口蹄疫対策とうつくしい人生

皇紀2670年(平成22年)5月13日

 平成14年日本公開の仏国映画『うつくしい人生』は、南仏の田舎町を舞台に、代々の農業を継ぐことに不満を抱く青年が、牧場で狂牛病が発生したことにより父が自殺祖父はショックで認知症を発症し始め、家族がバラバラになる危機に直面し、自らの人生と家族を見つめ直すという秀作です。

 本作ののち『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』を発表したフランソワ・デュペイロン監督の作品ですが、祖父(ジャック・デュフィロ)の太陽や牧場の牛たちへ感謝の意を口にする場面は、まさに自然祭祀そのものであり、唯一無二の祭祀王たる天皇陛下をいただく日本を守ろうとするわが国の保守主義が、決して内向的な国粋主義の類いでないことは明らかでしょう。このような欧州映画は多く存在するのです。

 しかも、主人公の青年ニコラ(エリック・カラヴァカ)は結局、残る家族を集めて山の上に移り住み、農業を継承する決意をします。この悠然たる大自然を映し出して秀逸だったのは、永田鉄男撮影監督の仕事でした。

 目下、宮崎県で発生した口蹄疫(家畜が感染するウイルス性の急性伝染病)が猛威を振るっています。10年前の発生時よりケタ違いに被害が拡大してしまったのは、鳩山内閣の初期対応が完全に間違ったことにあるようです。

 口蹄疫の発生を横目に赤松広隆農林水産相が連休中に外遊していたこともあり、宮崎県入りはやっとの10日でした。猛烈な批判を回避しようと、原口一博総務相は12日、東国原英夫宮崎県知事との会談で、感染家畜を殺処分した農家への補償として特別交付税の活用などを検討する考えを示しましたが、政府の対策が後手に回っているのは否めません。

 ニコラの父も狂牛病の発生に悲観して自殺してしまいましたが、人間が生きていくためには「食べる」ことが欠かせない以上、農業や漁業に於いて不測の事態が発生した場合、いかに迅速且つ適切に対応するかが各国政府に問われるでしょう。しかも、これは平時に或る程度シミュレートしておかねばなりません。なぜなら国家安全保障問題だからです。

 昨日、私の手元に宮崎県の地元農家の方による悲鳴が届きました。まず消毒剤が圧倒的に足りないこと、現場スタッフの確保を政府でやると鳩山内閣は言っているが、実は約350人のほとんどが県による確保でまったく足りないこと、しかも九州農政局から派遣されてきた獣医師3人は資格のみで、まともに牛に触ることも出来ないと言います。

 児童相談所問題によく似たことが、やはりあちらこちらで起きるのです。(→児童相談所の呆れた実態 YOUTUBE 約5分)

 これでは殺処分がまともに進まず、毎日発症する頭数の方が圧倒的に多いのだそうで、消毒剤の不足で本来は牛に使わないような強い薬を浴びて毛の抜けた牛たちを、農家は涙ながらに飼い続け、いつ感染するかと怯えているそうです。

 これに鳩山内閣はまったく応えていません。自衛隊員を派遣してでも殺処分、ならびに保健所やまともな獣医師による検査体制の確保が必要です。報道もなぜか極めて露出を抑えており、この危機がまるで全国に伝わっていないことも問題でしょう。是非とも世論で頼りない鳩山内閣を動かすようご協力下さい。

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ダンサー・イン・ザ・ダーク

皇紀2670年(平成22年)5月12日

 私の好きな映画のひとつに、平成12年製作・公開の丁抹(デンマーク)映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』があります。カンヌ国際映画祭では、この前作『奇跡の海』がグランプリを、そして本作でパルムドール(最高映画賞)を受賞したラース・フォン・トリアー監督の作品です。

 しかし、米国映画にありがちな予定調和的ハッピーエンドを必ずしも好まない日本人の中にさえ、本作のあまりに暗く、一切の救いがない終わり方には否定的な批評も多く存在しました。

 先天性の病気で視力を失いつつある主人公セルマ(ビョーク)は、貧しいながらも工場ではたらくことを楽しんでいましたが、或る日ついに失明した上に、それを隠してはたらいていたところ、機械を壊して解雇されてしまいます。挙げ句、彼女の病気を遺伝した息子の手術費用に貯めていたお金を隣人の警察官ビル(『グリーン・マイル』などのデヴィッド・モース)に盗まれ、彼に「俺を殺してくれ」と言われて銃を掴まされるがままに発砲、彼は死んでしまいます。

