千葉法相の死刑執行

皇紀2670年(平成22年)7月29日

 もしも、死刑執行政治家個人のあらゆる事情による政治的道具として利用されたなら、あなたはどう思いますか?

 かつて放送されていた米国のテレビドラマ『ザ・ホワイトハウス(The West Wing)』第14話『安息日(Take This Sabbath Day)』では、平成10年2月当時、ビル・クリントン大統領が37年ぶりとなる連邦政府による死刑執行に介入するかどうかが注目されており、劇中のバートレット大統領(マーティン・シーン)はその役回りを演じています。

 そこでは、執行の日が安息日(ユダヤ教は土曜日、キリスト教は日曜日)を避けた月曜日の午前であり、マクギャリー大統領主席補佐官(ジョン・スペンサー)は、そのあまりの宗教的な理由に驚きを隠せません。

 周囲も、大統領がローマ法王(教皇)に電話し、結論として執行をやめさせるのではないかと気が気ではなく、それはカトリック教徒の大統領が明らかに法王の影響を受けることに対する、いわばプロテスタント国家の政治的危惧でした。選挙に於ける支持基盤の問題もありましょう。

 結局、刑は執行されます。大統領は、エイブラハム・リンカーン元大統領以来となる死刑囚に対する恩赦を、個人の信教によらず与えたことにできる方法を模索していただけに、「時のホワイトハウスの空気で、刑を執行したりしなかったりしていいのか」という疑問に最後まで答えられませんでした。

 このような或る意味(宗教的要素を取り除いたとしても)非常に原理的な苦悩は、死刑執行に必ず伴うと言っても過言ではありません。私は死刑制度に賛成ですが、その量刑審判の基準は裁判官により、また執行の基準が法相によるので明解ではありません。

 http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100728/plc1007282201023-n1.htm

 ▲産經新聞:【視点】人の死に「政治的演出」 千葉法相の死刑執行命令

 選挙に落選しながらも菅内閣への残留が決まってしまった千葉景子法相は、その職務の1つに死刑執行命令書への署名がありながら、死刑制度反対運動をし続けてきたことから、これまで一度も執行を命じておらず、それでいてまもなく開かれる臨時国会対策(千葉法相続投への批判、法相の職務怠慢という指摘をかわすため)なのか、突然自身の信念(?)を曲げてしまいました。

 一体千葉法相は何をどう考えて死刑制度に反対してきたのでしょうか。もはやそこに原理的な苦悩がなかったのであれば、単なる政治利権運動の類いで死刑制度に対する議論を撹乱してきただけに過ぎず、死刑反対派への打撃は計り知れません。彼らの言う「人命を弄ぶ」とはこのことです。

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領土を守る気はない菅首相

皇紀2670年(平成22年)7月28日

 昭和49年製作の日本映画『氷雪の門(樺太1945年夏 氷雪の門)』は、本作の企画をきっかけに設立されたジャパン・ムービー・ピクチャー社の製作で東宝が配給する予定でしたが、当時の東宝がソ連(露国)のモス・フィルムとの合作で『モスクワわが愛』を完成させており、その披露パーティーの席上、ソ連側から『氷雪の門』公開に苦言が呈され、それを東京新聞社が大々的に記事にしてしまったため、事実上東宝がソ連の圧力に屈さざるを得ず、配給を断念したといういわくつきの作品です。

 その後、東映が配給に乗り出しましたが、極めて限定的な劇場公開に留まり、ほとんど知られることはありませんでした。豪華出演陣を得て完成させたというのに、特に望月利雄プロデューサーは悔しかったと思います。これまで何度か各地の市民会館など(和歌山では県民文化会館)で特別上映されてきましたが、なんとついに本年7月17日より、小規模公開とはいえ全国ロードショーが実現したのです(日程・上映劇場は画像をクリックしてご確認下さい)。

