皇紀2670年(平成22年)8月2日
この映画をご紹介してしまうと「もう最後」なのですが、参りましょう。昭和63年製作・平成元年日本公開の米国映画『ゼイリブ』は、作曲もこなすSF・ホラーの奇才ジョン・カーペンター監督作品であり、私たちの社会は私たちの知らないうちにエイリアンに支配されていた、という衝撃的な内容です。
カーペンター監督は、当時のえげつない商業主義を嫌悪し、本作を生み出したそうですが、エイリアンが人間になりすまし、政府の中枢やメディア各社に入り込んで「服従しろ」「眠っていろ」「命令に従え」と人間を洗脳する描写は、時折わが国でも永住外国人(ただし在日韓国・中共人限定)地方参政権付与法案に反対する根拠の分かり易い例として用いられてきました。
かつて『日曜洋画劇場』が本作を放送した際、映画評論家の淀川長治氏は「目に見えない怖さ、目に見えない怖さを私たちはもっと警戒せないけませんね」と解説しています(こちらを参照)。
その「目に見えない怖さ」は、このような形で私たちに忍び寄っていたのです。
http://www.shinhoshu.com/wp-content/uploads/2010/08/12806858950001.gif
▲讀賣新聞:民主党代表選 外国人に「首相選ぶ権利」 党員・サポーター国籍要件なし
※なぜかウェブ配信記事が見当たりませんので、誌面画像をご覧下さい。もっと報じるべきです!
7月31日付けの讀賣新聞は、韓国民団(在日本大韓民国民団)に支援を求めて在日韓国人党員を増やしてきた民主党が政権与党となった今、彼らによる党代表選挙への投票がすなわち日本国内閣総理大臣を選ぶことになっており、そもそも政治資金規正法違反の疑いはないのか、と記事にしています。
「開かれた党代表選」などと評価している場合ではありません。これが民主党の正体の1つでもあるのです。地方自治から外国の影響を受けさせる外国人地方参政権はおろか、いきなり一国の首相を外国人に選ばせる国家がどこにありましょうか。
むろん、外国人党員・サポーターの数はそれほど多くないでしょうし、その(1人あたりに換算すれば)割当票も決して多くはありませんが、だから「よい」という話ではありません。
何度でもことわっておきますが、これは単なる他人種排外の類いで申しているのではなく、権利を得る外国人が極めて限定的でかえって人種差別にあたること、このような内政干渉を容易にする仕組みは意図的な政治工作を可能にすることが特に問題だから指弾しているのです。これらを無視して「日本は日本人だけのものではない」「外国人がかわいそう」などとは聞いて呆れます。
皆様は、せめて「愚かな」首相でも「自分たちが選んだ」或いは「選んでしまった」というお気持ちをもってこられたと思いますが、民主党政権になってそうではなくなるのです。これからは「どこかよその国のことばかり言う人たちが選んだ」から「愚かな」首相なのだろう、と。
日本の自主独立は、すでに達成されたものではなく、これから達成せねばならないものなのです。
映画『氷雪の門』オフィシャルサイト
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皇紀2670年(平成22年)7月30日
昭和20年8月6日に広島、9日に長崎へ米国が投下した原子爆弾による惨状がどのようなものであったかを伝える日本映画は、数多く存在しています。
わずか1%の核分裂でも、人類の最終兵器として残酷を極める効果を発揮したことは、昭和27年に初めて原爆投下を扱ったとされる映画『原爆の子』(新藤兼人監督・広島)や昭和58年の『この子を残して』(木下惠介監督・長崎)、昭和63年の『TOMORROW 明日』(黒木和雄監督・長崎 ※ただし、投下前日の物語)、平成元年の『黒い雨』(今村昌平監督・広島)などで、あくまで芸術表現を通してではあるが追体験が可能です。
日本が、この戦争とは別の大量虐殺によってもたらされた悲劇を全世界に訴えてきた非核・反核運動は、まさに全世界に訴えてきた「つもり」に終わり、いわば「原爆投下によって第2次世界大戦を終わらせた」とする米国の詭弁にかき消されてきました。
そのような現実にまったく気づいていないか、或いは気づかない振りをして「運動利権」を確保し続けたいだけの者たちが、実に愚かとしか申しようのない行いにでています。
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/100729/lcl1007291723001-n1.htm
▲産經新聞:オバマキャンペーンは違法、広島市に住民監査請求
