立民も不記載だらけだが…

皇紀2683年(令和5年)12月16日

立民・辻元清美氏、寄付額不記載!? 政治献金「10万円」食い違い騒動…夕刊フジが直撃すると意外な展開に(1/2ページ)

 立憲民主党の辻元清美参院議員が代表を務める政治団体が受けた寄付金について記載した2022年の政治資金収支報告書と、寄付を出した側の政治団体側の報告書の額に「…

(zakzak:夕刊フジ|産經新聞社)

 連日申していることを整理しますが、二十万円以上のパーティー券収入および年間五万円以上の寄付について、総務省に届け出ている政党または政治団体が政治資金収支報告書に記載しなければ、政治資金規正法違反(不記載、虚偽記載)に当たります。よって、記載漏れがあった場合、総務省に修正して提出し直さねばなりません。

 くどいようですが、それで終わりです。昨日記事でも改めて申しましたが、何の恨みか東京地方検察庁特別捜査部(旧隠匿退蔵物資事件捜査部)が出てくる話ではありません。議員事務所が内部留保に回した金額も、悪質性を疑うほど決して多くないのです。

 収支報告書を一度でも書いたことがある人なら分かります(ほとんどいないでしょう)が、各都道府県の選挙管理委員会に提出する際、少しでもおかしければその場で指摘されます。かつて「外部(早い話が左翼・極左暴力集団系の自称「市民団体」構成員)から何か言われたら面倒ですよ」と助言いただいたことがありました。

 自民党の清和政策研究会に対する統一教会(世界平和統一家庭連合)と検察権力朝日新聞社の「怨念」が炸裂した中、立憲民主党の安住淳国会対策委員長もパー券収入の記載漏れが発覚し、修正しています。朝日は、これも「裏金」と書き立てるのでしょうか。いえ、単に「不記載」としか書いていません。

 そこへ立民の辻元清美参議院議員に係る疑惑の発覚ですが、まず「だんだん慣れて、今回はうまいこと揉み消したな」というところです。二十万円以下のパー券収入ということにして、五万円以上の寄付の記載漏れを逃れるという手口でした。

 これをやるには、相手方の収支報告書を修正させねばなりません。辻元議員本人か秘書が日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)系の上岡一幸氏らに泣きついたのでしょう。今月六日付で慌てて提出し直されています(私鉄関東交通政策研究会の収支報告書)。

 朝日らしく書き煽るなら「収賄側の議員事務所が贈賄側の極左団体に修正させた」となるでしょうか。いや、それほど朝日の清和会に対する記事の書き方は、悪質にして少なからず異常です。

 修正して終わる話を「それなら政治家だけが丸儲け」のように言う人がいますが、ことほど左様に政治家だけでなくお金を出した「いわば国民」側も修正して終わります。いちいち検察に出てこられるような金額の話でもありません。

 統一教会と自民党の話が出てきた際も、結局は統一教会が立民の議員たちにも手を出していたことがつぎつぎに発覚しました。辻元議員、大串博志原口一博各衆議院議員らが統一教会系の団体に支出していたにもかかわらず、立民の調査でその事実が隠蔽されたのです。

 今回も自民党を糾弾するための調査団を立ち上げるそうですが、その前に立民自身を洗い直すようお勧めします。「清和会叩き」に夢中になっていますが、この程度のことをその調子で騒いでいると、必ず自身の首を絞めることになるでしょう。

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『立民も不記載だらけだが…』に2件のコメント

  1. 日本を守りたい:

    前回の続きです。どうかお許し下さい。

    罪の赦しとは 罪が赦される事とは、人が永遠に受け容れられる事であります。

      それは人の生に起きる逆転であります。
      終わりから始まりへと 死から生へと 逆流が起きるのであります。

      愛なんか無力だと怒り、愛を憎んで愛を投げ捨てた者に、受け切れず溢れるまでに
      無上の愛が与えられるのであります。罪の中に居る者が、罪を克服出来ないまま、
      それなのに、罪から真の意味で解放されてしまうのであります。

      罪は無くならない、だから罪有るままで、それなのに、
      人が永遠に受け容れられてしまうのであります。
      神による関与の全てが、赦しを含んでおります。
      無条件に、永遠に関与する事そのものが 赦しなのであります。

