世界発信力のない日本政治

皇紀2670年(平成22年)4月6日

 一頃「米国にNOを言える日本」なんぞと流行りましたが、占領憲法を放置したままで言えるはずもなく、そもそも「NOを言える」というより国際会議の場で萎縮してしまう日本の戦後政治家たちの系譜は、脈々と鳩山内閣に受け継がれています。

 平沼赳夫元経産相を中心とした新党結成(元気はつらつとした党名になるでしょう)についても、日本のメディア各社は「古い」といったお決まりの言葉でしか論評できません。エドマンド・バークが提示した保守主義の基本哲学までは理解できたとしても、わが民族が保守すべきは何であるかについて誰も語れないものですから、平沼党首が語った「日本の伝統を守る」とどうなるのかすら解説できないのです。

 なぜ私たちや平沼代議士らが「尊皇」を語るかといえば、祖先から受け継いだ生命に感謝し、守られてきた自然に感謝するからに他なりません。それが「祭祀」であり、それを司る世界唯一の御存在が天皇陛下でおわすからです。

 先達て申し上げたジャン・ジャック=ルソーの「社会契約説」を根幹とする現代人権論では、無益な革命で生命を落とす者が現れ、個の存在によって無秩序と化すレッセフェールは人も自然も滅ぼしてしまいます。世界に向かって恒久平和を唱える理想の日本を形成、行動するには、私たちがわが民族の「祭祀」を語らねばならないのです。

 その言葉を取り戻すには「和歌を知れ」とでも申しておきましょう。

 和歌山市観光案内 玉津島神社

 和歌山県和歌山市には、住吉大社、北野天満宮と並ぶ和歌3神の1柱と崇められる玉津島神社が鎮座おわします。神亀元年に聖武天皇が和歌浦(わかのうら)に御行幸なされた際、同行した山部赤人はこう詠みました。

 わかのうらに しおみちくれば かたをなみ あしべをさして たづなきわたる

 この「かたをたみ(潟を無み)」は、近くの片男波海水浴場の名となり、夏には大変な賑わいを見せます。玉津島は、まさに「歌枕」の地であり、是非とも皆様にも訪ねていただきたいと思います。

 和歌の浦ネット 玉津島神社

 (画像はこちらから ※ちなみに、酒樽に書かれた「長久」「羅生門」は和歌山の地酒です)

 かつて和歌山市内に路面電車が走っていたころは訪ねるにも便利でしたが、現在でもJR和歌山駅または南海電鉄和歌山市駅からバスが出ており、雑賀衆で知られる「雑賀崎」行きに乗っていただきますと、「権現前」停留所から和歌浦天満宮と「紀州の日光」と呼ばれる紀州東照宮にも参拝でき、その先に「玉津島神社前」停留所がございます。

 何度でも申しますが、わが國を知るということは、非常に外向的な成果を生むのです。全世界への発信力を失い、何かとナメられる日本になって久しいのは、わが民族の言葉を見失った私たちの中からしか政治家は選ばれないからではありませんか。

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『世界発信力のない日本政治』に4件のコメント

  1. tom-h:

    まぁ、メンバーがおじいちゃんばっかりなので「古い」と言いたくなるのも分からなくもないですが、その「古い」の中にはきっと遠藤さんも言われるように、左翼かぶれしたマスコミの連中が保守を理解してないというのもあるでしょうね。

  2. souhei:

    去年のGWに紀伊半島沿いにバイクで新宮まで行きました。和歌山は日本の神話的世界観が日常に根付いてるなと体感してきましたよ。今年もGWに紀伊半島に行こうかどうか検討中です

  3. ストリートマン:

    日本が普通の発信をすれば世界には認められるのですが普通の事が言えないのです。神社お寺が同じ敷地に有る。こんなのも世界には無い、日本人の心の広さと鷹揚さが世界の奇跡に映る

  4. knnjapan:

     「神社お寺が同じ敷地に有る」のは、まさに祭祀が排他・排外ではないからです。「日本人の心の広さと鷹揚さ」は、祭祀王たる天皇陛下をいただき、わが民族が祭祀に生きてきたからこそ培われたものだと私は思います。よくぞご指摘下さいました。 宗教が祭祀を否定することはあっても、祭祀は宗教を否定しません。ゆえに、祭祀を否定する宗教(宗派)は危険なのです。