日本企業を「戦犯」扱い

皇紀2672年(平成24年)3月2日

 http://www.asahi.com/international/update/0229/TKY201202……
 ▲朝日新聞:韓国議員、「戦犯企業」リスト公表 補償と謝罪求め

 現段階では韓国の一国会議員によるたわ言ですが、日韓併合条約に基づくわが民族と朝鮮民族(韓民族)の人材交流において、朝鮮人を雇用した日本企業を「戦犯企業」などと韓国政府が断罪し、制裁を加えるというのならば、日韓基本条約違反で政府は韓国に対して経済制裁を課すと発表すべきです。

 かつて「竹島の日」を取り上げた際、読者の方から対韓経済制裁のご提案をいただきましたが、これを政府で検討しておいて間違いはありません。当時の日韓は同胞であって戦争をしていたわけでもないのに、「戦犯」などとされたわが国の企業が何らかの制裁を受けるいわれはないのです。

 自民党も民主党も、経団連など大企業からの注文には弱いのですが、それはいずれも短期的な収入に目がくらんだものばかりです。韓国の議員たちもそのことは(自分のことのように)よくご存知で、よって上記のような無謀な要求でも通ると思っているのでしょう。

 しかし、本当に長期を視野に入れた企業経営を考えたとき、気がつけばわが国の企業が作り出す唯一無二の必要不可欠な部品によって支えられてきた韓国企業に出し抜かれていることに、何の危機感もないほうがどうかしています。

 むしろ、いわゆる「歴史問題」とやらを持ち出してわが国を脅そうとするこのような妄動は、韓国企業からわが国企業の部品を抜き取って(禁輸にして)、製品として組み立てられないようにしてしまう絶好の機会にほかなりません。

 短期的には、韓国企業に輸出できなくなる分の収益は減りますが、しばらく頭を低くして待っていれば、彼らは軒並みつぶれてなくなるでしょう。わが国に対する好戦的で卑しい態度がもたらした「自業自得」と彼らが気づくか否かは、もはや韓国人の問題です。

 そして、現下のわが国企業に欠け始めた「本当に多くの国々の、それぞれの需要を調査して製品を作りわけ、よいものを売っていく」という知恵の集結と継承は、絶対に日本人を雇用することで達成していかなければなりません。これは、極めて「地球市民」的な新自由主義経済との戦いでもあるのです。

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こんな裁判まだ続けるの?

皇紀2672年(平成24年)3月1日

 http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012022800620
 ▲時事通信:発砲2警官に無罪=「殺意、違法性認められず」−男性死亡の付審判・奈良地裁
 http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012022800878
 ▲時事通信:「裁判、めちゃくちゃ」=死亡男性の母、遺影持ち法廷に−奈良警官発砲

 実のところ昨日にもすぐ取り上げたかったほど、私はこの付審判に注目していました。付審判とは、司法のいわゆる「公務員かばい」の疑念を払拭すべく、公務員を告訴、告発しても不起訴にされた場合、その者が裁判所に請求できる審判です。今回は裁判員裁判でした。

 事件は、平成十五年九月十日に奈良県大和郡山市で起きたものですが、容疑者二名は天理市や橿原市内で車上荒らしに及び、現金やクレジットカードを盗んで車で逃走、気づいた被害者からの通報を受けた奈良県警の警察官が追跡し、路上で職務質問を試みますがさらに逃走され、再三にわたって「止まれ」と警告するもなお逃走され続け、停車したところを急発進でひき殺されそうになった警官がやむなく発砲したというのが概要です。

 それで、運転していて主犯とされた者はすでに窃盗と公務執行妨害で有罪となり、服役して出所していますが、助手席にいた者はその場で射殺されてしまったかたちになります。それが高壮日さんであり、一億八千万円を求めて国家賠償訴訟を起こしたのが、その母親の金順得さんでした。

 仮にこの二人の警官に有罪判決が下っていた場合、司法が警察行政における公務の執行を一部妨害することになったと申して過言ではありません。それほど重要な審判でした。無罪であるのは当然であり、三権分立を前提としても、有罪の場合には警察側が徹底して抗議すべきだったと思っています。

 そうはならずに、金さん曰く「めちゃくちゃ」な判断が下りましたが、はっきり申し上げて、警察にとってこの審判を請求されたこと自体がすでに「めちゃくちゃ」だったのです。それでも控訴されます。

