JR九州を指導した国交省
以前にも電動車椅子を使う伊是名夏子氏による一線を超えた暴力的行為を批判しましたが、障害者を批判することは、実は健常者にとって非常に精神的苦痛を伴います。
自分とていつ車椅子の生活になるか分からず、障害者も健常者も「人として何ら違いはない」と私は思っているのですが、そうであるからこそ他人に迷惑をかける行為を障害者だからといって見逃すことはできません。
何らかの不自由があれば、日常生活が健常者と同じにはいかず、街を歩けば障害者になって初めて思い知る社会基盤(インフラストラクチャー)の不具合にぶち当たるでしょう。
だからこそわが国の共助(博愛衆に及ぼし)の精神はやはり重要であり、何やら小泉・竹中政権以降むやみに叫ばれる「自己責任」や「自助」といった欧米的思考に違和感を覚えるのです。
いかに互いを助け合うか、災害列島で育んだわが民族の精神を、今一度健常者も障害者も見つめ直すべきであり、それは単に健常者が障害者に手を貸せばよいということだけでなく、互いの暮らしを尊重し合うことにほかなりません。
それを邪魔するものは何でしょうか。僭越ながら伊是名氏にせよ管田多津子氏にせよ、その主張は欧米型権利闘争そのものであり、健常者と障害者が互いにののしり合い、闘うことにしかなりません。これこそが「邪魔するもの」の正体です。
無人駅などの車椅子対応は、果たして鉄道事業者の責任でしょうか。
いわば健常者側の九州旅客鉄道(JR九州)と菅田氏との間で、時間帯をめぐる妥協点は見つからなかったのでしょうか。駅員不在の時間帯を知った限りは、駅員のいる時間帯も分かった(JR側が提示した)はずであり、それに合わせない限り利用はできません。
健常者であろうが障害者であろうが、営業時間内か或いは対応可能時間帯でなければ該当のサービスを受けられないものです。それを「私はどうしてもその時間に行きたい」といったところで、どうにもならないのは私たち全員同じです。
「電車は走っている(営業時間内)のに健常者は利用できて障害者はできないのがおかしい」というのは、だからそこが健常者と障害者の暮らしの違いであり、人は誰もが自分とは何かを知り、自分の生き方を自由に決めるものでしょう。
自己の存在と生き方のベースとして健常者と障害者は、そこが大きく違うのであり、違っていて当然ではないでしょうか。時間帯を合わせて利用するのも自由であり、もう利用しないのも自由なのです。
それを鉄道事業者にこれほどの負担を圧しつけて、いや、そもそもこれを「負担」というと権利闘争の活動家が怒り出すのですが、採算ギリギリのJR九州に対し、国土交通省はどうしろといいたいのか、まず私はそこを批判すべきだと思います。
権利闘争で人は幸せになりません。無人駅をなくすか駅員を増やせといわれれば鉄道事業者は、運賃を大きく値上げするか廃線にするか、または社自体を潰すしかなくなり、ますます高齢化で安価な公共運輸の重要性が叫ばれる中、政策として耐え難い矛盾を抱えます。
国鉄を分割民営化した中曽根内閣は、今日のこの顛末まで見抜けませんでした。電電公社の分割民営化のように(あくまで国鉄民営化を前提として固執するのなら)東日本と西日本という具合に分ければよかったものを、どう考えても採算のとれない北海道、四国、九州と貨物を分けたのです。
健常者側の国交省も、あまりにも無責任な指導というほかなく、指導された側はどうしようもないでしょう。
これは、基本として「クレーム対応を誤った」のと同じようなもので、聞くべき(解決すべき)クレームと、そして申し訳ないが聞く必要のないクレームの分別ができず、顧客の増長を招き、やがて自滅していくパターンです。
顧客の増長に、健常者も障害者もありません。最終的には冷たく聞こえたかもしれませんが、いかに「さまざまな存在と生き方を自由に歩む多くの人間が共に現世を生きているか」ということに想いを馳せれば、先人たちが作り上げてきたインフラへの感謝と共に、かくも不毛な権利闘争にいとも簡単に巻き込まれることはないのです。