党が政権を奪取したのは、圧倒的独国民の支持によるものでした。確かに、その経済政策には国民の支持を得るに十分なものがあり、結果としてゲルマン民族至上の思想に陶酔してヒトラーの独裁を許していくわけです。

 確かに国民は、厳しさも優しさももつ1人の人間としてのヒトラーが首相官邸で何をし、何を言っていたかまでは知りません。だからこそ、本作でその周囲の人々までもが何をし、どのように生き、どのように死んでいったかがよく描かれて秀逸なのです。(やはり最後のシークエンスは要りません)

 日本国民の圧倒的支持を得て政権を奪取した民主党ら与党3党は14日、官僚答弁の原則禁止などを盛り込んだ国会法改正案を議員立法で国会に提出しました。これには、占領憲法の解釈を与党議員たちで勝手に行なえるものとし、自民党をはじめとする野党の全党が反対しています。

 この改正案には、国会で答弁する政府特別補佐人から内閣法制局長官を除くことや、政府参考人制度の廃止が盛り込まれており、政権与党にとって都合の悪い法解釈や説明をする人間を国会から排除するものです。

 果たして、日本の現代版ヒトラーになってしまうのは一体誰なのでしょうか? 民主党の小沢一郎幹事長でしょうか。いえ、本改正案が可決・成立してしまったあとでは、政権が変われば仮に自民党の総理・総裁も独裁者と化しましょう。その末路も哀れだ、と本作は描いています。

 そもそも、これまでの占領憲法(象徴的には第9条)解釈も酷いものでした。占領憲法の施行に関する(大日本帝國憲法を改正したものとする)解釈も含めてです。ゆえに、与党議員たちやその御用有識者たちだけで法解釈をこれ以上曲げていくことは許されません。ただでさえ日本はもう曲がっているのです。

 のちに私たちが「小沢幹事長が何をし、何を言っていたかはよく知りませんでした」なんぞと言わねばならぬ状態にならないよう、ほんの少し頑張ってみましょうよ!

 http://sitarou09.blog91.fc2.com/blog-entry-159.html

 ▲【日本を】『日本解体法案』反対請願.com【守ろう】

  文例:「国会法改正案」への反対意見書 *利用、改変可*

負け組って何なんだよ!

皇紀2670年(平成22年)5月15日

 平成2年製作・公開の芬蘭(フィンランド)映画『マッチ工場の少女』は、当時私が初めて観たアキ・カウリスマキ監督の作品で、これがいわゆる「敗者三部作」の最終章でした。

 12日記事では『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を取り上げたばかりですが、やはり本作も一切の救いがありません

 カウリスマキ監督は、とにかく余計な台詞を排し、冒頭もただひたすらマッチ工場で作業をする主人公の少女イリス(カティ・オウティネン)の恐ろしいほどの無表情を映し出しています。毎日の決まった生活。家には母親とその愛人。稼ぎ頭はイリスなのです。

 或る夜、イリスはダンスホールに出掛けますが、どの男性からも声がかかりません。そこで給料日に彼女は赤い派手なドレスを新調します。ところが、母親の愛人からは「売春婦」と罵倒され、母親にも「返品してこい」と言われてしまいました。それでもドレスを着て出掛けてみたイリスに、ついに男性からのお誘いがあります。彼女はそれまでの日常に変化をもたらす(冒頭との差でわずかな表情の変化を見せる)ほど喜び、妊娠もしますが、彼にとっては一夜の遊びでした。

 そこで何と、イリスは復讐を計画します。ここは監督も狙って演出したでしょう。薬局で鼠殺しの薬を買うのですが、イリスと店員の会話が極端に短くてかえって面白いのです。

「効き目は?」「イチコロ」「……すてき」

 本当に台詞が少なく、母親とその愛人が一日中かぶりついているテレビから流れる天安門事件のニュースくらいにしか字幕がつかなかったのでは、と勘違いしてしまうほどでした。カウリスマキ監督は、まさに「目で見せる映画」を撮っているのです。

 その演出の見事さは、ダンスホールのシークエンスで彼女の待ちぼうけを表現するのに、やたら足元に増えていくレモネードの空き瓶を映し出しています。もはやこれも笑いを誘いますが、すなわち救いのないような彼女の毎日を決して哀れなだけで表現しないのです。

 確かにイリスは低賃金労働の弱者、敗者、負け組かもしれません。私が世間の評価に反して山田洋次監督の『学校』といった作品をまったく評価しないのは、あくまで「巨匠が巨匠の目線で社会的弱者を温かく取り上げてあげました」という演出しかしておらず、カウリスマキ監督のようなイリスの暮らしに飛び込む演出がまるでないからです。

 こうなりますと、俗に「敗者三部作」と言えど、その「敗者」とは何なのでしょうか。わが国では、小泉構造改革で「勝ち組」「負け組」の「自己責任」が流行りましたが、民族協和、ともすれば皇民化のもとで多民族協和までも掲げた日本らしさが急に否定され、米国由来の拝金主義を有り難がって皆が疲弊したのです。

 今もって経済評論家の勝間和代さんのような「勝ち組幸福論」を叫ぶ人がまだいますが、彼女による若者の起業促進の訴えにしても、そこに「実(実物・実体)」がありません。そのような話を有り難がる前に、勝ち組・負け組というくだらない線引きに疑問をもつべきでしょう。

 私が以前、民主党が高校授業料無償化に踏みきったことで、給食費の無償化まで訴え始めた市民団体の存在を取り上げて批判したのは、無償化のための支給がまず行政の不効率であるという前に、生活保護の問題にしてもそうですが、本当に困っている人とそうでない人の実態が分からなくなってしまった日本の現状で安易な議論をするなと言っているのです。

 分からなくしてしまったのは、この勝ち組・負け組論議の中で、「私も和牛が食べたい」「休日には東京ディズニーリゾートに行きたい」といった願望の膨張と、自らの生活の中でやりくりして幸せを見つけていくという生きていくための知恵、或いは自らの力で生活を向上させていく知恵の低下を招いたことにあると思います。前提として、バブル経済の発生と崩壊や、ゆとり教育の実施も一因だったでしょう。

 一切の救いがないように見えるイリスの人生を、カウリスマキ監督がそのように設定し、静かにだが滑稽に描くことで、実は「救いとは、どこに線引きして言っているのかね」と私たちにまるで問いかけているようです。