 本作は、南樺太の真岡町で、真岡郵便電信局の電話交換手だった9人の女性がソ連軍侵攻ののちも志願して職務を全うし、次々と町民が虐殺されていく中、「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」と通信し、服毒自殺という最期を遂げた事実をもとに作られました。

 それは、大東亜戦争が終わったとされている昭和20年8月15日より後のことでした。私たちは、この「ポツダム宣言を受諾する」という降伏条件を無条件で承諾しなければならなかった日から(よって「無条件降伏」は間違い)、特にソ連とは昭和31年の日ソ共同宣言で戦争状態の終結を相互確認するまで、少なくとも日ソ間の戦争は占領憲法で日本に交戦権が認められていない中も続いていたのです。

 ソ連は連合国の一員を自認していたにもかかわらず、日本が降伏を宣言したのちも旧満洲国や朝鮮半島北部(→朝鮮戦争に発展)、南樺太、千島列島へ侵攻するという禁じ手を犯しています。

 これは多分に広島、長崎への原爆投下にまで及んだ米国の対日侵略・占領統治力に焦ったからでしょうが、散々米国に日ソ不可侵(中立)条約の破棄をそそのかされながら、対日理事会では米国がソ連をつまみ出した(対日統治を独占した)ため、いよいよこのような卑劣な日本領侵略行為を正当化すべくソ連を頑にさせたとも言えるのです。

 日本は今もって千島列島全島と南樺太の帰属がわが国にあると主張すべきであり、さもなくしていわゆる北方領土問題は解決しません。これを前提としないから、日露間の政治決着による日本領の確認に於いて、主要な「4島」が「2島」になったり「3.5島」になったりするのです。

 麻生太郎元首相は、露国に招かれて南樺太で日露首脳会談をやるという大失態を演じたのち、恐らくこれを自覚して、北方領土問題について「帰属の問題がある」と主張しました。日本の首相が「帰属」を口にしたのは大きな前進であり、今でも忘れません。

 しかし、菅直人首相は27日、北方領土元島民の孫ら中学生7人の表敬訪問に応じなかったのです。執務室に逃げ込み、これほど露骨に領土問題への無関心を表明するとは何ごとでしょうか。

 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100727-OYT1T00895.htm?from=main2

 ▲讀賣新聞:菅首相、北方領土元島民の孫らに会わず

 さらに、菅内閣は本年度版防衛白書の報告を先送りするらしく、その理由が、島根県隠岐郡隠岐の島町竹島を「わが国固有の領土」と明記してきた防衛白書に何らかの変更(記述の削除?)を加えるためではないかとの見方が広まっています。

 http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010072701093

 ▲時事通信:防衛白書の閣議報告先送り=「竹島」で韓国に配慮

 家族の家・土地を他人に強奪されて、守ろうとも取り返そうともしない一家の大黒柱などありえません。菅首相は、もはや一国の首相としての資格を失っています。皆様、是非とも機会を作っていただいて、映画『氷雪の門』をご鑑賞下さい。露国への憎しみではなく、占領憲法下の日本政府自身の無策を改めて認識し、たちあがりましょう。

ゴジラと自然祭祀と皇室

皇紀2670年(平成22年)7月27日

 社民党の辻元清美前副国土交通相(衆議院大阪10区)が離党するのだそうです。民主党の千葉景子法相(参議院神奈川)は、今夏の選挙で落選したにもかかわらず26日から民間登用の形で菅内閣に残留していますが、民主党内の1つ空いた旧社会党枠を辻元代議士が埋めるのでしょうか。よほど「閣内」の味をしめたのかもしれません。その旨味を与えてくれない社民党にもう用はない、と。

 さて、昭和29年に製作・公開され、全世界を震撼させた日本映画『ゴジラ』(本多猪四郎監督・円谷英二特技監督)が、平成10年に米国版『GODZILLA』(ローランド・エメリッヒ監督)を作らせるに至ったことを、皆様は覚えておられるでしょうか。