 セルマは逮捕され、殺人罪で起訴されてしまうも、どうしてもお金を息子のために残したい彼女は、自らのために弁護士を雇うこともなく、良き隣人だったビルが浪費癖の妻に悩んで一旦はお金を盗んだことも、皆が日頃よりお世話になっていた人たちだったからこそ隠し、そのまま死刑にされてしまうのでした。

 私には、彼女の想いが痛いほどよく分かります。結局「息子を守り抜いたセルマは勝ったのだ」と思えば、決して一切の救いがないわけではありません。

 わが国には祖先祭祀という考え方があり、それを司っておられるのが天皇陛下なのですが、これであれば生命の継承のために自らの生命をも犠牲にするという本能の行為が救われます。凄惨な戦場に於いて、子を守ろうと抱きかかえたまま亡くなっている母親のご遺体などを写真などで見たことがありますが、これは人間の「本能」でしか説明のつかない行為だと言えましょう。

 主としていわゆる米国的価値観で言えば、本当に本作には一切の救いがありません。ところが日本本来の価値観で見ると、セルマの選択は愚かでも敗北でも何でもないのです。米国映画へのアンチテーゼを掲げてきたトリアー監督は、特に祭祀を意識したわけではないでしょうが、極めて本能的にこの展開へと行き着いたように思います。

 とはいえ、本作の最も悲しいところは、最大の理解者だった友人キャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)でさえ、彼女の無実を完全には信じておらず、情状酌量の余地があるのだと叫び続けていたことでしょう。同じく彼女の死刑執行に疑問をもった看守ブレンダ(『メン・イン・ブラック』などのシオバン・ファロン)も、立場上ただ涙でセルマの死を見守るしかありません。

 http://www.asahi.com/national/update/0429/SEB201004290057.html

 ▲朝日新聞:たばこポイ捨て注意で口論 女性殴った容疑、公務員逮捕

 日本のこのような事件報道はどこまで正確か分かったものではありませんから何とも言えませんが、仮にもたばこのポイ捨てを注意し、逆ギレされても注意し続けた男性は立派だったと思います。それでも、振り払った手が女性の顔に当たり、逆ギレ状態の女性が被害を訴えれば傷害容疑で逮捕されてしまうのです。

 こうした世の不条理を描いてトリアー監督は秀逸だったと思います。ほぼドグマ95(映画製作に於ける「純血の誓い」とも言われるルール)で撮影された効果はともかく、音楽を愛するセルマの空想として登場するミュージカル場面の構成も見事でした。今一度、日本本来の価値観で本作を見直していただけると、セルマが失った光をあなたが見ることになると思います

山の郵便配達

皇紀2670年(平成22年)5月11日

 平成13年日本公開の支那映画『山の郵便配達』は、日本で言えば昭和50年代後半の湖南省西部を舞台に、山岳の村落に手紙を配り続ける年老いた配達人が、跡を継ぐ息子と共に最後の配達に赴く様子を描いた秀作です。

 のちに香川照之主演『故郷の香り』や『ションヤンの酒家』を発表した霍建起(フォ・ジェンチィ)監督は、この父子の微妙な距離感とその変化を、手紙を受け取る人々との交流を交えながら、実に見事に描いていきます。

 見終わったあとの、何とも言えぬ幸福感は、親から子へと魂が受け継がれていく美しさに、人間の本能が反応することによって得られるのでしょう。これは、かつて毛沢東の文化大革命が、子が親を共産党に売り渡すよう家族を引き裂くことから始めたのに対する静かなアンチテーゼであり、人間普遍の情愛(生命の継承)を描いて日本でも高い評価を受けました。

 驚くべきことは、山岳地域に於ける中共国内の郵便配達制度でありましょう。まるで前近代的な様子でありながら、重ねて断わるが日本の昭和50年代後半にまだこのような郵便配達をしていた国家の、近年のめまぐるしい経済発展は何かということです。

 http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100510/plc1005101302003-n1.htm

 ▲産經新聞:中国人観光客のビザ発給を緩和へ 「ゴールドカード」保有でOK

 日本政府(鳩山政権)は、ごく単純に中共からの観光客増加を目指してさらなるビザ発給の緩和に踏みきるようですが、公称13億人の国家に富裕層がわずか1?2億人しかおらず、残る圧倒的多数が貧困層で、もはや明日の食い扶持を稼ぐためなら「食の安全も環境保護もない」という彼らの現状を、共産党政府と同じように目を伏せていてはいけません。

