被爆者語り部に暴言の実態

皇紀2674年(平成26年)6月10日

 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140607/crm140607……
 ▲産經新聞:長崎被爆者に「死に損ない」 横浜の中3生、修学旅行中に暴言

 第一報に触れたとき、わが耳を疑いました。日本教職員組合(日教組、現在の全教も含む)が子供たちに浸透させてきた「自由と権利の謳歌」は、すでに親となる世代に行き届き、家庭教育と学校教育がともに劣化した証左ではないか、と。

 横浜市立中学三年の男子生徒五人が先月二十七日、修学旅行先の長崎市で、被爆体験の語り部である森口貢さんに向かって、騒いだことを注意された腹いせのように「死に損ないのくそじじぃ」などと吐き捨て、他の生徒に拍手を煽って講話を妨害したというのですから、叱られた経験に乏しく、大抵のことを自分の思い通りにするよう勧められる「日教組教育」が、概して日教組活動の支柱だったはずの「反戦・非核」を侮辱したことになります。日教組はこれまで、天に唾してきたようなものです。

 このような教育しか受けられない子供たちは、大人になれません。会社に入ろうが個人商店で働こうが、利己的で耐性が低く、結局は行き場を失ってしまいます。

 ところが、話はこれで終わりませんでした。そのような話ではなかったのです。ひょっとするとこの生徒は悪くないかもしれません。

 http://www.peace-wing-n.or.jp/taiken/top_5.html
 ▲公益財団法人長崎平和推進協会(ピースウィング長崎):講話者プロフィール

 森口さんは昭和二十年八月九日、米軍に原子爆弾を投下された長崎市内にはおらず、佐賀県内に疎開していたことが分かっています。その十一日後には長崎市に戻っているため、むろんまったく「被曝」していないとは言えませんが、決して「被爆」はしていないのです。

 では一体、誰の被爆体験を話していたのでしょうか。被爆者から「聞いた話」では、被爆者の語り部とは言えません。かつて長崎平和推進協会が八年前、政治活動的な講話をしないよう被爆体験を語る継承部会に要請しています。

 この要請は、被爆者講話の歪んだ実態を背景に出されたものであり、被爆体験の継承と、二度と被爆者を出さないという私たちの願い、そして何より犠牲者の魂を踏みにじる者がいるということです。

 大人たちのこの体たらくが、子供の教育によいはずなどありません。「人はいかに自由に生きるか」という大命題は、極右にせよ極左にせよ原理主義との戦いに勝ってこそ、答えが得られます。目下わが国は、極左原理主義が(自由と権利を謳いながら実は)人の自由にとてつもない縛りをもうけ、人をダメにしているのです。

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『被爆者語り部に暴言の実態』に3件のコメント

  1. ゆき:

    広島の被爆者はつらい経験を乗り越えて、原爆の悲惨さ残酷さを伝えるため、尽力されていた。このような高齢の被爆者に対して、暴言を吐くのは人間として最低だと思う。認められて語り部になっているのだから、それを他のブログで詐欺師とこき下ろすのには驚いた。爆弾投下後に広島に入り、遺体収容作業に関わった兵士が後に原因不明の体調不良に悩まされたと言う話を読んだことがある。認定がおりない人も多い。被爆した人をたたく行為が嘆かわしい。学校は過保護な父兄のモンスター化に縮こまっている。西洋に行けば、生活指導など家庭の仕事と割り切って関わりあわない。この暴言を吐く子らを放置しておくと、我々が老人弱者になった時に、ホームでいじめにあうのが茶飯事になる時代が来る。

  2. arima:

    この『語り部』の方、時給1万円だとか。
    サヨクらしいですね。

  3. :

    本当の被爆体験を語る人がいても、核兵器はこの世から無くならないのだろうなぁと思います。
    なぜなら、広島・長崎に原爆を投下した米国が70年経っても全く反省していないからです。
    米国や世界に『日本は決して残虐非道な民族ではなかった、原爆投下は間違っていた』と思わせること
    が出来たら、初めて核兵器廃絶の可能性が見えてくるのではないでしょうか。

    現在の学校教育の現状は酷いものです。
    親がまだ子供の教育は自分たちの責任でもあると認識しているならまだしも、お金を払っているから
    教育・躾は学校に任せればいいと勘違いする親が増えています。(「教育のプロだから」ではなく、「お金
    を払っているから」がポイントです。)

    大学がどんどん増えていますが、大学も運営していかなければいけないので、生徒の取り合いです。
    そのため不人気な大学は、考えられないほど程度の低い子を入学させます。酷いところは自分の名前
    が書ければ合格させてしまうのです。もはや一部の大学は専門知識を学ぶ場ではなくなっています。

    そして高校では、就職する能力が無い子供にさっさと大学進学を勧めるそうです。
    そういう子供達に共通しているのが、遠藤さんの書かれたように「利己的で耐性が低い」のです。
    『平等、脱・競争社会』の声に乗せられて、何かをやり遂げた経験が無いのか、やらなければならない
    課題も嫌なら『やらなくてもなんとかなる、許される、周りが何とかしてくれる』と、思い込んでるのです。
    ある大学関係者の話ですが、試験をやったら名前しか書いていない。それで単位をあげなかったら
    親が怒鳴り込んできた、と呆れていました。
    こんな子供がどれだけ年をとっても社会の役に立ちません。本人も不幸です。
    高校は、大学進学を勧めるのではなく、小学校・中学校への再入学を勧めるべきです。