日本が描いた世界大戦争

皇紀2670年(平成22年)5月22日

 昨日記事で少しばかり東宝特撮映画を取り上げるうちに、どうしてもご紹介しておきたい作品を思い出しました。それが昭和36年製作・公開の『世界大戦争』です。特技監督はもちろん円谷英二氏ですが、監督は僧門にあった松林宗恵氏であり、本作では仏教的無常観を描いたと言い遺しています。

 主人公は政治家でも軍人でもありません。一介のハイヤー運転手である田村茂吉(フランキー堺)とその妻(乙羽信子)、長女冴子(星由里子)とその恋人で笠置丸船員の高野(宝田明)たちなのです。もちろん当時の米ソ冷戦を下敷きにした連邦側・同盟側の核兵器の発射をめぐる緊迫したやりとりを挟みますが、松林監督はあくまでそのような国際情勢に関与し得ない市井の人々を丁寧に描きました。

 大東亜戦争の敗北から16年、サンフランシスコ講和条約の発効からわずか9年で大都市を形成し始めた東京の繁栄が冒頭に映し出されますが、本作は最後に地球上のめぼしい都市という都市の核爆発による壊滅と人類の絶滅を描いて終わります。この基本的構成は、のちの『日本沈没』(森谷司郎監督・中野昭慶特技監督)と同様ですが、日本民族の大移動が許されたものと本作ではあまりに違い、ともすれば私が先般より取り上げてきた『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『マッチ工場の少女』よりも遥かに一切の救いがない終わり方をしてしまうのです。

 俳優の「フランキー堺」といえば、私にとって堺正俊先生(当時、大阪芸術大学舞台芸術学科教授)です。絶対に本名でお呼びしなければ酷く怒られました。その堺先生が或る日「君たちへ、私の出演した最もお気に入りの作品を見せてやろう」とおっしゃったのが、当時はまだソフト化されていなかったテレビドラマ版の『私は貝になりたい』(昭和33年 ラジオ東京テレビ=現TBS)だったのです。「映画版はいつでも見られるからね」と。

 この作品では、主人公の清水豊松(フランキー堺)が東京裁判(極東国際軍事裁判)で理不尽にもBC級戦犯とされ、死刑に処されるのですが、本作の田村茂吉に非常に共通した「存在のあまりのはかなさ」を感じさせます。堺先生は、私たちのような学生にそれを伝えようとなさったに違いありません。

 戦争は、自然と人間の生命の継承を一瞬にして破壊してしまいます。ゆえに天皇陛下と祭祀のもとに成り立っている日本の國體に本来戦争行為自体は反しており、それでもかつて何度も戦争によるほか解決されない国際情勢へとその身を投じていきました。投じざるを得ない事情があったのです。

 東宝は、大東亜戦争下で『ハワイ・マレー沖海戦』のような戦意高揚映画を何作も発表しました。そして戦後、何作ものいわゆる反戦映画を手掛けています。かの『ゴジラ』もそうであり、本作は当然のことでしょう。主人公の茂吉はわずか16年前に終わったばかりの戦闘行為を思い出しては「二度とご免だ」と思っており、しかしながら、さらなる高度経済成長のために遠い他国の戦争は利用できるものと考えています。

 こうした或る種の大いなる矛盾がもう一つの主題であり、しかるに本作には誰1人として戦争に高揚・発狂するような悪人が登場しません。ともに米国映画『渚にて』(スタンリー・クレイマー監督)を踏襲した、のちの『復活の日』(深作欣二監督)に於けるガーランド統参議長(ヘンリー・シルヴァ)のような分かり易い狂人によって核兵器の発射ボタンが押されてしまうわけではないのです。