 或る中小企業経営者の方に伺った話では、中共国内でのビジネス展開に欧米企業を一枚咬ませるとうまくいくが、日本企業単独で、例えば現地企業と合弁会社を設立すると、大抵は日本人のほうが何らかの酷い目にあうと言います。

 霍監督は、今や共産党政府も(非公然ではあるが)失敗を認めている文化大革命的なるものを否定しても、決して自分たちの国家を否定していません。しかし日本の場合は、或る種のポピュリズムとして文化人も政治家さえも反権力をうたって反日本を説いてしまうのです。そして、安易に米国や中共など他国の価値観に迎合してしまうものですから、そうはしない欧米企業は強くても、日本企業はどうしても弱くなり、現場ではたらく私たちが最も酷い目に遭うのでしょう。

 中共政府のゆがんだ経済政策が拡大すればするほど、山の郵便配達のような暮らしは否定され、生命と自然の継承などお構いなしの暮らしへと人々が奔らざるを得ません。日本に渡るためならゴールドカードの偽造も辞さないでしょう。そうした傾向は、なり振り構わぬ資源外交で取り込んだアフリカ諸国にも影響を及ぼし始めています。

 果たして、このような国家から大量の観光客や移民を政策的に受け入れて、日本政府にどのような歓迎の準備ができているというのでしょうか。山の郵便配達の父子はその生き様から、日本人の私たちにさえも力強く問いかけているような気がします。

タイヨウのうた

皇紀2670年(平成22年)5月10日

 ポルフィリン症(プロトポルフィリン症)の難病指定を政府に請願する署名活動が4日、鳥取県境港市であり、特にかねてより池谷さん兄弟を取材していたTBSが大きく取り上げました。

 http://mainichi.jp/area/tottori/news/20100505ddlk31040248000c.html

 ▲毎日新聞:ポルフィリン症 難病指定、国に請願JR境港駅前で署名活動/鳥取

 平成18年公開の日本映画『タイヨウのうた』は、小泉徳宏監督のデビュー作で、シンガーソングライターのYUIさんの女優デビュー作でもあり、中規模公開作品としては異例の大ヒットとなりましたが、ここでは色素性乾皮症が取り上げられました。

 ポルフィリン症と色素性乾皮症は、日本民族がすでに『日本書記』に生命の源として認識していたことを表した太陽の光を避けなければならないという皮肉な症状であることに共通点はあるものの、基本的には別の疾患です。

 映画では、この日光を避けなければならない点だけが強調されていましたが、小泉監督は決して「太陽のギラギラ」を恐怖描写に変えることはしませんでした。そこに、自然と人間の関係を古来より極めて高いレヴェルで認識してきた日本の映画らしさがあり、であるからこそ太陽の光に当たれない悲しさが強調されています。

 主として色素性乾皮症は神経障害を伴い、映画での描写には難しいものがあったのでしょう。しかし、このようないわゆる難病の存在を広く知らしめることに貢献したのではないでしょうか。

 ポルフィリン症は、プロトポルフィリンの水溶性が低いことにより、肝臓に胆石がたまるといった症状を引き起こしますが、色素性乾皮症が特定疾患に指定されたのに対し、ポルフィリン症はされていません

 上記毎日新聞社配信記事には「難病指定」と書かれていますが、実はこれと「特定疾患」は同じではないのです。厚生労働省の難治性疾患克服研究事業のうち、特定疾患とされたものは研究費の助成とともに患者の治療費も助成対象ですが、難病指定とされるものでは患者への助成がありません。恐らく池谷さんたちは特定疾患指定を求めているはずであり、そうであれば難病指定の請願という報道は正確ではないでしょう。

 ところが、そもそも「難病」に定義がありません。治療法が確立されていないという点だけで言えば癌(がん)などもそれに該当してしまい、一方すでに日本政府が難治性疾患克服研究事業を非常に多く抱えすぎてしまっているという問題もあるそうです。

 これには製薬企業との兼ね合いもあり、患者数の少ない疾患に対して治療薬の開発が不効率であるという経済原理が、ときには生命を軽んじる傾向を許容してしまいます。政府主導の難治性疾患克服研究が、たとえ研究費を助成するものであってもうまく進まない理由と言えましょう。

