慰安婦賠償なんかしない!

皇紀2683年(令和5年)11月26日

ソウル高裁、日本政府に元慰安婦1人あたり2300万円支払い命令…資産差し押さえの可能性

【読売新聞】 【ソウル=小池和樹】韓国人元慰安婦ら計16人が日本政府を相手取り、損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が23日、ソウル高裁であった。原告の請求を却下した1審・ソウル中央地裁判決を取り消し、請求通りに…

(讀賣新聞社)

 さぞ皆さんもこの話にはうんざりされるでしょう。実のところ韓国でも、若者を中心に「まだ言っているのか」という声が上がり始めています。

 検察総長上がりの尹錫悦大統領(国民の力)の政権になっても、三権分立がまるで機能していない韓国で、司法がことほど左様に国際慣習法(主権免除)を全く無視した判決を下すなら「日韓関係の修復はない」と思われるかもしれませんが、この判決は、以前にも申したように青瓦台(旧大統領官邸)に入らなかった尹大統領が司法までもを掌握していないことを表しているのです。

 北韓(北朝鮮)工作員だった共に民主党の文在寅前大統領は、完全に三権分立を破壊し、日韓関係をも破壊すべく対日賠償請求の判決を乱発させるよう大法院(最高裁判所)判事経験もない金命洙春川地方法院長(当時)を大法院院長に充てました。

 しかし、その共に民主党の尹美香議員が「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連・旧挺対協)」代表時代の数多不正行為でさすがに有罪判決が下ると、かつて妓生だったかどうかも怪しい自称「元慰安婦」の李容洙活動家ごと韓国中の不信を買う羽目になったのです。

 文前大統領も尹議員も北韓の低級な工作員(極左活動家)でしたが、日米韓関係をこじらせることによる北韓と中共の利益を優先し、すなわち韓国の利益を損ねる活動に執心した事実が多くの韓国国民にバレました。

 特に若者が対日感情を変化させたのはこの時からで、文政権という「猛毒」が韓国の「反日病」を治癒に向かわせたとも申せます。今やソウル特別市や釜山広域市などは、いわゆる「日本的」に溢れており、かつて考えられなかったほど「日本語」が書かれた「日式」の食堂でないと「売れない」とまで言われるほどにまで、対日ヘイトスピーチ(憎悪差別扇動)の無意味に多くの人びとが気づき始めました。

 同時にわが国でも、やはり若者を中心にこれまでの日韓関係はともかく「韓国的」料理、音楽、美容といった分野を韓国人と共有し始め、日韓併合条約無効化以降七十年以上に及ぶいわば「忘恩」の対日ヘイトにここ十年ほどで醸成された「嫌韓」は、少しずつ押され始めています。

 それでも嫌韓の火が消えないのは、これまでや今回の判決のように北韓の工作が厳然とくすぶっているためで、莫大な資金と人員で中共が後押しするようになってからは、その執拗さも相まってとても油断なりません。

 文政権下で北韓の工作が施された青瓦台を捨て、古びた龍山区の国防部施設(当初)から施政を始めた尹大統領は、今回の判決が日韓請求権協定を反故にする(国交にも関わる)危険なもので、日韓関係をいたずらに破壊する暴挙にすぎないことを理解しています。わが国政府は、敢然とこれを拒否すればよいのです。

 既に「慰安婦」なるものの嘘もバレています。「徴用工」と自称する単なる朝鮮人(当時)労働者の虚言も酷いものです。これらは全て、北韓工作員の扇動によって「作られた嘘歴史」にすぎません。

 このような嘘歴史にまみれたこれまでの韓国、および「とりあえず何度もお詫び」してきたわが国は、それがそっくりそのまま日韓両国の「黒歴史」となり、消える時が必ず来ます。わが国政府が頭を下げ、何度でもカネを配ろうとするから日韓関係がこじれ続けてきたのです。

 もはや慰安婦などを否定することは、嫌韓ではありません。日韓関係の新しい未来を作るために、日韓の新世代が北韓と中共の汚らわしく狡猾なヘイトを撃退するのです。

 北韓の資金源でもあった統一教会(世界平和統一家庭連合)は、韓国での存立を目的として「反共」を掲げながら対日ヘイトをさんざん煽ってきました。安倍晋三元首相になってからこの嘘歴史に「NO」を突きつけ始め、最も困ったのは統一教会だったでしょう。

 私たちはもう決して、北韓と中共の思うつぼに嵌ってはならないのです。

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『慰安婦賠償なんかしない!』に2件のコメント

  1. 波那:

    カイカイ反応通信などを見ると嘘歴史、捏造された歴史を教えられて来た事から目覚めて来てる層は確かに少数居ますけど、日本が舐めさせられて来た長きに渡る屈辱、先人方を地に落とし貶められ海外にプロパガンダを撒き散らされ汚されて来た事を、そんな簡単に拭い去ることなど出来ません。それに嫌韓の主たる原因はネットに蔓延って朝から晩まで日本と日本人を口汚く罵り、皇室を侮辱する、外国人生活保護1200億円の内の800億円をヌクヌクしながら日本を蝕んでいるだけの特永の在日です。ナントカ市民の反日団体も仕切ってるのは、あの人達でしょう。クルド人に入れ知恵してのさばらせようとしてるのは朝鮮総連だそうです。とても共生するなど堪え難い反日異民族。次世代を担う若者達に同じ思いを引き継がせたくない、あの人達が居ない日本を託したいとつくづく思います。

