難民問題は憲法9条のせい

皇紀2683年(令和5年)8月27日

“移民殺到”…ニューヨーク市が財政支援を要請

 中南米などから移民が殺到しているニューヨーク市が、支援に掛かる費用について「危機的な状況」として連邦政府に財政支援を要請しました。…(動画)

(ANNnews CH|テレビ朝日)

 左翼系のテレビ朝日は、まるで共和党が悪いように報じていますが、移民を無尽蔵に受け入れるような態度をとってきた米民主党が間違いを犯しているのです。

 移民国家である米国でさえこの有り様ですから、わが国や欧州主要国が同じことをすれば、既に欧州の混乱が示す通り悲惨な結果になります。欧米型権利闘争による「リベラル」は、人間どうしの対立と貧困、そこからの殺戮(革命や内乱)が生まれるのみです。

 ニュー・ヨーク市は現在、民主党のエリック・アダムス氏が市長ですが、こうした混乱は、特に昨年から顕在化しており、南部からバスで輸送されてくる移民の大量流入で、昨十月に非常事態宣言が発出されました。

 これを、移民大量受け入れに反対するテキサス州のグレッグ・アボット知事(共和党)のせいのように言うのは、全くの筋違いです。連邦政府自体が共和党のドナルド・トランプ政権から民主党のジョー・バイデン政権に変わり、移民政策が無責任な緩和へと転じたことに原因があります。

 移民の避難先に提供された市内のホテルなども収容限界を超え、路上に移民が溢れて市の財政も治安も最悪です。この事態を招いた民主党市政が財政支援を呼びかけるのは、まさに自らの無能を認めたも同然でしょう。受け入れられないのに受け入れたせいで、こうなったのです。

人生の4分の1費やした「難民申請」 自由を奪われ、堪え忍ぶ生活 入管法改正後を問う

難民申請から認められるまでに14年…、この間、入管施設への収容は3年8カ月に及び、私の生活を完全に破壊した--祖国を離れて民主化運動に関わってきた男性のケースは“難民鎖国ニッポン”を象徴する。多くの批判…

(TBS NEWS DIG|東京放送)

 そこでさらに、極左系の東京放送(TBS)がわが国を移民によって占拠し、日本人を攻め滅ぼそうと「難民」についてまとめてみたという記事を取り上げておきます。

 わが国が難民申請に対して渋いのは、そもそも現行憲法(占領憲法)第九条が原因です。交戦権を連合国軍(米軍)に剥奪されたままでは、多分に当該国の政情に基づく難民申請に関われません。特定の国の政治情勢を一方的非難することに繋がりかねないからです。

 占領憲法に「お花畑」を描いたはずだった米民主党のことを「リベラル」だと思っている護憲派は、この事実をご存知でしょうか。TBSら左翼・極左は、出入国在留管理庁や出入国管理及び難民認定法(入管法)が悪いように騒ぎ立てますが、わが国最大の護憲政党でしかない自民党がこのような法と行政を確立してしまうのは、すべて占領憲法に基づいているからです。

 悔しかったら立法に占領憲法を捨てさせなさい。自主憲法たる大日本帝國憲法の改正を急がせなさい。

 法の原則を無視する左翼・極左弁護士の利権になっている難民申請活動は、そのまま法治を無視した日本破壊工作にほかなりません。「かわいそう」ではないのです。占領憲法を「憲法」として後生大事に護持し続けるからこうなったのです。

 帝國憲法改正の上で、わが国が移民・難民を受け入れられるかどうか、いたずらに「受け入れられないのに受け入れ」て外国人を困窮させることのないよう判断できる国家にならなければいけません。

 各国で問題を起こしているクルド人難民申請利権が埼玉県川口市を中心に数多犯罪を頻発させている現状を見ても、わが国が毅然と「受け入れられません」と言わねばならないのです。

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『難民問題は憲法9条のせい』に2件のコメント

  1. きよしこ:

    この手の「難民かわいそう報道」に思うのは、「そう思うならお前がポケットマネーで養ってやれ」の
    一点に尽きます。彼らを養う資金の原資は言うまでもなく税金なのですが、財政出動にはバラ撒きなどと宣うくせに、不法滞在者や犯罪者を匿い養う「垂れ流し」には批判どころか後ろ盾さえも用意する出鱈目さに9条護憲派の無責任体質が凝縮されています。

    本来政治や報道の責務というのは加害者も被害者も生まない社会を作ることにあります。ところが常に日本を加害者にも被害者にもしたい者たちが政界にもメディアにも跋扈しています。多数の技能実習生と働いているからこそ申し上げますが、自国を守るための武力行使すら認めない9条護憲派の偽善が日本人も外国人も不幸にしていることだけは間違いありません。

  2. 日本を守りたい:

    人に対する神の関与は すなわち恩恵は「根底的な受容と 超越的な肯定」である。人は既に、その恩恵に備えられ、その恩恵に浴している。
    人の 自己満足による 自己への つまり人生への 受容と肯定は 「条件を満たしたから」「理由があるから」に過ぎない。
    例えば、「私は美人だから」「金持ちだから」自分自身を 人生を 受け容れる事が出来る、肯定する事が出来る というわけである。
    だが、恩恵による自己受容と自己肯定は 真逆の事である。
    「私は美人ではない、金持ちでもない、自己を受け容れ 自己を肯定できる理由など何もない」
    だが、それなのに、それにもかかわらず、すなわち「理由など無いのに」
    自分自身を 人生を 受け容れる事が出来る、肯定する事が出来る。恩恵による「無条件の 無償の」「根底的な受容と 超越的な肯定」
    これこそは、人が 神によって存在を与えられている事、神と結ばれている事に 気づかされた境地である。
    「私は全く受容されてしまった。全く肯定されてしまった。」という感覚 通常の感覚を超えてはいるが、それでもなお、人に起きる「感覚」なのである。
    おそらく、日本の歴史において、親鸞は この「恩恵を受けた感覚」を最も鮮明に体現し表現した人物だったといえるであろう。
    「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」
     「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば ひとえに親鸞一人がためなりけり」

    宗教的真理とは何か。
     魔術や魔法へと堕落するのではない、
     ヒューマニスムに解消してしまうのでもない、
     本当の宗教的真理とは何か。
     それは、魔術や魔法の虚しさを明らかにし、
     魔法の富の対極である人の愛の貧しさにこそ真の恵みが込められている事を現す。
     ヒューマニスムを支える根底となり導く高みとなる。
     宗教的真理は、今を永遠に連なる今とし、人の地を天とする。

     人間には人間を超えた本当の救いが有るのか。
     この問いは常に壁であり、
     厚く、堅く、突破し難いものである。
     壁は厳として立ちはだかっているが、日本人は、宗教的真理を追求し尊重する民族である。
     力一杯 生きられる者なのである。拝。