 と申しますのも、米国版は非常に評判が悪く、日米両国での興行成績も振るわず、予定されていた続編の製作が中止になっていますから、皆様のご記憶から抹消されていたかもしれません。

 そもそもゴジラとは、昭和29年3月1日に米国がマーシャル諸島ビキニ環礁で核実験(キャッスル作戦という水爆実験)を行い、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴びて被爆、久保山愛吉さんが亡くなるという事件の発生をきっかけに、東宝の田中友幸プロデューサーが「核の落とし子が東京を襲う」というプロットを思いつき、生み出された「怪獣」です。

 それが米国版では、仏国の核実験によって生み出された突然変異の「超巨大爬虫類」という設定になっており、米国の責任逃れという姑息な一面と、怪獣映画の作り方を知らないハリウッドの浅知恵があいまって、ほぼ擁護する声のないほど不出来な(第19回ゴールデンラズベリー賞最低リメイク賞受賞)作品になってしまいました。

 米軍の攻撃によってあっけなく死んでしまうという設定もまた、多くの批判を浴びた点です。ゴジラは本来、人類が作り出した武器・弾薬を跳ね返すような存在なのであって、昭和59年に原点に戻って製作・公開された『ゴジラ』(橋本幸治監督・中野昭慶特技監督)では、当時の防衛庁・自衛隊が極秘開発した「スーパーX」(架空)すら歯が立たず、ゴジラの帰巣本能を利用して三原山に誘導し、人為的に火山噴火を起こして葬るという手法が用いられました。

 このことについて、東宝の富山省吾ブロデューサーは「アメリカにおける怪獣とは『乗り越えるべき存在』、日本においては『畏怖すべき存在』であるという価値観の違いが現れた」と述べています。

 各界のゴジラファンによる研究では、例えば地震ナマズを畏れ、神と崇めるに至ったような日本民族の自然祭祀とゴジラの関係性を指摘する方もおり、確かに、恐怖の存在だったゴジラが次第に(第5作『三大怪獣 地球最大の決戦』以降)子供たちにも親しまれる「人類の守り神」的存在へと変貌していったのは事実です。

 自然は生命の源たる多くの恵みをもたらしますが、ひとたび牙を剥くと恐ろしいものでもあります。何もかも人間が支配・制御できると思う傲慢は通じません。その「定理」ともいうべき真なる命題を祭祀として、司られるのが天皇陛下なのですから、これは政治的思想でも何でもありません。もはやそのようなことも忘れてしまっている日本民族の何と多いことでしょう。

 ですから、天皇陛下に対する畏れを知らない右翼や保守派も多くなっています。平気で東宮批判するような彼らは、いわば保守を騙る現世個人主権の革命思想家に他なりません。非常に危険な存在です。

 再度申しますが、これは祭祀であって政治の話ではありませんから、富山氏の「畏れ」の指摘は、米国人(エメリッヒ監督は元々独国人ですが)に対してのみならず、日本人に対しても言っておられるのではないでしょうか。

 つまり私たちが「畏怖すべき存在」を理解できない限り、ゴジラは再び原点に帰ることはなく、新たに製作されることもないのです。このことは、平成18年にリメイクされた『日本沈没』(樋口真嗣監督)のお粗末な物語展開の原因でもありました。どういうことなのか、一度考えてみられて下さい。また取り上げます。

日本は「そびえたつ地獄」

皇紀2670年(平成22年)7月26日

 私が生まれて初めて劇場で鑑賞した映画は、昭和49年製作・50年日本公開の米国映画『タワーリング・インフェルノ』(ジョン・ギラーミン監督)でした。当時もうあと1ヶ月ほどで3歳になろうかというころの私でしたが、高層ビル火災のとてつもない映画をやたら広くて何やら埃っぽい場所で観たと覚えており、のちに親の記憶と照らし合わせて本作だったと分かったのです。題の日本語訳は「そびえたつ地獄」だと、かつて『日曜洋画劇場』で淀川長治氏が解説しておられたのもよく覚えています。

