「さん付け」教育の末路

皇紀2682年(令和4年)6月19日

役職者を「さん付け」する会社が崩壊するワケ | 上司と部下の常識・非常識

このごろ、会社において、また「さん付け」がいいというような風潮が出てきたように思います。大抵の場合、経営がうまくいかなくなると、「うまくいかないのは、社内の風通しが悪いからだ」「部下が上司に、自由に…

(東洋経済新報社)

 これは、もう五年前の東洋経済新報社配信記事ですが、社内の風通しを良くするといい出した企業組織に於いて「自覚なき課長」「責任感なき部長」を生み出す「さん付け」運動は、企業の衰退と破綻を招くという興味深いものです。台湾企業の皮を被った中共組織にまんまと呑み込まれたシャープの実例が挙げられています。

 では、教育現場ではどうでしょうか。

 まず男女平等を謳って「男子をくん付け、女子をさん付け」するのをやめろといい出し、今度は「あだ名は虐めの原因」と仮定して児童・生徒全員を「さん付け」しろといい出しました。

 まずその仮定が極めて怪しいわけで、あだ名が虐めの原因ではなく、虐めの結果として「酷いあだ名」がつけられる場合があるということにすぎません。よって、全員を「さん付け」したところで虐めをなくすことには繋がらないのです。

 努力するとすれば、そもそも子供たちの間で繰り広げられる酷い虐めを周囲の大人がいち早く発見し、対象となっている児童・生徒を救い出さねばなりません。つまり、この「さん付け」運動は、そうした努力の放棄を謳っているのです。「さん付け」で虐めをなくせる、或いは減らせると考えるような予断は、児童・生徒をさらに不幸にします。

 わが国の教育を根こそぎ破壊し、今もなお破壊活動を続ける日本教職員組合(日教組)のこうした怠惰な主張を、かつて聞き入れた文部省と中曽根政権(検討時)は、かの「ゆとり教育」なるものを導入しました。そして、これは既に破綻しているのです。

 この時、日教組が(極左暴力活動に注力したいがために)実務をさぼろうとして主張した「子供たちの個性を伸ばす」教育方針は、ものの見事に子供たちの思考能力を低下させました。当時文部省から現場に配布された「あれも教えない、これも教えない」学習指導要領を見て、愕然としたことを私は今も忘れません。

 そうして真面目な非日教組の教員たちばかりに実務が圧しつけられ続けていますが、個性を伸ばすために必要な知識が欠落したゆとり教育は、かくて否定されたのです。今般の「さん付け」運動も、まさに没個性の典型ではありませんか。

 多くの人びとがSNS上で反応している通り「そのうち番号で呼ばれるようになる」「学校が刑務所になる」と警告すべき事案なのです。

 また、性別をなくす(ジェンダーレス)という生物の基本を拒絶するような危険思想により、水泳指導で使用する水着を男女の区別がつかないものに変更しようという動きまで現れました。

 同性愛・全性愛・性同一性障害・性不特定の子供たちへの配慮という大人の無神経を指摘せざるをえません。特に第二次性徴を迎えるころ、男女の性を意識するからこそ自らの異性愛や同性愛に気づくのではないでしょうか。問題なのは、同性愛に気づいた児童・生徒に「それが異常なことではない」と静かに教えることです。

 こうしたこと(性)は、大声で騒ぐものではありません。異性愛者がそうであると告白する必要がないのに、なぜ同性愛者には告白させようとするのでしょうか。大らかにそれを認知してきたわが国本来の姿にそぐわず、欧米の権利闘争を真似ているにすぎません。

 例えば、同性愛者を処刑した「黒歴史」を持つ旧ソビエト連邦で、女性解放だの家族解体だのと推し進めた結果、これも全て破綻しました。

 目下わが国で、珍妙な団体に喚かれるがまま推し進め始めたこうした教育の改悪は、まさに露国人が倒したはずの社会主義そのものであり、宗教原理主義から脱せない欧米のリベラル闘争そのものです。しかもこの宗教原理主義は、欧米では保守派そのものなのです。

 「保守なのにリベラル?」と訳が分からなくなるでしょうが、それほど訳の分からないものにわが国が絡めとられているとは、情けないにもほどがあります。私たちが、そしてわが国が神武天皇以来の「祭祀の民、祭祀の国」であることを忘れるとこうなるのです。

 男女の権利だの性的少数者の権利だのとわめいている暇があるなら、生命そのものの継承に感謝する教育を進めることこそ、基本的人権や平和に貢献することを「日本の莫迦な似非リベラル派」は誰も知りません。

 「さん付け」教育の挙げ句、わが国そのものが衰退、破綻するでしょう。活動家の狙いはそこにあります。

 私たち日本人は、私たちの生存に懸けてこうした破壊活動に抗します。

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