岸田内閣の最終局面か…

皇紀2683年(令和5年)12月9日

 一時は不釣り合いなまでに次期首相を狙っていた松野博一内閣官房長官を、岸田文雄首相が事実上更迭するという情報が入りました。一連の政治資金規正法違反が理由です。

 官房長官が更迭される内閣は、もうおしまいでしょう。総辞職に向けて「経歴のための人事」を乱発する気かもしれません。一日でもやれば「元官房長官」を名乗れますから。

 というわけで、本日の記事配信が変則化し、誠に申し訳ございませんでした。バタバタしておりますゆえ、下記産經新聞社記事をお読みいただき、わが国の惨状を皆さんと正しく認識したいと思います。

<独自>川口のジャーナリスト脅迫事件、クルド人男性を不起訴 「強制送還求めたい」

埼玉県川口市で9月、トルコの少数民族クルド人の男性がフリージャーナリストの男性を「殺す」などと脅迫した事件で、さいたま地検がクルド人男性を不起訴処分としたこと…

(産經新聞社)

 以前にも申しましたし、読者からも同様のご指摘がありましたが、外国人を「言語の壁」と「人権」で不起訴にするのは、やめていただきたい。司法権力の怠慢、そして私たち国民に対する不公正、不公平そのものです。

 人権を騙る左翼・極左活動家が背後(弁護や支援)につきますと、特権を主張するので聞き入れてはいけません。

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『岸田内閣の最終局面か…』に1件のコメント

  1. 日本を守りたい:

    今回も ずいぶん以前に書いた物ですが、どうかお許しください。拝。
     
    「 何故 人を殺してはいけないのか? 」
      ゲンちゃんは先日、インターネットのあるブログで、
     筑紫哲也氏が亡くなっていた事を知りました。テレビが壊れる以前には、夜 
    就寝前に時々、彼のニュース番組を見ていました。当時の番組の中身で、
     今も 唯一つだけ、憶えているのが有ります。

     番組のスタジオに青年達が来ていて、筑紫氏とゲストの灰谷健次郎氏と、
     青年達が対論しています。青年の一人が言いました。

     「 何故 人を殺してはいけないのか? 」

     ゲンちゃんの記憶では、筑紫氏が何と答えていたか、定かではありません。
     灰谷氏が、ドストエフスキーを引用して答えました。
     「人の本当の自由を知った者は、決して殺さないだろう」と。
     その時、青年は 納得は出来ない という表情であったとゲンちゃんは感じていました。
     もしも、その場にゲンちゃんが居たら、青年に何か答えてあげたいと
     思いながらテレビ画面を見つめていた 当時のゲンちゃんでした。
     今から10年も前の事だったでしょうか。

     今でも憶えている理由は、「何故 人を殺してはいけないのか? 」という
     問いかけ自体のせいでもありますが、それ以上に、
     その青年に真摯さを感じたからであります。( しかし、もしかしたら、
     ゲンちゃんはまんまと騙されてしまったのかもしれません。全てが
     「テレビのやらせ」芝居であったなら。つまり青年にとって本当は
     普段考えた事も無く、どうでもよい事であって 
     ただ与えられた質問の役目を果たしただけ だったのかもしれません。
     いずれにせよ、不真面目な 面白半分の問いかけなら、多くの場合 
     当人も周囲も、いずれ忘れてしまうし、忘れれば良い。しかし、
     実は厄介な事には、この問いかけの内容は 決して悪戯には終わらせない
     不可思議な力を持っています。青年は 何故 人を殺してはいけないのか? 
     という問いかけと本当に結ばれてしまうかもしれません。
     これは決してオカルト的な、怪奇物語として言うのではなくて、
     人は出会った言葉と結ばれてしまう場合が在るという事です。)

     もしも本当にあの青年が、「何故 人を殺してはいけないのか? 」という
     問いかけに巻き込まれていて、自身の切実な問いかけとして苦しみながら 
     本当に答えを求めているのならば、彼は この問いかけを忘れる事も 
     捨ててしまう事も 決して出来ないのであります。

     「人の生命は この上なく大切なものである。他者の生命を奪う権利は誰にも無い。
     全ての人は生きるべき者なのであり、そのために社会を形成して 
    国家権力は正しい秩序を作り、守るのだ。そして生命の尊重は、社会秩序の基礎である。
    だから 人を殺してはいけないのだ。」

    このような論理が導き出した答えに、青年は既に出会っているでしょう。
    灰谷氏の、ドストエフスキーを引用した答えは、理性の問いかけに対して
    理性を超える立場すなわち宗教的な答えであります。
    「人は自由だ。幼児の脳天を叩き割っても良いのだ。だが、
    人の自由を本当に知る者は、決してそんな事をしないのだ。」
    ドストエフスキーが「カラマーゾフ兄弟」で提示した
    まさに宗教的な真理であります。「殺して良い。しかし、殺さないのだ」
    矛盾を成立させる「理性を超える次元のものとして」のみ 語り得るのであります。

     青年は 外部から得られる如何なる答えにも満足しないでしょう。
    彼自身の 彼を苦しめている殺意を 納得して解消させる事が出来ないでありましょう。
    彼自身が答えなければなりません。周囲の人々にとっては 彼は問いかける者です。
    しかし、彼自身にとっては 彼は 問いかけられている者なのです。
    彼が問われているのです。彼に問う者は、外部の者ではない。
    彼の 彼自身の 根底であります。
    人には その人をその人としている 根底と言えるものが有ります。
    人は皆、その人だけの根底と言えるものと共に生きております。
    その根底に拠って、人はその人なのであります。