 主犯とされた者は、高さんを「犯行とは無関係」とかばっていましたが、同乗したまま犯行につき合っていたのは間違いなく、亡くなられたことは残念であり、死者を冒涜しないわが民族の考え方にしたがってこれ以上は非難しませんが、母親の「子の命をカネに換えようとした」態度には首を傾げざるを得ません。もし「そんなことを言われる筋合いはない」といわれるのなら、生前、子にどれほどの注意をはらった結果だったというのでしょうか。

 この付審判には裁判員が加わりましたが、私たちが映画などで見るように、警告のためであれば車輪に向けて発砲すればよいという漠然たる認識は、他の車で込み合っていたわが国の道路事情にあって跳弾の恐れを無視したもので、まして母親が言い放った「警官の家族でも撃つのか」という言葉には、一切何の意味もないとわかりました。

 あえて人種の問題はまったく取り上げませんが、わが国でこのような盗難、強盗、或いは強姦、殺人を犯しながら逃走するような凶悪犯がいなくならないかぎり、警察官は発砲の是非という高度な判断を瞬時に求められることがあるのであり、私たちもそれをよく理解しておかなければならないのです。

児童福祉施設職員が虐待

皇紀2672年(平成24年)2月29日

 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120228/……
 ▲産経新聞:施設職員が虐待児を恫喝 入れ墨見せ暴言繰り返す 大阪市処分せず 賞与査定は大甘

 いわゆる「児童虐待問題」を講演などで扱った際、私は多くのことをまず整理しました。世にいう児童虐待とは、子供に対する暴行、或いは殺人未遂、殺人に該当する本来刑事事件であり、教育を目的とした有形力の行使ではありません。

 そして、育児放棄も含め、このような問題の顕在化は、私たちが極めて過大に「個人の権利」を主張する占領憲法(日本国憲法)下で育ってきたことと無関係ではなく、親が子を守るという本能すら退化し始め、親が自分の時間や欲望(本能ではない)をこそ満足させるべく、子を放ったらかし、思い通りにならない子に暴力をふるって黙らせようとするのです。

 ですから、もう一度お断りしますが、これらと教育を目的とした有形力の行使はまったく違います。子を叩いてでも叱る親や学校の先生を、一方的に「体罰をふるい、児童や生徒を虐待した大人」と決めつけてはいけません。

 しかし、その程度の決めつけで親子が引き剥がされ、子は児童福祉施設に送られ、法のどこを読んでも学習などの目的もない、親のいない暮らしを強いられる場合が実は多発しています。決めつけるのは、地方自治体の児童相談所職員です。

 彼らの全員がそれ相当の資格を有しているらしいのですが、実態として必ずしもそうではありません。まして、児童福祉施設の性格上、送られてきた子供たちとどう接するべきか心得た者が職員として勤務しているはずが、まず刺青を彫り、それを見せつけ、子供たちを脅しあげるというのは、どういう人事の結果でしょうか。

 無論、この一人を見て全員、全体を語る気はありません。それはどの組織に対してもそうしてきました。それでも、この問題が発覚して「やはり私たちが追及してきたとおり、実際にはこの程度の人間しか配置されていないではないか」と申さざるを得ません。これだけのことをして「処分の予定はない」と強弁する大阪市役所は、確実に狂っています。

 当該職員への評価は、おそらく平松前市政下で下されたものでしょうが、(たとえ別の大きな問題を指摘せざるを得ない政治家であるとはいえ)現職の橋下徹市長に指導していただくほかありません。そのためには、私たちがこの問題を取り上げていかなければならないのです。ぜひとも引き続きこの問題への皆様のご理解を賜り、ご協力ください。

これは攻撃の合図なのか?

皇紀2672年(平成24年)2月28日

 http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_cul&k=20120227028459a
 ▲時事通信:「アーティスト」が作品など5冠=主演女優賞はM・ストリープ−米アカデミー賞

 二十六日に開催された米国のアカデミー賞授賞式(主催:映画芸術科学アカデミー)で、最優秀外国語映画賞に義蘭(イラン)の『別離』が選ばれました。義蘭国民で初めてこの栄誉を手にしたのは、『水曜日の火花』でシカゴ国際映画祭ヒューゴー金賞、『彼女が消えた浜辺』ではベルリン国際映画祭の銀熊賞 (監督賞) を受賞したアスガル・ファルハーディー監督です。

 本作は、やはりベルリン国際映画祭で金熊賞および二つの銀熊賞 (女優賞と男優賞) を受賞しており、この賞の最有力作品といわれていました。わが国では今春から公開予定です。