 戦争によってしか解決しない国際情勢の発生、わが国がそこに身を投じざるを得なかった最大の原因は、すべて人類が祭祀に基づいて自然と生命を守ろうとは考えもしていないためではないでしょうか。日本だけが世界平和を訴えていても、韓国は島根県竹島を武力侵略し、北朝鮮は他国民を拉致したままで、中共は沖縄県尖閣諸島をつけ狙い米国は相変わらず利権を求めてどこかと戦争を始めようとします。それに一も二もなく支持を表明する愚かな首相が日本にいたのは、占領憲法によって米軍の統治を免れていないからに他なりません。「第9条」が聞いて呆れます。

 本作の田村家は、まもなく核攻撃を受ける東京から人々が退避したあとも残り、家族でごちそうを囲みますが、この前に茂吉が「母ちゃんに家を買ってやるんだ。冴子に立派な結婚式を挙げてやるんだ。(長男の)一郎には大学に行かせてやるんだ。俺の行けなかった大学に……」と人知れず天空に叫ぶシークエンスがありました。そんな家族を、激烈な核の閃光が一瞬にして呑み込んでしまいます。

 また、お春(中北千枝子)はパニックと化した東京の保育所に横浜の職場から這ってでも娘の鈴江に会いに行こうとする中、公衆電話から、核戦争の何たるかを理解できるはずもない無邪気な娘を安心させようと「クリームパンを買っていくよ。ゆで卵もたくさんね。すぐ行くから待っててね。母ちゃんが鈴江に会うまで何も起こりゃしないよ。起こるもんかね!」と言って会えぬまま死んでゆきます。

 この親が子を想う家族の結束こそ祖先祭祀であり、それをすべて破壊してしまったのが作中のまったく無機質な核戦争でした。本作の翌年には、実際にキューバ危機が起きています。

 最後、洋上にあって難を逃れた笠置丸は、完全に壊滅し放射能にまみれた故郷日本に、それでも帰ろうとします。彼らは、その帰郷が死にに行くことになると知っていても……。司厨長の江原(笠智衆)は「人間は素晴らしいものだがなあ。一人もいなくなるんですか、地球上に……」とつぶやきます。その背後には、児童合唱による『お正月』の歌が流れますが、「もう幾つねると」と数えることもできなくなってしまいました。

 この「継承されなくなる」「継承するものがなくなってしまう」ということが、決してあってはならないのだと説いて、はじめて平和主義であり反戦・非核なのです。その保守主義の基本哲学を忘れたひたすらの反日本や、家族の解体、個人としてのみの尊重によって得られるものなど何もありません。保守とは、そういうことなのですよ。

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宇宙と向き合えない日本

皇紀2670年(平成22年)5月21日

 思わず「これこそ報道の捏造ではないか」とわが目を疑いました。それは20日、国際宇宙ステーションでのミッションを終えて帰還した宇宙飛行士の山崎直子さんに向かって、鳩山由紀夫首相が「日本は(有人宇宙船の開発を)やらないのか?」と質問したというのです。

 http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100520/plc1005202117016-n1.htm

 ▲産經新聞:「日本は有人宇宙船やらないの」 首相、山崎さんに質問???

 産經新聞社も時事通信社もこれを報じて、ともに「人ごとのように」と指摘していますが、もはやそのレヴェルではありません。第93代日本国内閣総理大臣としての自覚、いえ、日本人としての自覚すら、この鳩山首相にはないのではないでしょうか。

 思えば、科学技術立国のはずである日本に宇宙開発の驚くべき功績がほとんどありません。実は、このことも占領憲法の問題と無縁ではないのです。

 日本映画界を見渡しても、残念ながらロクな宇宙SF映画がありません。昭和32年、東宝が『地球防衛軍』(昭和29年に世界を震撼させた『ゴジラ』の本多猪四郎監督・円谷英二特技監督)をクランクアップ(撮影終了)させたとき、旧ソ連が人類初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功し、米国を屈辱の海へ叩き落としました。

 その姉妹作品として発表されたのが昭和34年の『宇宙大戦争』(同じく本多猪四郎監督・円谷英二特技監督)であり、その月面着陸のシークエンスの見事さは、米国が躍起になって成功にこぎつけたアポロ11号の月面着陸(昭和44年)以前のことですから、まさに東宝映画が先を行っていたのです。

