日航機123便事故35年

皇紀2680年(令和2年)8月12日

 六日午前0時過ぎ、新東京国際空港(成田空港)に駐機中の日本航空(JAL)機が突然「123便」を名乗り、航空機位置情報サイトを閲覧していた多くの人びとを震え上がらせるという珍事が起きました。

 これは整備作業上の都合で永久欠番の「0123」を暫時的に入力したため起きたことでしたが、三十五年前の本日午後十八時五十六分、東京国際空港(羽田空港)から当時の大阪国際空港(伊丹空港)へ向け、乗客乗員五百二十四名の命を乗せた日本航空123便(ボーイング747SR-46型機)が、群馬県多野郡上野村高天原山山中へ墜落、五百二十名もの方がたが亡くなられました。

 これが永久欠番の理由にして、未だ単独機事故として死者の数が世界最悪なのですが、いわゆる「お盆休み」に差し掛かる本日、当時「ジャンボジェット」の愛称で親しまれた当機は、同時刻・同路線の全日本空輸(ANA)機ともども文字通りの満席であり、帰省のご家族や出張帰りのビジネスマンなど、機体正面から山肌へとてつもない衝撃を伴って激突したこの事故は、彼らの命を容赦なく、そして最もむごい形で奪いました。助かったのは、後部座席周辺のわずか四名の女性だけだったのです。

 多分、私は毎年同じことを書いてしまっています。それは、どうしてもこの事故が当時十二歳の私にとって強烈な恐怖体験だったからで、頭から離れないせいでしょう。

 私は今でも、日航機は利用しません。そもそも東京・大阪間を飛行機で移動しないのです。それ自体に(事故に遭わないという)意味はないのですが、この事故から遡ること七年前(昭和五十三年)に伊丹空港で同機が起こした「しりもち事故」の修理ミスを事故原因と認めた米ザ・ボーイング社への一貫した不信もありますし、飛行機自体があまり好きではありません。

 対米従属の自民党政治(中曽根内閣)の真骨頂ともいうべき事故処理・事故調査といい、私は小学生の頃から中曽根康弘首相の「不沈空母発言」や「防衛費(当時のGNP=国民総生産に対して)一%枠越え」への嫌悪感がありましたから、それこそ不信が募る一方でした。

 後部圧力隔壁の破損による三分の二もの垂直尾翼の喪失が事故原因であるなら、相模湾上空で爆発、海底に落下した垂直尾翼の破片をなぜ全て回収して事故調査を徹底しないのか、という疑念は今も決して消えることがありません。

 この事故調査の常識を無視したがゆえに、未だに「在日米軍が、自衛隊が、訓練中に間違えて撃った」などといわれるのです。米軍需産業の一翼を担うザ・ボーイング社の異常なほど早かった謝罪と、当時半官半民の日航を操縦した従米政治への疑惑は、もし私が遺族になっていたなら狂ったように徹底追及したでしょう。いえ、もう既にご遺族の方がたが事あるごとに再調査を訴えてきましたが、旧運輸省から国土交通省に至っても尚これを絶対に受け入れません。

 思えばこの事故にまつわるあの日、十九時過ぎに流れた画面上の「ニュース速報」とその後の緊急報道特別番組、翌朝の自衛官による劇的な生存者救出映像が、私の中の現行憲法(占領憲法)という国家的屈辱からくる憂国の原点だったのかもしれない。

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『日航機123便事故35年』に3件のコメント

  1. js:

    自衛隊の大チョンボを隠蔽してもらうことと引き換えにプラザ合意を受けたって説が流れてましたね
    それにしてもそのお歳で中曽根に不信感を持つとはどういう政治感覚なのか(うらやましい)
    私は当時免許取り立てで、浮かれてよくあのあたりを流してましたが、国道299が突然ピカピカに整備されたことに驚きましたよ
    地元の友人曰く、近くの小学校がご遺体の仮置き場に使用されたせいで子供たちが怖がって、結局全部作り直す羽目になったとか、
    その小学生が日航機に近づく黄色い物体を見ていたとか
    いろいろ話してくれたことを私はどうせ都市伝説の類と思って聞き流していましたが…
    彼は中曽根総理についての、地元民しか知らないような悪いうわさも話もしてくれました
    私はつくづく無知であほだったんだなあ

  2. きよしこ:

    普段はスターフライヤーしか使わないのですが三年ほど前でしょうか、どうしても予算の都合で日航機を利用しなければならなくなったのですが、機内のあまりの居心地の悪さに1000円追加で利用できる「クラスJ」でさえ座っている間ずっと遠藤先生が日航を忌避する理由が痛いほど理解できました。仕事の関係で世界中を飛行機で飛んで回った父も日航の話になると嫌そうな顔をします。あまり人や企業を悪く言わない父でさえそうなのですから航空業界に造詣の深い方はなおさらでしょう。

    たとえばYouTubeなどで「123便」と検索すれば当時の凄惨な様子をいくらでも目にすることができますが、再現ドラマでさえ直視できる自信がありません。機内で30分以上もの長きに亘り底知れぬ恐怖と向き合わざるを得なかった被害者と御遺族の絶望は、私なんぞの若輩者にはとても受け止めきれないのです。そう遠くない将来すべての被害者ならびに家族が帰幽されたのちに天国で再会され、穏やかに過ごされることを願う他ありません。

  3. やす:

    123便の事故の背景に当時の米国が我が国に迫ったプラザ合意があったとはよく言われてますね
    プラザ合意をさせる為の見せしめとして123便を墜落させ、また当時墜落地点が中々発見出来なかったと嘘のニュースを流して、実は真っ先に自衛隊が現地に行って何かを回収していたとの目撃者の証言があります
    本当の事故原因を隠す為の証拠隠滅だろうと言われてますが、実はこの時まだ大勢の人が生きていて、真っ先に救助活動をしていれば助かった人は大勢いたのではないかと言われてます
    現地に住んでる人は何処に墜落したかニュースよりも早く分かっていて、救助活動に当たった人が自衛隊が直ぐに救助活動をせず、何かを回収する様な行動を不思議に思ったようです
    結局救助活動が遅れて大勢の方が亡くなりました
    この人達は我が国政府によって無駄に殺されたと私は思ってます
    事故が起きた昭和六十年は戦後日本の大きな分岐点だったと私は思っていて、事故の背景を探る事は戦後日本の大きな闇を暴く事で、今に続く我が国の有り様を見直すキッカケになると思いますし、その事を大勢の犠牲者の無念が訴えている気がしてなりません
    単なる事故としてではなく、我が国そのものの問題と考えて、絶対に風化させてはいけないと私は思います
    またこの年から始まったバブル景気によって人心が大きく狂わされ、物質的パワーへの信仰を決定的にしたと思ってます