皇紀2670年(平成22年)5月17日
目下の泰国(タイ)は、金権・金脈政治で多数の農民を味方につけたタクシン・チンナワット元首相の一派が、アピシット・ウェーチャチーワ現首相体制の失脚をもくろんで暴動を起こし続けているため、日本からの渡航の是非を検討しなければなりません(17日現在 外務省)が、映画で楽しんでいただくことにしましょう。
平成17年日本公開(前年製作)の泰国映画『風の前奏曲』は、泰国の古典楽器ラナート(「心を癒す」の意をもつ船形の木琴)奏者として実在の偉人ソーン・シラパバーレーン師に関する実話を映画化したイティスントーン・ウィチャイラック監督作品です。第14回スパンナホン賞(泰国立映画協会賞)などを総ナメにしました。
古典楽器にまつわる『風の前奏曲(原題:ホームローン The Overture)』とくれば、よほど気位の高い文芸大作のように思われますが、実は本作はラナートの格闘技を描いた映画なのです。青年期のソーン師(日本映画『春の雪』にも出演したアヌチット・サパンポン)が宮廷でクンイン(ナロンリット・トーサガー)と演奏対決する場面は、まるで血と汗の最後の一滴までを賭けるような闘いに見えます。
しかし、もうひとつの重要な見どころは、日本の大正末期から昭和初期に於いて、泰国が欧米列強による侵略の危機にさらされる中、これに対抗すべく近代化と称して「古臭い」伝統文化を否定する(当然ラナートの演奏にも注文をつける)軍事政権が現れ、老年期のソーン師(アドゥン・ドゥンヤラット)がウィラー大佐(ポンパット・ワチラバンジョン)と対決する場面でしょう。
ソーン師は言います。「近代化とは、この国の歴史的伝統を否定した上でのものか」と。師は欧米列強を恐れて自ら欧米人化する滑稽を軍人たちに説き、しかしながら政治の現実として泰国の独立を守らねばならない軍人たちの想いもあって、この最後の対決は非常に見応えがありました。
日本は大東亜戦争後、GHQによる占領統治期を経てすっかり米国製占領憲法にひれ伏し、官僚機構も現在その体制のままで、あくまでその法解釈に基づいて立法が動き、GHQに土下座して存続を許されたようなメディア各社が、今も「日本を否定した上での近代化」を垂れ流し続けています。
本作を観ていると、現代日本人は胸が痛むのです。それは泰国人とて同じではないでしょうか。東南亜で唯一国家の独立を維持し続けた彼らの秘訣は、大日本帝國との同盟の裏で欧米連合国とも通じ、戦後の難を逃れたことであり、それはタクシン元首相のやり方にも似ています。
彼は北部出身の客家系華人ですが、米国と通じ、同じ「屈米の徒」小泉純一郎元首相とは刎頸(ふんけい)の友であり、一方で一党独裁の中共に当時自ら結党のタイ・ラック・タイ党北京支部を置くことを許されていました。そのようなタクシン元首相が口にした恐ろしい言葉は、泰国民にとっては絶対的存在であるプミポン・アドゥンヤデート国王陛下を暗に見下し非難したものだったのです。
権力者が自らの国家を売るとはこういうことで、権力を維持するためにはいとわないのでしょう。
概して泰国民にありがちな「白人至上主義」は羨望からくるものでしょうが、同じ亜州の外国人にはときに差別的でさえあります。私は彼らに、もう一度ラナートの音色に耳を傾けるよう勧めたいところです。そして、私たち日本人が本作に触れたとき、占領憲法のまま経済発展し、プラザ合意に持ち込まれ、勝手にバブル経済が発生して崩壊したままのわが国は一体何なのか、と考えずにはいられません。