 しかし、結局はジョージ・ルーカス監督の『スターウォーズ』(昭和53年日本公開)に日本映画が後追いするようなことになります。その末路の哀れは、究極的に東宝の『惑星大戦争』(福田純監督・中野昭慶特技監督)と、東映の『宇宙からのメッセージ』(深作欣二監督・矢島信男特撮監督)に表れてしまいました。特に前者は『スターウォーズ』の公開に少しでも先駆けようと製作期間わずか2ヶ月の安物であり、後者は下手に深作演出と当時公称15億円の製作費が一定の功を奏し、中途半端に「観れてしまう」映画(当時世間の不評を買ったらしい成田三樹夫のガバナス皇帝も悪くない)なのがかえって悲しいものです。

 さらに、東宝から『惑星大戦争』の原作を依頼されながらも見事に断わってみせていた小松左京氏が、昭和59年にオリジナル企画の『さよならジュピター』(予定していた『日本沈没』の森谷司郎監督が死去 橋本幸治監督・川北紘一特技監督)を発表しますが、精巧な特撮映像にこそ見応えはあるものの、物語に大した独創性がなく(そもそもの「木星太陽化計画」に必然性・緊迫感を感じさせない展開にしかなっておらず、敵対する環境保護カルト教団との闘いも陳腐で)、これまた不発に終わります。

 以来、GHQが『ハワイ・マレー沖海戦』(昭和17年)の真珠湾攻撃の特撮を本物と見間違えて(戦意高揚映画に関係したともされ)円谷監督を公職追放せしめ、昭和27年のサンフランシスコ講和条約発効からわずか2年後に発表され世界各国を驚かせた『ゴジラ』の、日本映画界に於ける優れた特撮・発想の系譜は途絶え、完全に米国映画に譲ってしまいました。

 宇宙開発も米国がほぼ掌握しています。先を行ったはずの露国はソ連共産主義を打ち負かしたことでかえって遅れ、昨今強引に横槍を入れ始めた中共は、まったく独自に且つ未だ共産党一党独裁であるからこそ比較的容易に参入しました。

 日本は米軍の統治から今もって外れず、占領憲法を無効にもせずに放置し、米軍ありきで自衛隊を第9条に於いて合憲などと解釈改憲を続けていますから、日本人をスペースシャトルに搭乗させても独自に開発など、米国にでも許してもらえないというわけでしょうか?

 そこへ鳩山首相のまるで寝とぼけたような発言です。在日米軍普天間飛行場の移設問題なども、この程度の感覚で話してきたのでしょう。まったく呆れたものです。しかも、JAXA(宇宙航空研究開発機構)に対して事業仕分けで予算削減したのは民主党ではありませんか! 広報施設建設の廃止まではともかく、飛ぶものも飛ばないですよ、これでは

 もう約2ヶ月後に迫った参議院議員選挙では、是非とも民主党に惨敗していただきましょう。それでなくとも、わが国の宇宙SF映画を観ているとみじめな敗北気分になりますから。

日本文化の様式と滅びの美

皇紀2670年(平成22年)5月20日

 18日記事市川崑監督作品を挙げるなら『細雪』がよいと申しましたが、昭和58年に製作・公開された本作は、蒔岡家の四姉妹を岸惠子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子が演じました。当初の長女鶴子役は、昭和34年大映版で三女雪子を演じ、市川監督とは『私は二歳』『雪之丞変化』で組んだ山本富士子の予定だったそうです。

 まずは谷崎潤一郎の原作の素晴らしさを申さねばならないでしょう。書き始められたのは、日独伊三国同盟の調印にはじまった昭和17年であり、軍部の発禁処分に遭って、完成は昭和23年まで待たねばなりませんでした。物語の舞台は、大東亜戦争前の昭和初期、大阪船場の老舗商・蒔岡家です。