広島市の秋葉忠利市長こそ文字通り「つもり」の運動屋であり、本来極めて重い「平和」の2文字を軽く票に換えているとの指摘をよく聞きます。
一方、田村和之教授は広島大学にもいた方(現在は名誉教授 こちらを参照)で、第九条の会・ヒロシマの呼びかけ人(こちらを参照)に名を連ねていました。すなわち行政学の教授ともあろうお方が、対米講和の占領憲法を護り抜くと主張しながら「米国の原爆投下の責任を不問にし、アフガニスタンで戦争を続けるオバマ政権を自治体がたたえる行為は不当」と主張する大きな矛盾に目を伏せているではありませんか。
そもそも、このようなことで地方公務員法違反を持ち出すならば、日教組や全教にこそ斬り込むのが先だろうと申したいところです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/100729/lcl1007291756002-n1.htm
▲産經新聞:広島の平和記念式典、米国初参列で69カ国に
米国のジョン・ルース駐日大使が広島の平和記念式典に出席することになったのも、在日米軍普天間飛行場移設問題でこじれたように演出された日本人の対米感情を抑制すべく、政治的な判断によるものと推察します。
これも外交ですから元々そのようなものによるのですが、たとえ出席されても現在の核保有国が「そうだ、そうだ」と言って「核のない世界」に踏みきるわけなどありません。広島と長崎は政治的に利用されているだけであり、そうであってはならないと思うのが、先人達の舐めた辛酸を忘れない本来保守派の役目だと私は思います。
日本こそが核の議論をすべきなのです。広島と長崎の過去を「目を背けるもの」のように扱ってこれを避けてきたからこそ、非核保有国の一国にすぎない被爆国・日本の覚悟は全世界に、特に核保有国にまったく届いていません。
日本の平和主義者は覚醒すべきです。麻生太郎元首相や故・中川昭一元財務相が、なぜ「核の議論を」と提起したのか、そしてなぜそれが問題発言として封印されたのか、考えて下さい。日本に覚悟を持たれては困るのが現在の核保有国なのです。これらを野放しにしておいて「反戦・非核」とは笑止千万ではありませんか?
※明日31日、8月1日の更新は都合により、お休みさせていただきます。和歌山市民の皆様は、和歌山市長選挙の投票に行きましょう!
映画『氷雪の門』オフィシャルサイト
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皇紀2670年(平成22年)7月29日
もしも、死刑執行が政治家個人のあらゆる事情による政治的道具として利用されたなら、あなたはどう思いますか?
かつて放送されていた米国のテレビドラマ『ザ・ホワイトハウス(The West Wing)』第14話『安息日(Take This Sabbath Day)』では、平成10年2月当時、ビル・クリントン大統領が37年ぶりとなる連邦政府による死刑執行に介入するかどうかが注目されており、劇中のバートレット大統領(マーティン・シーン)はその役回りを演じています。
そこでは、執行の日が安息日(ユダヤ教は土曜日、キリスト教は日曜日)を避けた月曜日の午前であり、マクギャリー大統領主席補佐官(ジョン・スペンサー)は、そのあまりの宗教的な理由に驚きを隠せません。
周囲も、大統領がローマ法王(教皇)に電話し、結論として執行をやめさせるのではないかと気が気ではなく、それはカトリック教徒の大統領が明らかに法王の影響を受けることに対する、いわばプロテスタント国家の政治的危惧でした。選挙に於ける支持基盤の問題もありましょう。
結局、刑は執行されます。大統領は、エイブラハム・リンカーン元大統領以来となる死刑囚に対する恩赦を、個人の信教によらず与えたことにできる方法を模索していただけに、「時のホワイトハウスの空気で、刑を執行したりしなかったりしていいのか」という疑問に最後まで答えられませんでした。
このような或る意味(宗教的要素を取り除いたとしても)非常に原理的な苦悩は、死刑執行に必ず伴うと言っても過言ではありません。私は死刑制度に賛成ですが、その量刑審判の基準は裁判官により、また執行の基準が法相によるので明解ではありません。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100728/plc1007282201023-n1.htm
▲産經新聞:【視点】人の死に「政治的演出」 千葉法相の死刑執行命令