 池谷さんたちは民主党への政権交代以降、一度は厚生労働省へ請願を届けました。鳩山由紀夫首相は「命を守りたい」などと国会で演説しましたが、俗に理系であると言われているほど仮説の立証をする(命を守る政治という目標から実行すべきことを論理だててゆく)能力はまるでありません。この請願に対する回答は一切、池谷さんたちにないのだそうです。

 在日米軍普天間飛行場移設問題でもそうですが、鳩山首相や民主党議員たちは極めて情緒的に政治目標を語りあげて現実的対処ができていません。できないことを言ってはならず、たとえ非難を浴びると分かっていてもできない理由を説明すべきです。鳩山首相の「命を守りたい」と「最低でも県外」は、ほぼ同じくらい軽く発せられた言葉に違いありません。

 病気も「自然」と言えます。癌も自らの身体が育てた細胞の一部であり、自然も災害をもたらすことから、畏れの対象であることを私たちはすっかり忘れてしまっています。この「自然」とどう向き合うかが問われているのであって、映画でも登場人物たちが受け入れたり、闘ったりする様が描かれていました。鳩山内閣にそのような姿勢はまったく見受けられませんが、皆様はいかがお感じでしょうか。

心機一転がんばります!

皇紀2670年(平成22年)5月7日

 5日記事にて、私は「これまでのような政治ブログの形態を終了させたいと思います」と申しました。では、どのような形態で発信していくか、ということです。

 現在、日本に於けるブログの役割はさまざまでしょう。ツイッターのような発信形態も登場しましたが、よほどインターネットにかじりついていない限りその機能を生かしきることはできず、私のように常時チェックする時間がないと大した魅力を感じません。

 そんな中で、一体どれほどの日本国民が政治ブログを読んでいるのか、という疑問は以前からありました。私がやってきたことは、いわゆるビジネスのチェーン展開にあるドミナント政策(地域を限定して集中出店する戦略)のようなものであり、日本国家の問題を扱ってきたにもかかわらず、果たしていつまでもそれでよいのかと自問してきたのです。

 特に政治ブログを読むほど政治に高い関心があるわけではないという方々にも、日本国家の基軸が何にあるべきかを伝え、認識を共有していくことを考えれば、おもいきって娯楽や生活分野のカテゴリーに飛び込んでいこうと思います。

 これは、私が街頭演説をする際、常に心掛けてきたことでした。できるかぎり平易に、時には流行の事象を例にとってでも語ってきた基本的な私の姿勢です。それをインターネット上でも体現する試みに打って出ます。

 在日米軍普天間飛行場の移設問題をめぐり、いよいよ鳩山由紀夫首相の発言の軽さがメディアでも取り上げられ、民主党の山岡賢次国対委員長の沖縄県民を莫迦にしたような発言までもが、しっかりと問題視され始めました。多くの日本国民が政権交代への失望を抱いていることでしょう。

 しかし、ではどうすべきなのかが分かりません。ほとんどの国民に長期的な国家展望を考える時間などありませんから、つい民主党への政権交代に乗ってしまったのですが、これもダメとなると、もはや歩むべき道も光も失ったようなものです。

 この間にも、政策をときどきに変節させる小沢一郎幹事長が無為無策に時を過ごしているわけなどありません。今ごろになって「対案を」などと寝とぼけている自民党との間で、参議院議員選挙後の勝手な政界再編を思案しているに違いないのです。

 私は「この国は日本である」と言えるか、と問い続けてきました。それは決して内向的な話ではありません。米軍による占領統治の続くような国が経済大国であり、常に弄ばれて没落していくかもしれないという全世界規模の危機と、地球を守ることと人類の生命の継承を守ることの教えがわが国にありながら、全世界に啓蒙することもしない大罪を問うているのです。

 普天間問題にしても、なぜ誰も占領憲法下で鳩山内閣の言う県外も海外もないと言わないのでしょうか。米軍のいやがることは何もできません。そして、米軍が日本をもぬけの殻にしたがれば、その時は黙って従うしかないのです。

 このような日本に、平和環境も語る資格などありません。ところが、本来ならそれを全世界に発信する「祭祀」が日本にあるのです。天皇陛下のご存在は、まさにその証明ではありませんか。

 ということは、ますますもって政治ブログで語るようなことではないとも言えます。今後、ブログランキングから閲覧に来て下さっていた皆様には、何卒拙ブログをブックマークしていただきますよう御願いします。どのカテゴリーに出没するか分かりませんので、あしからず。