今より気が長かった日本人

皇紀2680年(令和2年)10月4日

【のんびり日曜】
 大阪市内の待ち合わせの定番といえば、私の中ではまず北区梅田の旧阪急百貨店本店一階にあった郵便局前。ズラリと公衆電話が並んでいるところで、アーチ型の天井にはモザイク画が施され、シャンデリアが下がっているという豪華な空間でした。

 そして中央区難波の南海なんば駅にあった旧ロケット広場。この二か所は、いずれも姿を消しました。ポケットベルから携帯電話へ、時代の変遷と共に私たちの暮らし、いや時間の流れ方そのものが変わっていったのです。

ケータイがない時代の「待ち合わせ」 東京人は指定場所でいちいちセンスを競っていた

 携帯電話が普及して、もっとも変わったのは待ち合わせ方法かもしれません。最近の待ち合わせは「〇〇時に、どこそこのあたりにいてよ」と、正確な待ち合わせ場所を決めない印象があります。 東京の場合、駅の改札を出た頃にコミュニケーションアプリで「着いたよ」と送り、相手の返信を待つのが当たり前になりつつあります。 しかし、携帯電話がまだ普及していない時代の待ち合わせは…

(Urban Life Metro)

 この記事は、二十世紀研究家を名乗っておられる星野正子さんが書かれたものですが、最も同意したのが「現在よりもずっと気が長かった東京人」という部分です。

 かつて映画監督の鳥居元宏元大阪芸術大学映像学科長が「自動販売機の購入ボタンでも押すように答えが出てくる(教えてもらえる)と思うな」と学生たちを叱っておられましたが、これはのちに私が進学塾の先生になって子供たちを指導する時の基本となりました。

 性急に答えだけを求めても、何も身につきません。時間がかかろうが面倒であろうが、自ら調べて考える過程こそが学習で最も重要なのです。

 しかし、私たちの暮らしはどんどん便利になり、そのこと自体はまさに「私たちが考え、調べ、作り、動かした」結果なのですが、スーパーマーケットも、自販機も、コンビニエンスストアも、そしてインターネットも、スマートフォンも、生み出してきたものによって私たちは、立ち止まる時間をほとんど必要としなくなりました。

 それが当たり前になりますと、すぐに得られないものが我慢ならなくなってきます。「時短(時間短縮)できるよね」が当然の基準になれば、そうでないものに対して「なぜできないの?」と瞬間湯沸かし器のごとく怒りだす人まで出てくるのです。

 特に日本人は時間に正確であり、それを勤勉の礎としてきましたから、過剰に時短が進むと国家全体が「イライラ」の噴火口のごとくになるのでしょう。まして加齢と共に前頭葉の機能が低下することで極端な言動に奔りがちであり、日本人高齢者がことに「すぐじゃないなら不要じゃ」などと怒鳴り散らして店を去っていく場合に発展してしまいます。

 杉田水脈衆議院議員の発言の真意や、日本学術会議の正体に目を向けてから行動すべきな、立ち止まって考える時間を自らに一切与えられない日本人が増えたことも、また嘆かわしい限りです。

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『今より気が長かった日本人』に1件のコメント

  1. タロウ:

    「自販機の購入ボタンでも押すように答えが出てくる(教えてもらえる)と思うな」・・・ナルホドです。私、40年前の学生時代は遊び惚けていた不真面目学生だったので、会社を定年退職後は一念発起して大学院に入学。今は研究の日々を続けている者です。研究がうまくいかない日々にイライラすることが多いので、この言葉は身に染みました。自分を戒める言葉として頭の片隅に入れておきたいと思いました。
    待ち合わせ・・・映画「君の名は」の時代に携帯電話があったら、あの名作は無かったですね。www
    それは冗談として、とても勉強になりました。ありがとうございます。