皇紀2671年(平成23年)5月2日
http://www.asahi.com/international/update/0501/TKY201105010059.html
▲朝日新聞:カダフィ大佐の息子と孫、NATO軍空爆で死亡 リビア
私は3月21日記事で、米英が中心となって利比亜(リビア)を総攻撃したことについて、徹底的に非難しました。
わが国が東日本大震災で傷ついている間に、福島第1原子力発電所が事故を起こしたことによる原油需要増を見越した米国が、第2次世界大戦の連合国(UN 俗称=国連)を利用し、産油国の利権と市場の覇権を掌握しようと暴力行為に出たことを、決して許してはなりません。
利比亜国内の部族間対立を収めてきたのがムアンマル・アル=カッザーフィー閣下(カダフィ大佐)であり、米国のしていることは、彼らの対立を扇動し、ともすればそれぞれの傭兵同士が戦争を始める状況をわざと創出しています。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110428-OYT1T00961.htm
▲讀賣新聞:空自の緊急発進386回…中国機は2・5倍に
中共が昨年度に96回もわが国の領空を侵犯したのは、東支那海ガス田のみならず、沖縄県石垣市尖閣諸島周辺海域に眠る資源を全て強奪しようと画策しているからに他なりません。いわば「泥棒の下見」です。
また、露国が特に264回も領空侵犯した理由は、台湾の林志昇氏らが始めた帰属確定闘争(台湾の帰属は中華民国・国民党にはなく、むろん中共にもないことの証明)を端緒に、私たちが千島列島の全島と南樺太の帰属が今なお法理論上わが国に存すると主張し、麻生太郎首相(当時)に「帰属に言及して欲しい」と依頼して実現したことをよく知っているからでしょう。
当然です。露政府の偵察対象は、日台の私たち活動家にも及んでおり、(思い返せば)それらしき姿をはっきり見ています。彼らは、私たちの当然の主張が国際世論の主流になるのを恐れているのです。
このような連中の武力行使や侵犯行為を許すことは、たとえ「日米同盟」だか「日中友好」「日露友好」だかに寄ろうとも、絶対にありえません。
わが国を資源の輸入漬けにし、国家三権と経済を占領憲法によって制御してきたのが米国であり、何度も申しますが、実は中共が横取りを策謀するほど、海洋国家のわが国には採掘可能な資源が豊富にあるとされています。
今すぐ埋蔵量に関する正確な調査を開始し、採掘施設を建設するには、わが国がまず占領憲法の呪縛から自らを解き放ち、日欧米友好を前提としても自立しなければならないのです。
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皇紀2671年(平成23年)5月1日
4月29日には英国王室が大きな話題を提供したようですが、もともと映画興行界が名づけた「黄金週間」で、もしお時間があればご覧いただきたいのが、平成元年製作・翌年日本公開の英仏合作映画『コックと泥棒、その妻と愛人』です。
監督は『英国式庭園殺人事件』以来、極めて独創的と言える数々の作品を世に放ち、清少納言の『枕草子』を下敷きにした映画を生み出したことでも知られる英国のピーター・グリーナウェイ。撮影はサッシャ・ヴィエルニー、音楽はマイケル・ナイマンという、いわゆるキース・カサンダー製作の「グリーナウェイ組」作品で、私が衝撃を受けた映画のうちの一つです。
最初に申し上げておかねばならないのは、本作は俗に「分別がある」と言われる大人以外の鑑賞には堪えません。グリーナウェイ監督作品全般に於いてそれは言えますが、しかし、ただの「エログロ映画」の類いではないことも付記しておきます。
さて、物語はこうです。
暴力的な大泥棒アルバート(『ハリー・ポッター』2代目校長役のマイケル・ガンボン)が経営する仏国料理店のコック(『タンゴ』などのリシャール・ボーランジェ)は、アルバートの妻で抑圧された日々を送っているジョジーナ(エリザベス1世を演じたヘレン・ミレン)が店の客で学者のマイケル(アラン・ハワード)を愛人にして現実逃避していることを知っており、やがてアルバートにもばれてしまいました。
アルバートは躊躇なくマイケルを惨殺し、夫への復讐を誓ったジョジーナは、どんなものでも食材に料理を作るというコックに、なんとマイケルの亡骸を料理させ、物欲にまみれてきたアルバートに食べさせることを思いつくのです。
ジョジーナは銃を突きつけ、アルバートにマイケルを食べさせますが、一発の銃声が鳴り響いて、このおぞましい物語は幕を下ろします。
本作には、実はサッチャリズム(英国のマーガレット・サッチャー首相が推し進めた経済政策)に対する痛烈な批判が込められており、いわゆる「小泉=竹中路線」と言われた小泉政権を経た私たちにも、その内容がよく理解出来ると思います。
極端な規制緩和と民営化で、外国資本の賭博的経済行動を大いに許し、国内企業を破綻させ、物価は上がるのに平均給与が下がり続け(スタグフレーションが起こり)、金融街シティがやけ太るのに対して失業者を街に溢れさせたサッチャリズムの象徴が、このアルバートなのです。
