政府は何を約束したか?

皇紀2670年(平成22年)4月22日

 小泉政権下に於いて、郵政民営化関連法案と同列に極めて強引な手法で施行が決められた障害者自立支援法を違憲とする集団訴訟は21日、東京地裁で終結しました。

 http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/100421/trl1004211224000-n1.htm

 ▲産經新聞:障害者自立支援法訴訟が終結

 これは、被告の政府が障害者の福祉サービス利用料の原則1割を自己負担とする「応益負担」を見直すと約束したことによる和解ですが、この議論の行方は、今や基軸がなく無責任に政策を打ち出す民主党中心政権となっているだけに、特に最後まで監視しなければいけません。

 何度でも申しますが、同法の提出に際して尾辻秀久厚生労働相(当時)の発した「郵政解散総選挙でこれも国民の信を得ている」という意味の言葉は、まったくもって勘違いもはなはだしく、決して忘れることができないのです。

 占領憲法第13条には「すべて国民は、個人として尊重される」とわざわざ書かれており、これが祖先(家族)や伝統(社会)から個人を引き剥がしていく仕掛けであることは、たびたびここで指摘してきました。占領憲法は「個人主義」をうたっているのです。

 ところが、先天性の障害を持つ人は最初から個人の自由が制限されているようなもので、後天的理由によって障害を抱える人もまた、その時点から個人の自由が制限されます。目や足の不自由な人が思うように走り回れないのは仕方がなく、とはいえ不自由の範囲で自由を謳歌、或いは不自由の枠を超えるような自由を得るべく努力する障害者がいることも事実でしょう。

 このような視点を持たない占領憲法に対して、「真正護憲論」を確立した南出喜久治辯護士は「健常者の傲慢」と指摘しました。いわゆる左派・人権派が障害者を抱え込んで政治活動をしているのは、まさにこの「健常者の傲慢(「かわいそう」という上から目線)」に立っており、障害者行政の根本を見据えてはいないように思います。

 彼ら(そうなる時が来れば私も)は健常者の支援を受けなければ生活できず、それをあくまで「おまえも個人」と指されて政府に負担をせまられれば、さぞ困惑したに違いありません。それが占領憲法と個人主義の正体であると知れば、護憲運動や妙な人権運動などしていられないはずなのです。

 そうこうしているうちに、健常者と障害者の意識差が広がり始めています。俗に言う障害者自立支援ビジネスに関わった方が「つくづく思い知った」と私に吐露されたのは、障害者側が支援を当然視しており、健常者側は自立目標の達成を最初から見誤っている、ということです。これでは一般に美しく思い描くほど、まったく成功しません。

 私は或る場で、敢えて車いすを使用されている方の目前でこの障害者自立支援法の問題に口火を切ったことがありましたが、その方はごく正直に「障害者が人から何を助けられても礼すら言わないからいけない」と語って下さいました。つまり、障害者も個人主義に染まり始めており、健常者の個人主義とぶつかりあった時の差は、もはやとてつもないのです。

 日本民族は今こそ、教育勅語に書かれた「億兆心を一にして」「朋友相信じ」「恭儉己を持し」「博愛衆に及ぼし」「公益を廣め」といった精神的支柱を確認すべきではないでしょうか。そこからしか障害者行政の在るべき姿を考えることはできないように思います。が、勅語は決して占領憲法の改正(改憲)では返ってこないのです。

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『政府は何を約束したか?』に3件のコメント

  1. ストリートマン:

    教育勅語を捨てた事で、全ての基本が潰れた事になりますね。つぎはぎだらけの教育・混乱する政治・道徳心を無くした民族が何処まで落ちるか?恐怖。

  2. matu:

    私達は日本人として、常に教育勅語にある精神的支柱を確認すること 大切ですね。 特に、今忘れ去られているのが、「恭儉己を持し」 であると思います。「人に対して うやうやしく、自分の行いは慎み深いこと」 恭しい ということ、慎み深い ということを理解する場を、巧みに奪われてきたと思います。占領憲法の個人主義や平等思想では、何も解決できないどころか、争い事が増えるだけです。日常に祭祀を取り戻さねばなりませんね。悠久の皇室=祭祀 の尊いことに思いをいたし、恭しく慎み深くなれるよう 学んでゆきたいと思います。

  3. Supermum:

    昨日,知り合いのイギリス系カナダ女性に先祖のお墓はどうしてるの?と聞きましたら、「あら、私は父親の墓がどこにあるかも知らないわ。」と言ってました。お母様の場合は彼女が良く歩いていた裏山に灰をまいたといってました。どうせ死んだら何もなくなるのよ、ということだそうです。