日本と日本人はスゴイのです

皇紀2684年(令和6年)3月12日

 第九十六回アカデミー賞授賞式が昨日、米加州ロス・アンジェルス市ハリウッド・ブールバードのドルビー・シアター(旧コダック・シアター)で開かれ、わが国はおろか亜州映画史上初めて『ゴジラ-1.0』(山崎貴脚本監督作品・東宝配給)が最優秀視覚効果賞を受賞しました。山崎監督と「白組」の皆さん、おめでとうございます。

 自ら視覚効果も兼任した監督が同賞を受賞したのは、昭和四十四年の映画『2001年宇宙の旅』のスタンリー・キューブリック監督以来であり、並みいる「莫大な製作費と人員を投下した超大作」を押しのけ、米映画の十分の一とも言われる低予算、高効率作業で見事な表現を私たちに見せつけた本作が獲得したのです。

 大東亜戦後、米国人たちを驚嘆させた円谷英二特技監督は、それがいわゆる「特撮」であることを信じてもらえず(真珠湾攻撃の場面が実写と判断され)公職追放にまでなった映画『ハワイ・マレー沖海戦』から、私は、これで何やら一矢報いたような錯覚に陥りました。当時視覚効果の世界最先端を走っていたのは、昭和二十九年に『ゴジラ』を製作してみせた日本映画だったのです。

 また、宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』(東宝配給)も最優秀長編アニメーション映画賞を受賞し、作品賞や監督賞など主要七部門を受賞したのは、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』(ユニヴァーサル映画配給)でした。

 つまり、原子爆弾を生み出した科学者が米民主党による日本への実戦使用に衝撃を受け、のちにレッドパージ(赤狩り)に遭いながらも核兵器開発反対の立場に回ったが時すでに遅く、生み出された水素爆弾によって誕生したゴジラに人類が翻弄され、私たちはどう生きていくべきか、という「世界線」で本年のアカデミー賞は幕を閉じたのです。

 近年顕著だった「人種・国籍配慮」などのポリティカル・コレクトネス(綺麗事莫迦)は鳴りを潜め、むしろその醜い歪みや白人種の本音のようなものを、或る二人の受賞者がとった亜州系の昨年受賞者(プレゼンター)に対する態度でまざまざと見せつけられたのではないか、とSNS上などで非難の声が上がっています。ただし、そのように見えただけかもしれません。

 しかし、このような騒動の起きること自体が政治的配慮の顛末であることは間違いなく、受賞者や受賞作品が本当にそれ相応の価値を有していたか否かという論争にまで発展し、結局多くの人びとを傷つけてしまいます。

 自力で勝ち取っていくことの真なる価値は、かつて西欧列強の不平等と闘った大日本帝國がよく知っていました。それを私たち日本人自身がすっかり忘れてしまったのです。亜州人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士(物理学賞)の偉業がいかにとてつもなかったか、最近ではまともに語られようともしません。

 対日ヘイトスピーチ(憎悪差別扇動)の左翼・極左がよく「『日本すごい』みたいなテレビ番組を観ると反吐が出る」などと吐き捨てますが、私たち日本人は、実のところ本当の日本の価値、日本人の価値を正しく評価できていないのです。

 例えば黒澤明監督に対する正当な評価は、伊ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞受賞(昭和二十五年の映画『羅生門』)に始まりました。小津安二郎監督を評価したのも、欧州各国の映画人や評論家たちのほうが積極的だったように思います。

 深作欣二監督や伊丹十三監督に対しても、米国の映画人や評論家たちのほうが熱狂し、わが国ではその一定の価値を認めつつも極めて控えめではなかったでしょうか。或いは、つい先日訃報が届いた漫画家の鳥山明さんにしても、いや、わが国の漫画文化そのものへの真っ当な評価がわが国でなされてきたとは思えません。

 浮世絵木版画にしても、欧州(特に仏国)での評価に対してわが国のそれは、冷ややかだったようにも思え、その価値が遅れて認められるようになるまで多くの作品が海外へ流出しました。その一方で、そうした優れたものに囲まれることが「当たり前」である私たち日本人の暮らしは、声高に価値を主張することとは縁遠いのかもしれません。

 それもまたわが国、私たち日本人の真の価値であり、これを次世代へ引き継いでいくことが現世私たちの「生きざま」であるべきなのです。

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