死刑判決と死刑廃止の将来

皇紀2672年(平成24年)2月21日

 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120220/trl120220……
 ▲産経新聞:判決骨子[光市母子殺害事件]
 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120220/trl120220……
 ▲産経新聞:上告棄却は「極めて不当」「虚偽の自白に依拠し判断誤った」 弁護団が声明

 平成十一年四月十四日、福田孝行(現在、大月孝行)被告が本村洋さんの奥様とご子娘を殺害した事件は、当時十八歳の少年に対する死刑が確定し、一応の決着がつきました。

 この件について、私は過去に何度も申してまいりましたが、すべて本村洋さんの「(妻と子を守れなかった)無力な男でした」というご発言に始まったと思っています。彼は確か、福田被告(当時)への無期懲役を言い渡した一審判決の直後にも、同じことをおっしゃいました。

 彼が果敢に極刑を求めるのに対し、まるで「出すぎた被害者」のように揶揄する論調が、特に死刑廃止論者から出ましたが、私は洋さんが自らの悔やみと戦うため、ただ表舞台に出ざるを得なかっただけに思えてなりません。

 死刑の是非について私は、全世界規模で宗教的理由から論じられる間は、この世から残念ながら殺人事件はなくならず、死刑という量刑の選択が妥当な場合もなくならないと思います。倫理や道徳の世界において、いわゆる「パラダイム・シフト」にも似たことが起きない限り、わが国の死刑制度を他人種や多国籍団体から否定されることはないのです。

 人類はもっと大きな進歩を果たし、いつか死刑の廃止が叶うでしょう。そのためには、いかに大月被告のような個人の理性と心情を絶対とした価値の遂行に及ぶ環境を排除できるかにかかっています。それが、私が思うに被告をむしろ死刑に追いやった弁護団による「新供述」である「ドラえもん」であれ「母胎回帰」であれ、被告の衰退した(環境によってさせられた)生存の本能に包括された劣化した理性による判断が、母子を殺害するに至ったことは間違いないのです。

 個人の人権は、人が人として生きる権利であり、この尊重を過分に訴える団体が主として死刑廃止を唱えるのは、ともすれば自分たちで犯罪の原因を蔓延させておいて、犯行に及んだ者を「ただ生かせ」と主張しているに過ぎません。凶悪な殺人事件の根絶にはまったく関心がないのです。

 だからこそ、洋さんのご活動はつらいものに違いなかったでしょう。彼が今回の判決後会見でおっしゃった「犯罪が起きないように」という世界の実現を、最も望んでこられたのが洋さんご自身なのです。

 私は、祖先祭祀や自然祭祀の実践を当たり前とする世界的価値観の大転換が起きない限り、死刑を必要とするような殺人事件はなくならないでしょうから、いつか「皇統を守り抜いてきたはずの日本人自身、気づくのが遅かった稚拙な時代だった」と振り返ることのできる、死刑のない世界を求めてまいりたいと思います。

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『死刑判決と死刑廃止の将来』に1件のコメント

  1. matu:

    野でも 山でも 子は生み置けよ
    千両蔵より 子が宝

    亡くなった子供たちの霊を慈しむ地蔵様が、静けさの中でその歌を耳にして、微笑んでいる。
    この人たちは、なんと自然に近い心を持った人たちなのであろうか。・・

    そもそも、人間の感情とはいったい何であろうか。それは私にもわからないが、それが、私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。感情とは、どこかの場所や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるものの万物の喜びや悲しみに共振するものではないだろうか。それにしても、あの歌は、誰に教わるわけでもなく、自然界のもっとも古い歌と無理なく調和している。あの歌は、寂しい野辺の歌や、あの「大地の美しい叫び」を生みだす夏虫の合唱と、知らず知らずのうちに血が通いあっているのである。そこにあの歌の秘密があるのではないだろうか。
    私はそんな風に思っている。    『日本の面影』ラフカディオ・ハーン