これを終わらせるべき現実から逃げてきたジョジーナは、ついに最後で終焉への引き金を自らひくのですが、私たちは現下の賭博経済(資本主義)を終わらせることが出来るでしょうか。
私は、欧州に於けるその大きなうねりは仏国から沸き上がると見ています。その時、日本は「國體」を説いて世界を導くことが出来るでしょうか。そのようなことが出来る政府を、私たちが用意しておかねばなりません。今のままではまるで駄目だと、誰もが分かっているでしょう。
私たちは、愛人と戯れて現実から目を逸らしているだけです。それが人を生け贄にしてしまう罪深いことであると知った時には、もう遅いに違いありません。今こそ、引き金をひく時なのです。
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皇紀2671年(平成23年)4月30日
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110424-OYT1T00518.htm
▲讀賣新聞:国産災害ロボット急きょ改造、福島原発投入へ
これは私が20日記事で指摘したことですが、そもそも原子力発電行政を牽引してきた経済産業省が事故対応の手段を一切持たずに「安全だ」などと喧伝してきたことは決して許されません。
東京大学の研究力や、まず「建屋の中を見ろ」と指摘した見識は極めて確かなものの、わが国はそれを生かす政治力と行政力が著しく欠落しているため、かえって税金の無駄遣いをしやすい体制にもあると言えます。今ごろ事故調査機を作っていたのでは遅いのです。
これまた以前に指摘し、本来既にあるべき手引き案を提示した件ですが、最初から被災地に設けた避難所へ被災された方々を収容したがために、彼らはなかなか元の居住、或いはその近隣の市町村から離れられなくなり、菅直人首相と国土交通省で食い違う応急仮設住宅の供給時期は共に非現実的な目標を掲げているため、対応の遅ればかりが際立って私たちを苛立たせています。
平成7年1月17日に発生した阪神淡路大震災への対応と全く同じ類いの間違いを犯している政府やメディア報道は、自然祭祀を忘れた「亡国の代物」と言わずにはいられません。
以下は、16年前の1月24日に放送された、よみうりテレビ系列の『鶴瓶・上岡 パペポTV』の模様です。俗にこの回は「怒りのパペポ」といわれています。
http://www.youtube.com/watch?v=Dz44AtM3i7c
▲YOUTUBE:パペポ TV(阪神大震災) 1/5
http://www.youtube.com/watch?v=NPhBMtB4aLM
▲YOUTUBE:パペポ TV(阪神大震災) 2/5
http://www.youtube.com/watch?v=SafuAVlTTsM
▲YOUTUBE:パペポ TV(阪神大震災) 3/5
http://www.youtube.com/watch?v=jr4QMaB05zE
▲YOUTUBE:パペポ TV(阪神大震災) 4/5
http://www.youtube.com/watch?v=01IU94L2TQk
▲YOUTUBE:パペポ TV(阪神大震災) 5/5
被災された笑福亭鶴瓶さん、ご子息が救助活動に出られた上岡龍太郎さんが、震災報道を「ワイドショー」と批判し、「感傷は煽っても人間性に欠くメディア報道にはもう何の期待も出来ないと判明した」「会議、会議ばかりで政府は対応が遅い」「政治家は阿呆」と断じています。
わが国は、この震災から何も学ばなかったのです。一つ変わったとすれば、上岡さんが指摘した「自衛隊は人を殺す訓練をしている」と言われていた世の認識が「自衛隊は生きている人を助ける訓練をしている」と正されつつあることくらいでしょうか。鶴瓶さんは、わが国古来からの助け合いの民族性を復活させながら、自衛隊を一刻も早く被災地に投入して欲しかったと言っています。
まるでお2人が東日本大震災のことを話されているように錯覚するほど、菅政権とメディア各社は同じような間違いを見事に繰り返しており、上岡さんが大東亜戦争の意義と占領統治のことを「民主主義を勝ち取るために戦ったのではない」「今の民主主義は押しつけられたもの」と言っている通り、私たち個人個人が占領憲法による主権者気取りでこのような政治を生み出し、現下の報道を許しているのだと自覚しなければならないのです。
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皇紀2671年(平成23年)4月29日
4月29日は、先帝陛下の天長節(御生誕の日)だったことを記念する「昭和の日」です。
昭和64年1月7日に先帝陛下が御崩御され、昭和の日として祝日を守ろうとした多くの意見に対し、当時野党だった日本社会党(現在の民主党や社民党)、公明党=創価学会、日本共産党らの反対によりその意義は取り払われ、平成18年までは訳の分からない「みどりの日」(現在は5月4日)などと呼ばれていました。
