日本が描いた世界大戦争
昨日記事で少しばかり東宝特撮映画を取り上げるうちに、どうしてもご紹介しておきたい作品を思い出しました。それが昭和36年製作・公開の『世界大戦争』です。特技監督はもちろん円谷英二氏ですが、監督は僧門にあった松林宗恵氏であり、本作では仏教的無常観を描いたと言い遺しています。
主人公は政治家でも軍人でもありません。一介のハイヤー運転手である田村茂吉(フランキー堺)とその妻(乙羽信子)、長女冴子(星由里子)とその恋人で笠置丸船員の高野(宝田明)たちなのです。もちろん当時の米ソ冷戦を下敷きにした連邦側・同盟側の核兵器の発射をめぐる緊迫したやりとりを挟みますが、松林監督はあくまでそのような国際情勢に関与し得ない市井の人々を丁寧に描きました。
大東亜戦争の敗北から16年、サンフランシスコ講和条約の発効からわずか9年で大都市を形成し始めた東京の繁栄が冒頭に映し出されますが、本作は最後に地球上のめぼしい都市という都市の核爆発による壊滅と人類の絶滅を描いて終わります。この基本的構成は、のちの『日本沈没』(森谷司郎監督・中野昭慶特技監督)と同様ですが、日本民族の大移動が許されたものと本作ではあまりに違い、ともすれば私が先般より取り上げてきた『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『マッチ工場の少女』よりも遥かに一切の救いがない終わり方をしてしまうのです。
俳優の「フランキー堺」といえば、私にとって堺正俊先生(当時、大阪芸術大学舞台芸術学科教授)です。絶対に本名でお呼びしなければ酷く怒られました。その堺先生が或る日「君たちへ、私の出演した最もお気に入りの作品を見せてやろう」とおっしゃったのが、当時はまだソフト化されていなかったテレビドラマ版の『私は貝になりたい』(昭和33年 ラジオ東京テレビ=現TBS)だったのです。「映画版はいつでも見られるからね」と。
この作品では、主人公の清水豊松(フランキー堺)が東京裁判(極東国際軍事裁判)で理不尽にもBC級戦犯とされ、死刑に処されるのですが、本作の田村茂吉に非常に共通した「存在のあまりのはかなさ」を感じさせます。堺先生は、私たちのような学生にそれを伝えようとなさったに違いありません。
戦争は、自然と人間の生命の継承を一瞬にして破壊してしまいます。ゆえに天皇陛下と祭祀のもとに成り立っている日本の國體に本来戦争行為自体は反しており、それでもかつて何度も戦争によるほか解決されない国際情勢へとその身を投じていきました。投じざるを得ない事情があったのです。
東宝は、大東亜戦争下で『ハワイ・マレー沖海戦』のような戦意高揚映画を何作も発表しました。そして戦後、何作ものいわゆる反戦映画を手掛けています。かの『ゴジラ』もそうであり、本作は当然のことでしょう。主人公の茂吉はわずか16年前に終わったばかりの戦闘行為を思い出しては「二度とご免だ」と思っており、しかしながら、さらなる高度経済成長のために遠い他国の戦争は利用できるものと考えています。
こうした或る種の大いなる矛盾がもう一つの主題であり、しかるに本作には誰1人として戦争に高揚・発狂するような悪人が登場しません。ともに米国映画『渚にて』(スタンリー・クレイマー監督)を踏襲した、のちの『復活の日』(深作欣二監督)に於けるガーランド統参議長(ヘンリー・シルヴァ)のような分かり易い狂人によって核兵器の発射ボタンが押されてしまうわけではないのです。
戦争によってしか解決しない国際情勢の発生、わが国がそこに身を投じざるを得なかった最大の原因は、すべて人類が祭祀に基づいて自然と生命を守ろうとは考えもしていないためではないでしょうか。日本だけが世界平和を訴えていても、韓国は島根県竹島を武力侵略し、北朝鮮は他国民を拉致したままで、中共は沖縄県尖閣諸島をつけ狙い、米国は相変わらず利権を求めてどこかと戦争を始めようとします。それに一も二もなく支持を表明する愚かな首相が日本にいたのは、占領憲法によって米軍の統治を免れていないからに他なりません。「第9条」が聞いて呆れます。
本作の田村家は、まもなく核攻撃を受ける東京から人々が退避したあとも残り、家族でごちそうを囲みますが、この前に茂吉が「母ちゃんに家を買ってやるんだ。冴子に立派な結婚式を挙げてやるんだ。(長男の)一郎には大学に行かせてやるんだ。俺の行けなかった大学に……」と人知れず天空に叫ぶシークエンスがありました。そんな家族を、激烈な核の閃光が一瞬にして呑み込んでしまいます。
また、お春(中北千枝子)はパニックと化した東京の保育所に横浜の職場から這ってでも娘の鈴江に会いに行こうとする中、公衆電話から、核戦争の何たるかを理解できるはずもない無邪気な娘を安心させようと「クリームパンを買っていくよ。ゆで卵もたくさんね。すぐ行くから待っててね。母ちゃんが鈴江に会うまで何も起こりゃしないよ。起こるもんかね!」と言って会えぬまま死んでゆきます。
この親が子を想う家族の結束こそ祖先祭祀であり、それをすべて破壊してしまったのが作中のまったく無機質な核戦争でした。本作の翌年には、実際にキューバ危機が起きています。
最後、洋上にあって難を逃れた笠置丸は、完全に壊滅し放射能にまみれた故郷日本に、それでも帰ろうとします。彼らは、その帰郷が死にに行くことになると知っていても……。司厨長の江原(笠智衆)は「人間は素晴らしいものだがなあ。一人もいなくなるんですか、地球上に……」とつぶやきます。その背後には、児童合唱による『お正月』の歌が流れますが、「もう幾つねると」と数えることもできなくなってしまいました。
この「継承されなくなる」「継承するものがなくなってしまう」ということが、決してあってはならないのだと説いて、はじめて平和主義であり反戦・非核なのです。その保守主義の基本哲学を忘れたひたすらの反日本や、家族の解体、個人としてのみの尊重によって得られるものなど何もありません。保守とは、そういうことなのですよ。
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