  2. 日本を守りたい:

    養老孟司さんはなぜほかのどの宗教よりも、仏教に信頼を置くのか? 
    日本を代表する知性・養老さんの過去20年間に執筆したエッセイを選りすぐった新刊
    『 生きるとはどういうことか 』(筑摩書房)より

    私の人生観なんか、どうでもいいが、世間がシミュレーション全盛の方向に進んでいくときに、人生をどう送ればいいのか。その世界では私の人生はおそらくノイズであり、
    それならどれだけのノイズが許容される世界なのかが問題となる。

     そんなことを考えていると、それも一種のシミュレーションじゃないかと思い、面倒くさいなあ、AIに考えてもらいたい、と思ったりする。やっぱり話はいまではAIに尽きるのである。

    日本の若者の死因のトップは「自殺」
    「人生論」などというヘンな主題になったのは、NHKの仕事がらみで、子どもの質問に答えるというのを引き受けたからで、十歳の小学生が「良い人生とは」という質問をしてきたのである。

     もう一つは十代から三十代までの日本の若者の死因のトップが自殺だと知ったからである。
    人生ではなくて、「生き方」の問題だろうと、とりあえず回答したが、「生き方」の指南は
    私の仕事ではない。古来から宗教家の仕事に決まっている。宗教は衰退しているといわれるが、
    AIが宗教に変わったという意見もある。未来をもっぱらAIに託すからであろう。
    AIは碁将棋に勝つだけではない。なんにでも勝つのである。

     自殺が多いのは、人生指南のニーズが高いであろうことを示唆している。日本でいうなら、
    コンビニより多いとされるお寺の前途は洋々である。若者が死にたがる理由は複雑であろう。
    とりあえず打つ手は思いつかない。(養老 孟司/Webオリジナル(外部転載))

     以上は引用。これを紹介させて頂く理由は、「二つの驚き」です。ひとつは 日本の若者の死因のトップが自殺 だという事。そこまで酷い日本の現状を 私は知らなかったのです。

    そしてもうひとつは、「若者が死にたがる理由は複雑であろう。とりあえず打つ手は思いつかない。」という述懐。養老 孟司という人物について私は無知。「日本を代表する知性」という、出版社の宣伝文句の是非はともかく、彼自身は「死にたい」と強く思う事が無い 無かった人生なのだろう。だから、「打つ手は思いつかない」のだろう。「とりあえず」ではあるまい。

    自殺を思うまでに苦しんでいる者に対して「人生指南」だと? それは無用であるのみならず、
    苦しむ者の重荷を増して 更に追い詰める事に成る。

    人生は「誰かの言うとおりにすれば良い」ものではない。そんな軽薄なものではないのだ。
    力いっぱい生きたい その思いが腹の底から湧き上がる そして困難に立ち向かう事が出来るようになる そういう時が来るまで 苦しんで苦しんで 苦しみぬく それが可能になるのは、
    ヒューマニズムすなわち人の理性と意志によって ではない。自力によって ではない。
    宗教的真理によってである。神と結ばれているからである。神からの恩恵によって支えられ導かれて である。神によって願われ、求められ、愛されているからである。

    「お寺の前途は洋々である」だと? それならば とっくの昔に、若者たちは津々浦々に在るお寺の和尚さんたちによって、自殺から救われているはずだが・・・。

     宗教的真理は、必ず人に喜びをもたらす。

    釈尊が書き残したと推定されるものは 何一つ発見されていないようだが、
    最古の経典には 晩年の釈尊が愛弟子アーナンダに
    「この世界は美しいものだし、人の生は 甘美なものである」と語ったとある。
    釈尊の言葉の中で、私はこれが最も好きだし、これだけで充分だと思っている。

    次に 正岡子規の言葉。
    子規が死の2日前まで書いていた随筆
     「病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)」から 以下に引用します。

     「病床六尺、これが我世界である。
     しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。
     わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、
     蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。
     はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。
     苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて
     少しの安楽を貪るはかなさ、・・・」(1902年 五月五日)

     「余は今まで、禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。
     悟りという事は、いかなる場合にも平気で死ぬる事かと 思っていたのは間違いで、
     いかなる場合にも平気で生きる事であった」(六月二日)

    以前に書かせて頂いた事を もう一度 書きます。

    人は、既に、大切なものと結ばれているのです。
     それは 如何なる悲惨な運命によっても 絶たれる事の無いものなのです。

     人の宝 すなわち尊厳と喜びは 人の内部に在るのです。
     その泉は涸れる事が無く 常に新たに湧き上がるのです。

     若い人たちは いろんな困難にぶつかり 悩みもするでしょうが、
     恐れる必要は無いのです。大切なものと結ばれているのですから。
     この事を心に留めていてくださいね。拝。