      どうしても自身を変える事が出来ない、人という者が、
      この逆転によって、逆転されてしまう事で、変わるのであります。
      新たに受けた愛と結ばれ、愛に伴う苦難と結ばれて、
      人が本当に 変わるのであります。弱いままで、強い人になります。
      苦難からの絶望によってさえも、真理に出会って支えられるのであります。

      罪が赦されるのは、裁きによって砕かれた時であります。
      本当の裁きとは、人を砕く力であります。それは 
      人が何であり、そして何でなければならないのかを 人の内部に宣告します。
      真正なる裁きは 今 ここで 人の内部に来る 超越の力なのであります。
      それを人が受け容れるならば、それによって 人は 超えられてしまうのであります。
      その人のままでありながら、新たなる者となっております。
      罪を赦された人なのであります。( なお、「超えられる」という経験は、
      人が自力で創り出せる「脱我」とは違うものであります。
      もっと遥かに幸いな事のように、ゲンちゃんは感じております。これについて、
      いずれ書かせて頂ける日が来るならば、本当に嬉しい事であります。)

      しかし、人は 一体誰が 砕かれる事を望むでありましょうか。
      人の望みは、自身が砕かれる事ではなくて、神が砕かれる事であります。
      神無しで生きる事であります。人を殺したくなったら、そのまま、
      殺してしまいたいのであります。人にとって、神は、最も邪魔な者であります。
      人にとって、殺してやりたい相手よりも、もっともっと殺してしまわねばならない者、
      それが神という者なのであります。

      何故 人を殺してはいけないのか? この問いは、
      何故 神無しで生きてはいけないのか 何故 神を殺してはいけないのか 
      と言うのと 同じ事なのだと ゲンちゃんは思います。
      一日たりとも 殺人無しに過ぎた事の無い 人の世であります。
      そして、人が殺される前に 神が殺されているのであります。
      それなのに 神は人を赦す。神が人に与える赦しとは、そのような赦しであります。
      人の可能性を超えた、恩恵の出来事であります。

      さて、そもそも、人の罪とは何なのかを言わねばなりません。前号のメルマガで、
     「人は 罪とは何であるのかを 実は知りません。それを本当に知り得るのは、
      罪を赦される時 ただその時だけなのであります。」と書いた時、ゲンちゃんは 
      恩恵を頂いたと感じて、感謝しました。
      ( こんな言葉が生まれて来るとは、全然、思っていませんでしたので。) 
      真理か、真理に近い事を、書かせて頂いた気がしています。しかし、今、
     「罪とは何であるのか」という問いの前で、ただ立ちすくんでおります。あらためて、
      人の罪という言葉が持つ深みに、途惑っています。

      言葉は 二つのものを示す事が出来ます。
      その言葉が表現しているものと隠しているものとであります。
      罪という言葉は、それが表現しているもの(表に現わしているもの)である以上に、
      隠しているものを象徴している、まさに宗教的な言葉であります。
      それが隠しているものが人と強く結ばれている事を訴えている言葉なのであります。
      「罪」は 他の言葉で置き換える事が出来ない言葉であります。
      類似の他の言葉に換えてしまうと、表現しているものは似ていても、
      隠しているものが消えてしまうからなのです。

      「罪」は、その恐ろしさと脅迫性 破滅性 懲罰の苦しみを内に含んでおります。
      そして人が自力では脱却出来ない囚われの深さ 
      負の永遠性とでも呼ぶべきものを象徴しております。
      人の生は死によって終わりますが、罪は、
      死でさえも終わらせる事が出来ない呪いなのかもしれません。

    ここでゲンちゃんは ある御婆さんの言葉を紹介します。
    ゲンちゃんは その御婆さんに会った事も無く、名前も知りません。
    ある人のブログに書かれていたのです。
    生前「阿弥陀様からは逃げられん」と時々つぶやいていた ある御婆さんが居た と。
    ブログには その御婆さんについて それ以外には何も書かれていなかったので、
    ゲンちゃんは その御婆さんの事を いろいろと想像してみました。

    たぶんお婆さんは、まだ幼い頃に、生まれた家の宗教として、
      祖父母や両親によって教えられて、受け継いだのでしょう。そして、
      成長し、嫁入りして夫や姑との生活の日々を積み重ねて来た。
      辛苦に喘ぐ時にも、幸せに感謝する時にも、念仏した事でしょう。

