プロパガンダが生む不信

皇紀2674年(平成26年)5月12日

 http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1405/06/news007.html
 ▲ビジネスメディア誠:セウォル号事件にみる「プロパガンダ社会」の危険性 窪田順生

 或る大国が域内の覇権を掌握しようとすれば、そこにはいくつものプロパガンダを仕掛けておく必要があるわけです(八日記事参照)が、共産党一党支配の中共は、もともと国内向けプロパガンダを徹底させてきました。膨張する軍事費をさらに治安維持費が上回っていることからも、それは明らかです。

 では、一党支配体制にない韓国で、なぜ「プロパガンダ社会」が実現してしまったのでしょうか。それは、朝鮮半島の長い紆余曲折の歴史と、韓国という南北分断の一片国家の正当性に関わる問題であり、詳細を割愛するとしても、とにかく「或る程度の嘘で固めなければ国を維持できない」という理由から今日に至ったのです。

 わが国は初代神武天皇以来、国体がかわっていないものの、時の権力の事情からプロパガンダがむしろ民衆の力によって蔓延、権力が目指した目的以上を達成してしまうということが、たびたび見られました。

 近代に於いては、例えば政府の神仏分離令を受け、民衆が自ら廃仏毀釈に奔ったことがその典型であり、大東亜戦争下の「欲しがりません勝つまでは」の掛け声も、占領統治期の「民主主義」の呼び声も、すべて国民が互いに信じあって騙しあったものだったのです。

 社会生態学者のピーター・F・ドラッカーが独ナチス党に迫った結果、処女作『「経済人」の終わり』の中で「プロパガンダがファシズムを生み出したというのは過大評価だ」とし、結論として「プロパガンダ蔓延の危険性は、プロパガンダが信じ込まれる、ということにあるのではまったくない。その危険は、何も信じられなくなり、すべてのコミュニケーションが疑わしいものになることにある」と述べています。

 中韓が目下陥っているのは、権力によって発信されたプロパガンダへの不信が社会的混乱を招き、権力を含めた相互の不信へと繋がっていることです。もう誰も信じない、と。

 わが国の場合は、国民が報道を含む権力に従順で、相互に騙しあうほど信じ込んでしまったバツの悪さから、プロパガンダが終わるとあっという間に反動を起こし、辻褄の合わないまま涼しい顔をしてしまいます。それが占領憲法(日本国憲法)有効論の恐るべき原動力なのです。

 私がしていることも「プロパガンダではないのか」と言われるかもしれませんが、私は皆様に「自分で考え、自分にできることを見つけてください」と申してきました。そのためのきっかけに、と得た情報などを提供し、自らの考えも示しています。

 中共で「ダンボール肉まん」がまかり通ったのも、韓国人が何かと過激なクレーム行動に出やすいのも、もうとっくに人を信じないことから始まる社会を自ら築いてしまったためで、そこから彼らを解放するには、或る程度の外圧も効果があるでしょう。しかし、やはり彼ら自身が国を変えるしかありません。

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