 ディザスター映画(日本ではパニック映画)の金字塔というべき本作は、前作『ポセイドン・アドベンチャー』の製作者アーウィン・アレンによって企画され、20世紀フォックスとワーナーという二大メジャーが史上初めて手を組み、巨費を投じて作られました。

 よって出演陣が豪華を極め、消防士役のスティーヴ・マックイーンと建築設計士役のポール・ニューマンという二大看板スターをどう表記するかでもめた(片方を先に表記するわけにもいかず、結局2人同時に左右・上下を工夫して表記した)そうです。

 桑港(サン・フランシスコ)に完成した138階建ての超高層ビル「ザ・グラス・タワー」は、社長(『戦場にかける橋』のウィリアム・ホールデン)がその世界一の高さにこだわり、彼の娘婿(『将軍 SHOGUN』のリチャード・チェンバレン)は建築予算の着服を企て、電気系統の手抜き工事で81階備品室から出火してしまいます。それは今まさに、完成披露パーティーが始まろうという時でした。

 設計士の恋人(『俺たちに明日はない』のフェイ・ダナウェイ)や、実は人を騙せない老詐欺師(『グリーンマイル』の映画上映シーンにも登場するタップの天才フレッド・アステア)と彼が狙う富豪の未亡人(『慕情』でホールデンと共演しているジェニファー・ジョーンズ)、招かれた上院議員(『ブリット』でマックイーンと共演しているロバート・ヴォーン)らが135階のプロムナードルームに集まっているというのに、火は次第にビルを覆い始めます

 本作を観て消防士になったという方が大勢おられたほど、彼らの「人のため」にはたらく姿はまぶしいほどで、一方、現世の自分のことしか考えずに生きている娘婿が、我先にと無理に避難しようとして墜落死するという展開(現世個人主権という革命思想の顛末)は、この手の作品の定石であるがゆえに当然です。

 非常に衝撃的な展開を見せたのは、あの未亡人が小さな子供たちを抱きかかえながら展望エレベーターで避難しようという時、通過階の爆発的火災でワイヤーが切れ、彼女は子供たちを(墜ちそうな自分に代わって守ってくれるであろう)他の人に渡そうととっさに両手を放し、外れた窓枠から墜落死してしまうという場面でした。

 公開時にはこの展開に対する批判が米国内で殺到したと何かで読んだ事があります。確かに彼女の死はあまりに哀しいにしても、彼女が子供を守ろうとする人間の本能に基づき、たとえ他人の子に対してさえ生命の継承を保守しようとしたこと(天皇陛下と祖先祭祀の実践)は、実に崇高なのです。

 それにしましても、完成披露パーティーで大盤振る舞いをしながら建築予算はビルの高さに見合っていなかったという本作のくだりが、現下の日本そのものに見えて仕方ありません。

 子ども手当などでつまらぬバラマキをしながら、実態は官僚主導の事業仕分けでケチな歳出削減をし、そのくせまともな予算編成もできずに「政権交代」の任に見合っていなかった民主党は、まさに「ド素人集団が政治主導をうたって威丈高にそびえたつ地獄」です。

 私たちは早く逃げた出したほうがよいのでしょうか。或いは、マックイーンのように自らの退路を断ってでも消火すべきでしょうか。ラストシーンで彼は、懸命に消火を手伝った設計士にこう言います。「ビルの建て方を教えてやる」「いずれ電話しろ」と。