      彼女にとって、念仏という祈りを捧げる相手 
      聖なる者であり救いの仏である、阿弥陀様。では、何故、
     「阿弥陀様からは逃げられん。」と彼女は言うのか? 実は彼女は逃げたかったのです。
      彼女を救うと誓っている聖なる者から、逃げたかったのです。
      本当に逃げようとしたでしょう。何度も何度も、走って逃げたはずなのです。
      心を閉ざし、背を向けて。彼女が、自分しか知らない自分で居たい時には。
      阿弥陀様には見られたくない、醜悪な彼女になる時には。

      夫が他所に女を作ったら、夫が憎い 相手の女が恨めしい。
      自分は精一杯働いているのに、姑の意地悪が度を過ぎたものだったら、姑が許せない。
      そして年を取って彼女自身が姑となったら、今度は息子の嫁が・・・。
      彼女はお婆さんになるまで、数え切れないほど念仏を唱え、何度も、
      救われた気持ちになれた。そして何度も、阿弥陀様から逃げて、
      心の中で憎悪と呪いに身を任せた。

      ただ自分の思い通りに、好き勝手にしたい。どうしてダメなの? 
      やりたい事をやりたいようにやって、善い事をしたら私の手柄、
      阿弥陀様なんか要らない、私に酷い事をする奴には思いっきり仕返しして
      思い知らせてやりたい、それがどうしていけないの? 阿弥陀様なんか、居なくなれ!!

      彼女は何度でも逃げただろう。しかし、「阿弥陀様からは逃げられん。」
      何故、逃げられなかったのか? 逃げ切れなかったのか?

      権力の下請けたる村長や 残念ながら権力と癒着している寺の僧侶ならば、
      支配の手段として人々に道徳を押し付ける。「善い事をせねばならん。
      悪い事をしてはならん。善い事をすれば極楽往生、悪い事をすれば地獄行きじゃ。」

      だが、彼女にとって阿弥陀様は違っていた。権力でも道徳でもない。
      何の宗教的権威でさえ無かっただろうと、ゲンちゃんは思う。
      阿弥陀様は、ただただ、彼女のものになってくれた。本当に、彼女の者になってくれた。
      どこまでも彼女の者、彼女のための愛。これ以上の事は何も無いと
      彼女は思えたのだろう。それはこの世の全ての出来事に優っていたのだろう。

      彼女の、生きる力が、生を創造する力が、その時に新たになった。
      彼女にとっての彼女も、新たな者となったのである。憎悪と呪いからだけでなく、
      ただ自分の好き勝手にしたいと思う自分からも、解放されるという経験を、
      彼女はしたのである。生の、ある究極の目的と結ばれたのである。

      人にとって、本当に結ばれているから、どうしても逃げる事が出来ない相手 それこそが神なのです。
     人は神から逃げるだけではなく、神を殺してしまう、それなのに、それでも、
     人を赦し、人を受け容れ、人を肯定する者 それこそが神なのです。

     如何なる罪 如何なる呪いに人が囚われていようとも、
     神は人に関与し給うのだと ゲンちゃんは思っています。そう思えるのです。
     ゲンちゃんが そう思い込んでいるというのではなくて、いつのまにか、
     そう思えるようになっていたのです。今回はここまでとします。
     長文を読んで下さって、感謝です。拝。

  2. きよしこ:

    偶然にも私自身今年から地元イベントの会計を担当するようになりましたが、領主書や現金の管理など1件1円の記載漏れもするなという方が無理な話です。「けしからん」と目くじらを立てている人間は自分で数百万円の金額を扱う会計の仕事を完璧にできるのでしょうか?それこそ「訂正したんだから許してくれ」というのが普通でしょう。朝から晩まで政治家のカネの問題を批判できるほど報道権力は清廉潔白なのでしょうか?募金は着服するわ会社の資金を北朝鮮に流すわで、「政治とカネ」「政治の信頼」の「政治」を「メディア」に置き換えればどちらが信頼に足らないかぐらい誰でも分かります。

    安倍派の政治資金パーティーの写真や映像をここぞとばかりに流すメディアに問いたいのですが、ジャニーズ事件同様、知ってて黙っていたのではないですか?また、知らなかったというのならば政治資金パーティーに何を取材しに行ったのですかね?

    ここ数年見たこともない水準にまで支持率が低下した岸田内閣への不満の受け皿になる意思もなく、1年じゅう隠蔽と捏造と改竄に勤しむ立憲民主党なんぞ統一教会に負けず劣らずのカルトそのものです。