 私たちが日本史(本来の「国史」)の授業で教わったことから受ける印象と、谷崎が松子夫人の四姉妹をモデルに描いた戦前の大日本帝國の実相はまるで違っていることが分かります。

 昭和モダニズムを謳歌する女性たちが余すところなく描かれており、当時すでに「ウィンナ・シュニッツレル(シュニッツェル)=ウィーン風カツレツ」や「クラブハウスサンドイッチ」といったものがあったと分かります。私たちは、GHQによる占領統治を経て、すっかり自分たちの国史を失ってしまいました。

 谷崎は、のちに三島由紀夫が評したように、「日本文化の様式を記録」し、その滅びの美を描いてみせたのです。『細雪』は3度映画化されていますが、いずれもこの雰囲気を見事に表現しています。

 本作で申せば、まさに大東亜戦争の勃発と敗北によって急速に突入していく暗さを体現する四女妙子(古手川祐子)を、そして極めて複雑な女である三女雪子(吉永小百合)を、市川監督がその独特な陰影をもって描きました。最後に雪子がニヤリと口角を上げる不気味さは、何とも言えません。

 ここでも、私の好きな「市川演出」が冴え渡っています。着物のこすれる音や、蒔岡家の家紋が入った羽織りをハラリと脱ぐ次女幸子(佐久間良子)をアップにして別カットでインサートするところなど、まさに老舗商の滅びを予感させて美しく、見事です。

 また、私の敬愛する伊丹十三が蒔岡家を預かる長女鶴子(岸惠子)のいやらしい婿養子を演じていますが、彼が「蒔岡」の名を口にする時の、その屈折した心境・立場を表したような声音は、のちに監督として卓越した演出をするに至る芸の細かさでしょう。

 大東亜戦争前のわが国が暗く、貧しく、何もかもが間違っていたように伝えていくことこそが間違いです。大東亜戦争へと突入する過程にいくつもの外交戦略の不備があり、突入してからのほぼ無計画な計画の中で、それでも「パーマネントはやめませう」などの掛け声を自ら発し、すべて臣民が必死に闘っていたことも知らねばなりません。

 GHQの置き土産たる占領憲法の放置と、三島も批判した占領憲法違反の自衛隊に対する解釈改憲の継続は、わが国を再び滅ぼしかねないのです。私たちの現在の暮らし、この平成の御代を「滅びの美」をもって描きたくはありません。是非、占領憲法を無効にできると知って下さい。さもなくば、民主党の小沢一郎幹事長のような政治家によって改憲されてしまうのです。

ウイルスの侵入を許す政府

皇紀2670年(平成22年)5月19日

 平成7年製作・公開の米国映画『アウトブレイク』は、ザイール(現コンゴ民主共和国)から米国に持ち込まれた極めて致死性の高い出血熱をもたらすウイルスと、その爆発的感染保身のために隠蔽しようとする米軍上層部と闘う人々を豪華キャスト(ダスティン・ホフマン、レネ・ルッソ、モーガン・フリーマンら)で描いて大ヒットしました。監督は、独国出身で『Uボート』『ネバーエンディング・ストーリー』『エアフォース・ワン』などのウォルフガング・ペーターゼンです。

 昨年にも、韓国で無許可の編集(内容の改ざん)版公開が問題となった日本映画『感染列島』(監督=瀬々敬久 主演=妻夫木聡、檀れい)が発表されましたが、わが国では昭和55年、米軍によって極秘開発・隠蔽されたウイルス兵器によって人類がほぼ絶滅するという小松左京原作の『復活の日』(監督=深作欣二 主演=草刈正雄、オリヴィア・ハッセー、ジョージ・ケネディ)が製作・公開されて話題になりました。

 ウイルスのような目に見えぬものの侵入を映画で表現するのは本来難しいのですが、感染する人々の苦しみが或る種の恐怖表現となり、観る者を震撼させます。そして、必ずと言ってもよいほどつきまとうのが、軽率にウイルスを持ち込む愚か者と、情報を隠蔽する国家権力の存在です。