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皇紀2670年(平成22年)5月16日
平成17年日本公開(前年製作)の独国・墺国(オーストリア)・伊国映画『ヒトラー?最期の12日間?』(原題:Der Untergang = 失脚)は、世界中の賛否両論を巻き起こして大ヒットしたアドルフ・ヒトラー総統率いる独ナチス党の陥落を描いた独TV界出身のオリヴァー・ヒルシュビーゲル監督作品です。
一種の歴史劇ですから物語の詳細は省略しますが、ヒトラーを演じたブルーノ・ガンツの素晴らしさは特筆すべきものでした。「そこにヒトラーがいる」と観客に思わせて十分なのです。
ただ、スティーヴン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』にしてもそう(最後に救われたユダヤ人たちが登場する)ですが、最後に証言者ご本人(ヒトラーの秘書を務めておられたトラウドゥル・ユンゲさん)が登場し、ヒトラーの行いを「私たち独国民はよく知りませんでした」と述べられる場面は、まったくの蛇足だったように思います。
ナチス党が政権を奪取したのは、圧倒的独国民の支持によるものでした。確かに、その経済政策には国民の支持を得るに十分なものがあり、結果としてゲルマン民族至上の思想に陶酔してヒトラーの独裁を許していくわけです。
確かに国民は、厳しさも優しさももつ1人の人間としてのヒトラーが首相官邸で何をし、何を言っていたかまでは知りません。だからこそ、本作でその周囲の人々までもが何をし、どのように生き、どのように死んでいったかがよく描かれて秀逸なのです。(やはり最後のシークエンスは要りません)
日本国民の圧倒的支持を得て政権を奪取した民主党ら与党3党は14日、官僚答弁の原則禁止などを盛り込んだ国会法改正案を議員立法で国会に提出しました。これには、占領憲法の解釈を与党議員たちで勝手に行なえるものとし、自民党をはじめとする野党の全党が反対しています。
この改正案には、国会で答弁する政府特別補佐人から内閣法制局長官を除くことや、政府参考人制度の廃止が盛り込まれており、政権与党にとって都合の悪い法解釈や説明をする人間を国会から排除するものです。
果たして、日本の現代版ヒトラーになってしまうのは一体誰なのでしょうか? 民主党の小沢一郎幹事長でしょうか。いえ、本改正案が可決・成立してしまったあとでは、政権が変われば仮に自民党の総理・総裁も独裁者と化しましょう。その末路も哀れだ、と本作は描いています。
そもそも、これまでの占領憲法(象徴的には第9条)解釈も酷いものでした。占領憲法の施行に関する(大日本帝國憲法を改正したものとする)解釈も含めてです。ゆえに、与党議員たちやその御用有識者たちだけで法解釈をこれ以上曲げていくことは許されません。ただでさえ日本はもう曲がっているのです。
のちに私たちが「小沢幹事長が何をし、何を言っていたかはよく知りませんでした」なんぞと言わねばならぬ状態にならないよう、ほんの少し頑張ってみましょうよ!