選挙に落選しながらも菅内閣への残留が決まってしまった千葉景子法相は、その職務の1つに死刑執行命令書への署名がありながら、死刑制度反対運動をし続けてきたことから、これまで一度も執行を命じておらず、それでいてまもなく開かれる臨時国会対策(千葉法相続投への批判、法相の職務怠慢という指摘をかわすため)なのか、突然自身の信念(?)を曲げてしまいました。
一体千葉法相は何をどう考えて死刑制度に反対してきたのでしょうか。もはやそこに原理的な苦悩がなかったのであれば、単なる政治利権運動の類いで死刑制度に対する議論を撹乱してきただけに過ぎず、死刑反対派への打撃は計り知れません。彼らの言う「人命を弄ぶ」とはこのことです。
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皇紀2670年(平成22年)7月28日
昭和49年製作の日本映画『氷雪の門(樺太1945年夏 氷雪の門)』は、本作の企画をきっかけに設立されたジャパン・ムービー・ピクチャー社の製作で東宝が配給する予定でしたが、当時の東宝がソ連(露国)のモス・フィルムとの合作で『モスクワわが愛』を完成させており、その披露パーティーの席上、ソ連側から『氷雪の門』公開に苦言が呈され、それを東京新聞社が大々的に記事にしてしまったため、事実上東宝がソ連の圧力に屈さざるを得ず、配給を断念したといういわくつきの作品です。
その後、東映が配給に乗り出しましたが、極めて限定的な劇場公開に留まり、ほとんど知られることはありませんでした。豪華出演陣を得て完成させたというのに、特に望月利雄プロデューサーは悔しかったと思います。これまで何度か各地の市民会館など(和歌山では県民文化会館)で特別上映されてきましたが、なんとついに本年7月17日より、小規模公開とはいえ全国ロードショーが実現したのです(日程・上映劇場は画像をクリックしてご確認下さい)。
本作は、南樺太の真岡町で、真岡郵便電信局の電話交換手だった9人の女性がソ連軍侵攻ののちも志願して職務を全うし、次々と町民が虐殺されていく中、「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」と通信し、服毒自殺という最期を遂げた事実をもとに作られました。
それは、大東亜戦争が終わったとされている昭和20年8月15日より後のことでした。私たちは、この「ポツダム宣言を受諾する」という降伏条件を無条件で承諾しなければならなかった日から(よって「無条件降伏」は間違い)、特にソ連とは昭和31年の日ソ共同宣言で戦争状態の終結を相互確認するまで、少なくとも日ソ間の戦争は占領憲法で日本に交戦権が認められていない中も続いていたのです。
ソ連は連合国の一員を自認していたにもかかわらず、日本が降伏を宣言したのちも旧満洲国や朝鮮半島北部(→朝鮮戦争に発展)、南樺太、千島列島へ侵攻するという禁じ手を犯しています。
これは多分に広島、長崎への原爆投下にまで及んだ米国の対日侵略・占領統治力に焦ったからでしょうが、散々米国に日ソ不可侵(中立)条約の破棄をそそのかされながら、対日理事会では米国がソ連をつまみ出した(対日統治を独占した)ため、いよいよこのような卑劣な日本領侵略行為を正当化すべくソ連を頑にさせたとも言えるのです。
日本は今もって千島列島全島と南樺太の帰属がわが国にあると主張すべきであり、さもなくしていわゆる北方領土問題は解決しません。これを前提としないから、日露間の政治決着による日本領の確認に於いて、主要な「4島」が「2島」になったり「3.5島」になったりするのです。
麻生太郎元首相は、露国に招かれて南樺太で日露首脳会談をやるという大失態を演じたのち、恐らくこれを自覚して、北方領土問題について「帰属の問題がある」と主張しました。日本の首相が「帰属」を口にしたのは大きな前進であり、今でも忘れません。
しかし、菅直人首相は27日、北方領土元島民の孫ら中学生7人の表敬訪問に応じなかったのです。執務室に逃げ込み、これほど露骨に領土問題への無関心を表明するとは何ごとでしょうか。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100727-OYT1T00895.htm?from=main2
▲讀賣新聞:菅首相、北方領土元島民の孫らに会わず
さらに、菅内閣は本年度版防衛白書の報告を先送りするらしく、その理由が、島根県隠岐郡隠岐の島町竹島を「わが国固有の領土」と明記してきた防衛白書に何らかの変更(記述の削除?)を加えるためではないかとの見方が広まっています。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010072701093
▲時事通信:防衛白書の閣議報告先送り=「竹島」で韓国に配慮