 しかし、義蘭との緊張関係を維持する米国の、その最高位にある映画賞が、一切の政治的要素を排除して純粋に義蘭の作品を讃えたりなどしません。映画人が選出するこの賞にせよ、新聞社記者らが選出するゴールデングローブ賞にせよ、これは過去何度も私たちのような映画研究に取り組んだ者、或いは映画好きによってひそかに指摘されてきたことです。

 はっきり申し上げて受賞した理由は、ファルハーディー監督が義蘭の回教文化指導省から映画製作禁止令を受け、政府の援助をまったく受けずに活動を続けてきた経歴にあります。

 本作も、首都テヘランで比較的よい暮らしをしている中年夫婦の、破滅的な離婚劇に始まるそうで、義蘭社会が抱える男女と親子、信仰と正義の問題に鋭く迫っており、確かに早く観てみたい一本ではあります。

 そのような作品であるからこそ、アカデミー賞は義蘭のこの作品を決して無視しなかったのです。代理店や代理人を使った民主党(米国)による政治介入が審査にあったはずであり、今回の受賞はすなわち、米国政府が義蘭政府を「叩く(攻撃する)」合図にほかなりません。

 この分析が外れてくれることを切に願いますが、わが国政府が親交の深い義蘭に何もできない、英仏米ら政府に何の注文も出せずに原油輸入量を段階的に減らすと発表してしまったことが、まさしく占領憲法(日本国憲法)下の「何事にも指導的役割を果たせない日本」そのものであり、アザデガン油田の件といい、私は悔しいのです。

 くしくも、これは単なる偶然でしょうが、最優秀作品賞と監督賞、主演男優賞を仏国の『アーティスト』が独占し(伊拉久戦争の前後であれば絶対に考えられなかったことで、主要部門なのに米国映画が選ばれず)、最優秀主演女優賞を受賞したメリル・ストリープさんが演じたのは、英国のマーガレット・サッチャー元首相とは、あまりにもよくできた話ではありませんか。

解散回避に必死な民主党

皇紀2672年(平成24年)2月27日

 http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012022600100
 ▲時事通信:違法状態「恥ずかしい」=債務危機回避へ消費増税を−民主・前原氏

 衆議院の解散総選挙を回避したいのは、民主党の中で決して小沢一郎元代表だけではありません。来年の任期満了、或いはその直前まで議席を温存させ、目下の民主党に対する世論の批判を何らかの手を打って和らげようと考えるのは、与党であれば仕方がないといえましょう。

 前原誠司政調会長のこの発言は、明らかに「選挙引き伸ばし」のみを目的にしており、私たちの一票の重みを考えたものとは思えません。恥ずかしいのは、在日朝鮮人から違法献金を受けていた「あなたの選挙」でしょう。ご存知のとおり、彼は自分に対して「言うだけ番長」と批判した産経新聞社記者を、会見場から排除した政治家です。

 産経新聞社の記事は、ときに取材の事実すら疑わしい場合があり、それは朝日新聞社など他社でも同じですが、メディア自身も一定の批判を受けるべきだとは思います。それでも、政治家が自らの政治手法を批判されたからといって、批判した者を一方的に罰するというやり方は到底許されません。反論があれば直接言うべきです。

 私が「民主党は怖いな」と感じるのは、批判的勢力を半ば公然と排除することのあまりの多さであり、公然とできるところに、それが悪いことだとまるで思っていない姿勢が現れています。私たちは抗議の意思を表明できても、実際にその対象を政策的に自身の手でなくすことはできませんから、政官を表でも裏でも動かそうとすればするほど、余計に「権力」の恐怖を感じながらやることになるのです。

 地方自治においても、自治労や日教組ら票田を抱えた「権力」の怖さを、私はかつて身をもって体験しましたが、国政における民主党の存在はまさしく「そのもの」であり、いわゆる「左翼」が政権を掌握したことの本当の恐ろしさを指摘せずにはいられません。

 民主党はこのあと、小選挙区比例代表連用制の施行に向けた議論を始めることで(創価学会=)公明党を取り込んでいくつもりでしょうか。またぞろ申しますが、この選挙制度こそ「屁理屈のこねくり回し」にすぎず、ひとまず国会は中選挙区制の再施行に向けた議論を始めるべきなのです。

 私はこれまで、皆様にも「声を上げてください」と訴え続けてきました。そうしなければ、間違った政治に対して沈黙したことの罪を、のちのち私たち自身で償わなければならないからです。それがどれほど不毛なことか……。破壊活動(テロリズム)的思考に傾倒する勢力に抗議することは、先述のような恐怖を伴いますが、それでもやめてはならないのです。