http://sitarou09.blog91.fc2.com/blog-entry-159.html
▲【日本を】『日本解体法案』反対請願.com【守ろう】
文例:「国会法改正案」への反対意見書 *利用、改変可*
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皇紀2670年(平成22年)5月15日
平成2年製作・公開の芬蘭(フィンランド)映画『マッチ工場の少女』は、当時私が初めて観たアキ・カウリスマキ監督の作品で、これがいわゆる「敗者三部作」の最終章でした。
12日記事では『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を取り上げたばかりですが、やはり本作も一切の救いがありません。
カウリスマキ監督は、とにかく余計な台詞を排し、冒頭もただひたすらマッチ工場で作業をする主人公の少女イリス(カティ・オウティネン)の恐ろしいほどの無表情を映し出しています。毎日の決まった生活。家には母親とその愛人。稼ぎ頭はイリスなのです。
或る夜、イリスはダンスホールに出掛けますが、どの男性からも声がかかりません。そこで給料日に彼女は赤い派手なドレスを新調します。ところが、母親の愛人からは「売春婦」と罵倒され、母親にも「返品してこい」と言われてしまいました。それでもドレスを着て出掛けてみたイリスに、ついに男性からのお誘いがあります。彼女はそれまでの日常に変化をもたらす(冒頭との差でわずかな表情の変化を見せる)ほど喜び、妊娠もしますが、彼にとっては一夜の遊びでした。
そこで何と、イリスは復讐を計画します。ここは監督も狙って演出したでしょう。薬局で鼠殺しの薬を買うのですが、イリスと店員の会話が極端に短くてかえって面白いのです。
「効き目は?」「イチコロ」「……すてき」
本当に台詞が少なく、母親とその愛人が一日中かぶりついているテレビから流れる天安門事件のニュースくらいにしか字幕がつかなかったのでは、と勘違いしてしまうほどでした。カウリスマキ監督は、まさに「目で見せる映画」を撮っているのです。
その演出の見事さは、ダンスホールのシークエンスで彼女の待ちぼうけを表現するのに、やたら足元に増えていくレモネードの空き瓶を映し出しています。もはやこれも笑いを誘いますが、すなわち救いのないような彼女の毎日を決して哀れなだけで表現しないのです。
確かにイリスは低賃金労働の弱者、敗者、負け組かもしれません。私が世間の評価に反して山田洋次監督の『学校』といった作品をまったく評価しないのは、あくまで「巨匠が巨匠の目線で社会的弱者を温かく取り上げてあげました」という演出しかしておらず、カウリスマキ監督のようなイリスの暮らしに飛び込む演出がまるでないからです。
こうなりますと、俗に「敗者三部作」と言えど、その「敗者」とは何なのでしょうか。わが国では、小泉構造改革で「勝ち組」「負け組」の「自己責任」が流行りましたが、民族協和、ともすれば皇民化のもとで多民族協和までも掲げた日本らしさが急に否定され、米国由来の拝金主義を有り難がって皆が疲弊したのです。
今もって経済評論家の勝間和代さんのような「勝ち組幸福論」を叫ぶ人がまだいますが、彼女による若者の起業促進の訴えにしても、そこに「実(実物・実体)」がありません。そのような話を有り難がる前に、勝ち組・負け組というくだらない線引きに疑問をもつべきでしょう。
私が以前、民主党が高校授業料無償化に踏みきったことで、給食費の無償化まで訴え始めた市民団体の存在を取り上げて批判したのは、無償化のための支給がまず行政の不効率であるという前に、生活保護の問題にしてもそうですが、本当に困っている人とそうでない人の実態が分からなくなってしまった日本の現状で安易な議論をするなと言っているのです。
分からなくしてしまったのは、この勝ち組・負け組論議の中で、「私も和牛が食べたい」「休日には東京ディズニーリゾートに行きたい」といった願望の膨張と、自らの生活の中でやりくりして幸せを見つけていくという生きていくための知恵、或いは自らの力で生活を向上させていく知恵の低下を招いたことにあると思います。前提として、バブル経済の発生と崩壊や、ゆとり教育の実施も一因だったでしょう。
一切の救いがないように見えるイリスの人生を、カウリスマキ監督がそのように設定し、静かにだが滑稽に描くことで、実は「救いとは、どこに線引きして言っているのかね」と私たちにまるで問いかけているようです。
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皇紀2670年(平成22年)5月14日