家族の家・土地を他人に強奪されて、守ろうとも取り返そうともしない一家の大黒柱などありえません。菅首相は、もはや一国の首相としての資格を失っています。皆様、是非とも機会を作っていただいて、映画『氷雪の門』をご鑑賞下さい。露国への憎しみではなく、占領憲法下の日本政府自身の無策を改めて認識し、たちあがりましょう。
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皇紀2670年(平成22年)7月27日
社民党の辻元清美前副国土交通相(衆議院大阪10区)が離党するのだそうです。民主党の千葉景子法相(参議院神奈川)は、今夏の選挙で落選したにもかかわらず26日から民間登用の形で菅内閣に残留していますが、民主党内の1つ空いた旧社会党枠を辻元代議士が埋めるのでしょうか。よほど「閣内」の味をしめたのかもしれません。その旨味を与えてくれない社民党にもう用はない、と。
さて、昭和29年に製作・公開され、全世界を震撼させた日本映画『ゴジラ』(本多猪四郎監督・円谷英二特技監督)が、平成10年に米国版『GODZILLA』(ローランド・エメリッヒ監督)を作らせるに至ったことを、皆様は覚えておられるでしょうか。
と申しますのも、米国版は非常に評判が悪く、日米両国での興行成績も振るわず、予定されていた続編の製作が中止になっていますから、皆様のご記憶から抹消されていたかもしれません。
そもそもゴジラとは、昭和29年3月1日に米国がマーシャル諸島ビキニ環礁で核実験(キャッスル作戦という水爆実験)を行い、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴びて被爆、久保山愛吉さんが亡くなるという事件の発生をきっかけに、東宝の田中友幸プロデューサーが「核の落とし子が東京を襲う」というプロットを思いつき、生み出された「怪獣」です。
それが米国版では、仏国の核実験によって生み出された突然変異の「超巨大爬虫類」という設定になっており、米国の責任逃れという姑息な一面と、怪獣映画の作り方を知らないハリウッドの浅知恵があいまって、ほぼ擁護する声のないほど不出来な(第19回ゴールデンラズベリー賞最低リメイク賞受賞)作品になってしまいました。
米軍の攻撃によってあっけなく死んでしまうという設定もまた、多くの批判を浴びた点です。ゴジラは本来、人類が作り出した武器・弾薬を跳ね返すような存在なのであって、昭和59年に原点に戻って製作・公開された『ゴジラ』(橋本幸治監督・中野昭慶特技監督)では、当時の防衛庁・自衛隊が極秘開発した「スーパーX」(架空)すら歯が立たず、ゴジラの帰巣本能を利用して三原山に誘導し、人為的に火山噴火を起こして葬るという手法が用いられました。
このことについて、東宝の富山省吾ブロデューサーは「アメリカにおける怪獣とは『乗り越えるべき存在』、日本においては『畏怖すべき存在』であるという価値観の違いが現れた」と述べています。
各界のゴジラファンによる研究では、例えば地震ナマズを畏れ、神と崇めるに至ったような日本民族の自然祭祀とゴジラの関係性を指摘する方もおり、確かに、恐怖の存在だったゴジラが次第に(第5作『三大怪獣 地球最大の決戦』以降)子供たちにも親しまれる「人類の守り神」的存在へと変貌していったのは事実です。
自然は生命の源たる多くの恵みをもたらしますが、ひとたび牙を剥くと恐ろしいものでもあります。何もかも人間が支配・制御できると思う傲慢は通じません。その「定理」ともいうべき真なる命題を祭祀として、司られるのが天皇陛下なのですから、これは政治的思想でも何でもありません。もはやそのようなことも忘れてしまっている日本民族の何と多いことでしょう。
ですから、天皇陛下に対する畏れを知らない右翼や保守派も多くなっています。平気で東宮批判するような彼らは、いわば保守を騙る現世個人主権の革命思想家に他なりません。非常に危険な存在です。
再度申しますが、これは祭祀であって政治の話ではありませんから、富山氏の「畏れ」の指摘は、米国人(エメリッヒ監督は元々独国人ですが)に対してのみならず、日本人に対しても言っておられるのではないでしょうか。
つまり私たちが「畏怖すべき存在」を理解できない限り、ゴジラは再び原点に帰ることはなく、新たに製作されることもないのです。このことは、平成18年にリメイクされた『日本沈没』(樋口真嗣監督)のお粗末な物語展開の原因でもありました。どういうことなのか、一度考えてみられて下さい。また取り上げます。
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