 発生から1ヶ月が経とうとしている宮崎県内の畜産農家たちを著しく疲弊させた口蹄疫は、メディア報道が画一的で、私たちの「どこから? なぜ? 何をしているのか? これからどうなるのか?」の問いに答えるものがありません。

 「何をしているのか?」については、13日記事で県下の農家の方から頂戴した情報の一部を書きましたが、これについては目下の報道も取り上げています。「これからどうなるのか?」については、まさに鳩山由紀夫首相や赤松広隆農水相らが答えなくてはいけませんが、初動体制の大いなる誤りを認めない内閣に一切期待できません。

 問題は、この口蹄疫が「どこから?」来たもので、「なぜ?」これほど感染拡大してしまったのかということでしょう。これをズバリ報じているメディアがほぼない(※後述)ので、推論の域を出ないことをおことわりして簡単にまとめたいと思います。

 まず、私たち日本国民の広く知らされていない状況下で、近隣国・韓国で口蹄疫が爆発的に感染していたことは確かです。それを警告していた自治体がありました。例えば、長野県は公式にその情報を1月8日・20日、4月12日に発しています。

 http://www.pref.nagano.jp/nousei/tikusan/eisei/fmd/fmd1.htm

 ▲長野県公式ホームページ:口蹄疫情報 (ページ下部のPDFファイル)

 農林水産省も同様のPDFファイルをリンクさせており、やはり宮崎県での発生(4月21日)以前に韓国での感染確認を発信していました。あとは、この韓国で発生したO型ウイルスと、宮崎県で牛や豚が感染しているウイルスが同型かどうか、ということでしょう。

 http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20100507-OYT1T00974.htm

 ▲讀賣新聞:宮崎の口蹄疫、韓国・香港のウイルスと酷似

 このように報じられているのですが、どうにも各社とも小さな記事でしかなく、少なくともテレビメディアが「なぜ?」持ち込まれたのかについてまるで追及する姿勢を見せません。ここには、軽率にウイルスを持ち込む愚か者と、情報を隠蔽する国家権力が存在しているはずなのです。

 まったくの未確認ですが、以下の記事が本当に農家の断末魔の叫びだとすると、口蹄疫対策に足りないと私も聞かされていた消毒薬ビルコン(独バイエル製薬)のストックを増やし始めた中共や韓国をよそに、日本の鳩山内閣はまったくの無策で、しかもこの期に及んで農水省保管の5000本のビルコンの放出要請に赤松農水相が許可を出さないと言います。

 http://tokiy.jugem.jp/?eid=645

 ▲たまねぎ通信:【拡散希望】 宮崎の口蹄疫・現場の叫び

 これには、宮崎県選出の民主党代議士が韓国から本年1月、口蹄疫発生区域(京畿道抱川市)として受け入れを断わった熊本県の農家にかわって韓国人研修生を宮崎に斡旋したといったような噂までありますが、まったく真贋がはっきりしていません。しかも、抱川市で発生していたのはA型ウイルスとの情報もあり、ならば感染経路は別にあるかもしれないのです。

 映画でも描かれているように、軽率にウイルスを持ち込む愚か者と、情報を隠蔽する国家権力ほど恐ろしいものはありません。「なぜ?」というのは、鳩山内閣もメディアもまともに答えない・応じない・報じない理由こそ知りたいものです。

 http://sitarou09.blog91.fc2.com/blog-entry-176.html

 ▲【日本を】『日本解体法案』反対請願.com【守ろう】

  意見書文例:韓国から伝染し国内へ上陸した「口蹄疫」への対処をお願いする与野党議員への意見書 *利用、改変可*

込められた権力批判が…

皇紀2670年(平成22年)5月18日

 昭和62年製作・公開の日本映画『竹取物語』は、わが国最古とされる(平安時代前期?)の古典をベースに、かぐや姫の物語を東宝の特撮技術(本作を最後の仕事とした、『日本沈没』昭和48年版や『ゴジラ』昭和59年版などの中野昭慶特技監督)を用いて描いた市川崑監督作品です。