本日は何も考えずに笑っていただきましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=LPpY_-fA-v0
▲YOUTUBE:三宅雪子議員転倒 超スロー再生
民主党の三宅雪子衆議院議員(群馬4区=落選 比例北関東ブロック)が転倒し、自民党が暴力を振るった結果だとされ、現在話題になっております。
動画を見る限り、民主党の支持母体である労働組合の言いなりになったような国家公務員法改正案の強行採決に反対すると叫んだ自民党の甘利明元経済産業相が出した手は、まったく三宅代議士に当たっていません。
足元が見えないので分かりませんが、三宅代議士は何をお考えになったか、前に出ようとして自ら勝手にこけています。
翌13日、衆議院内閣委員会には車いすに乗って出席され、非常にお気の毒だったのですが、これを「自民党のせいだ。あってはならない暴力」と訴えるのはいかがなものでしょうか。杖までついておられたのが、本会議場では痛いはずの足を組んで座っておられました。
すべてが自作自演なら、民主党と自民党の対立というのもその内に入っているのでしょうか。「本日は何も考えずに」とは申しましたが、国会議員のやっていることですから、この茶番はそうはいかぬかもしれません。
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皇紀2670年(平成22年)5月13日
平成14年日本公開の仏国映画『うつくしい人生』は、南仏の田舎町を舞台に、代々の農業を継ぐことに不満を抱く青年が、牧場で狂牛病が発生したことにより父が自殺、祖父はショックで認知症を発症し始め、家族がバラバラになる危機に直面し、自らの人生と家族を見つめ直すという秀作です。
本作ののち『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』を発表したフランソワ・デュペイロン監督の作品ですが、祖父(ジャック・デュフィロ)の太陽や牧場の牛たちへ感謝の意を口にする場面は、まさに自然祭祀そのものであり、唯一無二の祭祀王たる天皇陛下をいただく日本を守ろうとするわが国の保守主義が、決して内向的な国粋主義の類いでないことは明らかでしょう。このような欧州映画は多く存在するのです。
しかも、主人公の青年ニコラ(エリック・カラヴァカ)は結局、残る家族を集めて山の上に移り住み、農業を継承する決意をします。この悠然たる大自然を映し出して秀逸だったのは、永田鉄男撮影監督の仕事でした。
目下、宮崎県で発生した口蹄疫(家畜が感染するウイルス性の急性伝染病)が猛威を振るっています。10年前の発生時よりケタ違いに被害が拡大してしまったのは、鳩山内閣の初期対応が完全に間違ったことにあるようです。
口蹄疫の発生を横目に赤松広隆農林水産相が連休中に外遊していたこともあり、宮崎県入りはやっとの10日でした。猛烈な批判を回避しようと、原口一博総務相は12日、東国原英夫宮崎県知事との会談で、感染家畜を殺処分した農家への補償として特別交付税の活用などを検討する考えを示しましたが、政府の対策が後手に回っているのは否めません。
ニコラの父も狂牛病の発生に悲観して自殺してしまいましたが、人間が生きていくためには「食べる」ことが欠かせない以上、農業や漁業に於いて不測の事態が発生した場合、いかに迅速且つ適切に対応するかが各国政府に問われるでしょう。しかも、これは平時に或る程度シミュレートしておかねばなりません。なぜなら国家安全保障問題だからです。
昨日、私の手元に宮崎県の地元農家の方による悲鳴が届きました。まず消毒剤が圧倒的に足りないこと、現場スタッフの確保を政府でやると鳩山内閣は言っているが、実は約350人のほとんどが県による確保でまったく足りないこと、しかも九州農政局から派遣されてきた獣医師3人は資格のみで、まともに牛に触ることも出来ないと言います。
児童相談所問題によく似たことが、やはりあちらこちらで起きるのです。(→児童相談所の呆れた実態 YOUTUBE 約5分)
これでは殺処分がまともに進まず、毎日発症する頭数の方が圧倒的に多いのだそうで、消毒剤の不足で本来は牛に使わないような強い薬を浴びて毛の抜けた牛たちを、農家は涙ながらに飼い続け、いつ感染するかと怯えているそうです。
これに鳩山内閣はまったく応えていません。自衛隊員を派遣してでも殺処分、ならびに保健所やまともな獣医師による検査体制の確保が必要です。報道もなぜか極めて露出を抑えており、この危機がまるで全国に伝わっていないことも問題でしょう。是非とも世論で頼りない鳩山内閣を動かすようご協力下さい。
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