    その根底を 神と呼ぶとしても、それは特定の宗教の神とは違って、
    神話を持っておりません。ですから、「イエス・キリストの父なる神」という名も、
    「阿弥陀如来」という名も、持っておりません。名を持たぬ神なのであります。
    そのような根底から来る問いかけを逃れる事は 誰にも出来ません。
    根底とは、その人に本当に関与している者の事だからであります。

    「何故 人を殺してはいけないのか? 」

    逃れようも無く、本当の答えも見出せずに、青年は生きて行く。
    たぶん、殺人者となる事なく。これはゲンちゃんの願いではありますが、
    それだけではありません。問いに対する本当の答えは、
    既に青年に来ているからであります。答えに出会っている者だけが、
    真剣に問う者になるのであります。青年が苦しい問いと共に生きて行けるのは、
    答えによって問われ 答えによって支えられているからであります。

     新たな神話が始まっております。青年の中に、青年の根底なる神の 神話であります。
     青年が 彼を苦しめている殺意と和解する事が出来るならば 
     それは青年と青年自身との そして全世界全宇宙との和解であり合一であります。
     人という者の全て 全ての人々が この一つの和解を共有するのであり、
     真の喜びによって満たされるのであります。この新たな神話は、
     完成するでありましょうか。青年の人生が、その記録となるのであります。

     人は 苦しい問いと共に生きております。忘れつつ 離れつつ。
     しかし、完全に断絶する事は 不可能かと思われます。
     では人生は 無意味でありましょうか?
     人の生は 無意味さと死という牢獄なのでしょうか? 
     
     人が否定し切れない この脅かしに対して、
     無意味さと死とが、人に代わって証言してくれます。
     生の無意味さこそが、生の真の意味を知っているのです。
     無意味さを知る生は、人が自己満足できる意味有る生に 優るものなのであります。
     死こそが、生の無にならない豊かさを知っております。だからこそ、無意味さと死とが、
     真剣に生きる情熱を 人に求めるのであります。

     モーツァルトの「ナハト・ムジーク」の第一楽章がユーチューブに在りました。
     夜が象徴する 生の内なる闇と終わり すなわち死の前に立つ人の魂の音であります。
     わずか8分間の 音による神話。
     
     ゲンちゃんは インターネットで見てみました。この曲について言及している人たちは、
     どんなふうに語っているのかを。5人ほどの中で、一人は「悲しげなメロディー」と。
     しかし、他の人は「セレナードなのに短調だ」とか、
     「夜の音楽 とモーツァルト自身が名付けた」とか。
     総じて、楽曲の構成と楽器の説明ばかり。

     ゲンちゃんにとっては、この曲は恐るべきものです。冒頭からすぐに、
     死とはどんなものかを知っている者でなければ書けない作品だと感じさせられるのです。
     そして7分30秒あたりからは、オーボエが何度も、
     死んで行く獣の鳴き声のように鳴くのです。もしもゲンちゃんがペットを飼っていて、
     このオーボエのように鳴いたら、すぐに抱き上げて眼を覗き込まずにはいられないでしょう。
     張り詰めた悲しみと別れを告げる鳴き声だと感じるからです。

     しかし、それにも優って特筆すべきは、この曲の音たちの豊かさであります。
     休符の孕む緊張の強さ、それぞれの音が歩き続け走り出す、
     それらの一つ一つが生の、死への戦いであります。
     死によって引き出される、生の豊かさそのものであります。
     この曲は、死が創造した黒い花。生へ捧げられるための。
     それによって生は遥かに豊かになる。

     モーツァルトがこの曲を書いたのは、コンスタンツェと結婚する直前、26歳の時。
     父へ結婚の許しを請う手紙を何度も書くが返事は来ず、
     彼の親族は誰1人として出席しない結婚だった。
     その後10年足らずでモーツァルトは亡くなった。

     これが結婚間近の26歳の男が書いた曲だとは。

     存在の根底とは何か それを問えば 根底はたちまち深淵に変わり 
     人の見究め得ぬものとなる。
     周囲の人々の目に、モーツァルトがどのように見えていたにせよ、
     彼は生の深淵に目を凝らしていた。そして 深淵において彼を捉える者から 逃げなかった。
     彼を捉える者を音によって表現し証言した。天才の運命。

      http://www.youtube.com/watch?v=9FJ7j1Y8LAk 

     何故 人を殺してはいけないのか? 人を殺す事は 恐ろしい罪であります。
     しかし、人は 罪とは何であるのかを 実は知りません。
     それを本当に知り得るのは、罪を赦される時 ただその時だけなのであります。
     その時こそ人は、何故 人を殺してはいけないのかを 
     人が手を伸ばして掴む事の出来ない真理を 知らされるのでありましょう。
     罪を赦されるとは、人に起きる最大の事件なのかもしれません。

     赦しとは何であるのか については、次号に書かせて頂きたいと思います。
     次号もどうかお付き合い下さい。

     ■編集後記

      2週間かけて書いた下書きファイルを うっかり無くしてしまいまして、
     しばらくがっかりしていました。それで発刊が遅れてしまいました。
     御詫びします。同じテーマで再び書きました今号ですが、ゲンちゃんの場合、
     無くしてしまった下書きとは かなり別の文章に なってしまいます。
     その時にしか来ない 来てくれない言葉が有りますので。
     ゲンちゃんの書く拙文の一つでさえも、ゲンちゃんにとっては、
     出来たものはありがたく、失ったものは帰って来ない。
     ましてや人の生命の 死の 尊厳はあまりにも大きいのだと
     あらためて気付かされた気がします。

     ウィキペディアに書かれている 中村元さんのエピソードを
     ここに書かせて頂きます。本当に 頭が下がります。

     「 中村が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』(東京書籍)が
     完成間近になったとき、編集者が原稿を紛失してしまった。中村は
     「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、
     翌日から再び最初から書き直し、8年かけて完結させた。」