 市川監督といえば、私は『犬神家の一族』や『細雪』を取り上げたいのですが、それは後日としましょう。恐らく市川監督は、凛として美しく、ときに激しく気丈な女性を描こうと、『細雪』の蒔岡雪子や前作『映画女優』の田中絹代(ともに吉永小百合)の系譜として本作のかぐや姫(沢口靖子)を登場させたに違いない、と私は思うのです。

 思えば、市川映画に登場する女性はほぼそうであったように思います。本作製作のころには亡くなられていましたが、妻で脚本家の和田夏十(わだなっと)さんのイメージなのでしょうか。例えば、和服美人が勢いよく部屋を出ると、ふすまに裾が挟まっており、それを女が向こう側でこれまた勢いよくスっと引くといった場面が、私の好きな「市川演出」なのです。

 ですから、本作に古典『竹取物語』に関する研究成果の描写を求めるのは間違っているかもしれません。『細雪』の蒔岡姉妹を包み込んだヘンデル作曲の歌劇『クセルクセス』の『オンブラ・マイ・フ』を再び音楽に使用(本作では谷川賢作が編曲)したことからも、やはりかぐや姫を描きたかっただけの映画なのでしょう。しかし、それにしても雑な構成だったように思えてならないのです。

 今日の研究では、第40代の天武天皇と第41代の持統天皇に仕えた藤原不比等らを指し、このころから始まった藤原氏の絶対権力を批判したものだっただろうと言われています。ところが、本作ではあくまで帝(石坂浩二)が絶対権力者であるかのように描かれてしまいました。これではわが国のかたちに大いなる誤解を与えるでしょう。

 物語の展開を単純化すべく、実はいくらでも面白く描けたはずの古典に込められた権力批判を描かなかったことで、本作は非常につまらない子供騙しの映画になっています。

 羽衣伝説に材を得た異界からのかぐや姫を異星人と設定し、蓮の花をモチーフにしたという巨大な宇宙船が襲来する後半の見せ場も(初見の中学生のころは少しワクワクしましたが)今となっては何やら虚しく、当時全世界公開をうたった本作は決して大ヒットしませんでした。

 また、配役に関する批判も多く、特に竹取の翁(三船敏郎)と妻の嫗(若尾文子)がイメージに合わないとされ、これには私もどちらかと言えば小津安二郎監督作品のイメージを借りたほうがよかったように思います。例えば、笠智衆と(杉村春子ではトゲがありすぎるので)三宅邦子の翁と嫗ならどうであったか、と。

 とにもかくにも、平成の御代にあって第125代今上陛下を政治利用してきたような政治家や国民がワンサカおります。それも占領憲法で「すべて国民」が「主権者」なのですから仕方がありません。仮に紀貫之が古典『竹取物語』の筆者とされ、彼がわが国に残した警告はまったく生かされないのでしょうか。

 官や民の権力が暴走しないよう、祭祀王たる天皇陛下がおわすのに、いつの世も勘違いした権力者は暴走し始めます。そして、周りはメディアも含めて萎縮し、その間違いを正せなくなって何らかの破壊へと突き進むのです。

 私たちは、もう藤原氏を批判した書を焼き払われたりはしません。権力批判を暗喩でしか表現できない時代や国家でもありません。堂々と言いましょう

 http://sitarou09.blog91.fc2.com/blog-entry-159.html

 ▲【日本を】『日本解体法案』反対請願.com【守ろう】

  文例:「国会法改正案」への反対意見書 *利用、改変可*

 ◎民主党の小沢一郎幹事長は、さすがにこのままでの成立を断念するようですが、18日に自民党やたちあがれ日本などの野党5党が関連法案の撤回を求めることに決まりました。あともう一歩です。