反対したお歴々は、昭和をさも「戦争の時代」とし、忌むべきものとしたのでしょうが、私たちの時代の歩みを正視しようとしない者たちに歴史を語る資格はありません。悪しき「歴史修正主義」を企んできたのは、そのような人たちなのです。
欧米列強の帝国主義に翻弄され、それでも立ち向かおうとした先人たちに想いを馳せ、彼らの成功と失敗から多くを学ぶ日でありたく、その全てを包み込む天皇陛下の宮中祭祀にこそ学び、生命の継承と自然の恵みに感謝する日としましょう。
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http://rocketnews24.com/?p=91323
▲ロケットニュース:カルト発言連発の民主党議員がトンデモ発言「空母ロナルド・レーガンが小型核を使って原発を爆破?」
これは現在進行中の大失敗の一つです。広島県議会の梶川ゆきこ議員(民主党)が、東日本大震災を米国の「気象兵器」とされるものによる地震テロだと語ったり、米軍が福島第1原子力発電所を攻撃していたなどと断言するとは、怪しげなナントカ党の所属に乗り換えたほうがよいのではないでしょうか。
梶川議員は今回の統一地方選挙で落選しましたが、真剣に「被爆3世として、3・11地震テロを私は絶対に許せない!『父を返せ!母を返せ!人間を返せ!』」などと言い切れるような、震災の事実を政治利用する被災者に対して非礼な者を、一時でも議員に選出した広島県民は恥を知るべきです。
何となく民主党に投票してしまった「国民主権」の結果がこれでした。欧米型民主主義を持ち込み、米国の二大政党制を持ち込むべく国政選挙で小選挙区制を敷いた「猿真似」の結果がこれなのです。
私は占領憲法をはじめとする米国的なるものを全て批判しますが、それはわが国の問題としてであり、梶川議員らの主張(妄想?)はただの「反米」に過ぎません。「反〜」というのは、何も生み出さないのです。
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皇紀2671年(平成23年)4月28日
http://www.asahi.com/national/update/0427/TKY201104270471.html
▲朝日新聞:両陛下、市街地跡に黙礼 避難所見舞う 宮城
http://www.asahi.com/national/update/0408/TKY201104080383.html
▲朝日新聞:両陛下、福島・双葉町民を慰問 埼玉の避難所で2時間
http://www.asahi.com/national/update/0414/TKY201104140479.html
▲朝日新聞:両陛下、被災現場の前で黙礼 初の被災地入り、住民慰問
http://www.asahi.com/national/update/0422/TKY201104220480.html
▲朝日新聞:両陛下が被災した北茨城市を訪問 黙礼 地元の魚味わう
天皇陛下と皇后陛下は、東日本大震災と福島第1原子力発電所事故の発生以来、私たち全て臣民を励まされ、被災地をまわられ、被災された方々を見舞われ、そして警察官や自衛官、消防士、海上保安官たちの労をねぎらわれました。
宮中晩餐会に出席する全ての人々のことを覚えられて接されるという両陛下のことは伺ったことがありましたが、今回なんと、両陛下は避難所にいる被災された方々お1人お1人のことを事前に御調べになり、全て御記憶になられた上で御行幸されているのだそうです。
これはさだめし、全人類の生命の継承と、地球の自然の恵みを祀られる天皇陛下が、自然災害と人災によって失われた多くの生命と自然に、強く御心を痛められてのことでしょう。
現象の表層だけをすくいあげて得意な類いの自称右翼は、週刊新潮が報じた「両陛下の御前で胡座をかいていた被災者」に怒りをあらわにしたそうですが、その彼らは涅巴爾(ネパール)人だったのであり、彼らの文化では相手への最上級の敬意の表現として胡座をかいて両手を合わせるのであって、被災された彼らも両陛下の御前でそのようにしていました。
天皇陛下の御行幸に触れ、多くの被災者が感激し、気持ちを奮い立たせるきっかけにした、と朝日新聞でさえ報じていますが、これに変わる御存在などおわさぬことを思い知るべきです。偉そうに「天皇制」を語る方は、代わりにあなたが同じ役割を果たしうるか、訪ね歩いて見ればよいでしょう。
結果は菅直人首相のようになるに違いありません。被災者を前に、腰に手を当てたまま徘徊するような足取りで歩いてまわるばかりで、彼らを励ますどころか怒らせてしまいました。
被災者に怒鳴られ、弱々しい声で「そんなつもりじゃなかった」「気づかなかったもんですから」と言ってしまった菅首相は、もはや一国の首相とは言えません。あの様子をメディアに報じさせてしまった福山哲郎官房副長官らも最低です。
これが、祭祀を司られる天皇陛下の臣民への御心と、個人の政治を叫んできた政治家のやっつけ仕事の、大いなる違いであり、まさしく格の違いであります。
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