「国連」というデタラメ

皇紀2670年(平成22年)7月24日

 UN(俗称・国連)の内部査察室を仕切ってきたインガブリット・アレニウス事務次長(瑞国=スウェーデン出身)が、潘基文事務総長(韓国出身)を「彼の行動は嘆かわしいだけでなく厳しく非難されるべきだ」と批判して退任しました。

 http://mainichi.jp/select/world/

news/20100721dde007030045000c.html

 ▲毎日新聞:国連 幹部、異例の事務総長批判 査察室トップが退任

 日本では、かつて存在した国際連盟になぞらえて、第2次世界大戦の連合国組織である「United Nations」を中共のように「?合国」とは直訳せず、「国際連合=国連」と呼称しています。しかし、これでは組織の性質を正確に捉えられませんし、連合国ではなかったはずの中共が安全保障理事会の常任理事国であるという出鱈目をそれと指摘することもできません。

 正確な言語表現をあえて封じる思考停止の仕組みは、日本国憲法が大日本帝國憲法のもとに講和条約として有効でありながらも、国家の基本法たる憲法としてはまったく無効であるという法理原則にも気づかせないわけです。

 で、UNというのはあくまで連合国中心の組織ですから、彼らの利益のために存在していると言っても過言ではなく、発展途上国(現在は韓国)から事務総長を選出するというのも、彼らなりの偽善的措置なのでしょう。

 そこはまさに独善的な利益誘導の戦場であり、内部監査など機能するとは思えません。アレニウス次長が査察体制の強化に乗り出したところ、潘総長と彼の側近たちが横槍を入れ、別組織を立ち上げて対抗しようとしたそうです。よほどバレては困るような何か汚いカネの動きでもあるのでしょうか。次長はUN(連合国)の透明性促進を諦め、辞めていきました。彼にもまた、意固地にならざるを得ない何かがあったのかもしれません。

 このような報に触れますと、私はどうしても平成16年製作・18年日本公開の南ア英伊合作映画『ホテル・ルワンダ』(テリー・ジョージ監督)を思い出します。本作の日本公開には「『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会」(当時)が立ち上がるほど難条件(内容が暗い・配給権が高いなど)が重なりましたが、平成6年に発生したルワンダ紛争で連合国は何をしたか、いえ、いかに何もしなかったかがよく分かる映画を観ることができてよかったものです。

 ルワンダの旧宗主国ベルギーは、同じバントゥー系人種であるにもかかわらず、農耕民のフトゥ族と統治階級のトゥチ族に分別する最低な植民地政策を敷き、それがこの紛争の元になってしまいました。大日本帝國が台湾や朝鮮に敷いた皇民化政策とは違い、現地からただ搾取するための欧米型植民地政策というのは、こうしてアフリカ諸国に今日の貧困と火種の原因を残していたのです。

 当時ソマリアへの軍事介入に失敗したばかりの米国はもちろん、定めし連合国の本音は、内陸の小国ルワンダで発生した120万人以上もの虐殺に介入したところで自分たちに何の利益もないというものだったに違いありません。

 決して平和維持軍司令官として現地に入ったロメオ・ダレール氏個人の責任だったとは言えないでしょう。本作では、氏をモデルにしたオリバー大佐(『48時間』のニック・ノルティ)が登場しますが、彼は連合国本部の積極的な後ろ盾もなく、混乱した現地でなすすべもありません

 そんな中、1人でも多くの同胞を救おうと命がけで自身が副支配人を務めるホテルに約1200人を匿うのが、ポール・ルセサバギナ氏(ドン・チードル)です。ドン・チードルと言えば、私が好きだった米テレビドラマ『ピケット・フェンス』(テレビ東京や毎日放送の深夜枠でかつて放送)で真摯な地方検事を演じていましたが、本作でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされました。ほかに『レオン』のジャン・レノも出演しています。

 未見の方には是非とも本作をご覧いただいて、「国連」の決定は「全世界共有の意志」的な虚構、UN平和維持活動・平和維持軍という「対日占領憲法第9条と日本自衛隊の関係」ほど出鱈目な行為と組織について、よく知っていただきたいと思うほどです。民主党の小沢一郎前幹事長は、例えばこのルワンダ紛争の顛末を知っていてなお、いわゆる「国連中心主義」なんぞを掲げたのでしょうか。