殺人→無罪のその後の責任

皇紀2683年(令和5年)10月14日

【極論提言】
 昨日記事で触れた神戸五人殺傷事件(うち三人を殺害)ですが、予告通りもう少し司法権力に対して言わねばならないことがあります。

 刑法第三十九条が適用されるほどの心神耗弱と、されない程度の心神喪失は、精神鑑定によって見分けられるとする鑑定医たちの証言自体を前提としても、まず加害責任を「無」とすることによる被害者ご家族の精神的苦痛は、それこそ心神耗弱を誘発するものであり、立法権力(国会)が直ちにこれを改正しなければなりません。

 その上で、現行法に基づく神戸地方裁判所(飯島健太郎裁判長)、並びに大阪高等裁判所(坪井祐子裁判長)の判決に於いて、竹島叶実被告を無罪とした根拠が極めて深刻な心神耗弱の証明であったことは、すなわち被告にあらゆる刑罰を与えても全く意味をなさないほどであるというのを、一旦認めるとしましょう。

 竹島被告が人を「哲学的ゾンビ(屍)」と認識していたという弁護側の言葉を借りれば、まさに竹島被告こそそれです。屍は人権を喪失していますから、それが人を襲い、三人も殺害した場合、鳥獣保護管理法(鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律)に基づいて駆除しなければなりません。

 逆説的にこれほどまでの心神耗弱が認められるなら、被告が「人でない」状態を認定し、刑法に基づく死刑ではなく鳥獣保護管理法に基づく駆除(殺処分)を言い渡すべきなのです。ただし、法が規定する害獣に「人でなくなった哲学的ゾンビ」というのは、現行法に記載されていませんから、これも改正しなければいけません。

 これは、とんでもない極論です。人権活動家(左翼・極左)が一斉に噛みついてきそうなことを敢えて申しましたが、長野県佐久市で当時中学三年生の和田樹生さんを車でひき逃げした池田忠正被告を東京高等裁判所(田村政喜裁判長)が無罪とした判決文の「そんな理屈が通るなら判決なんて何とでもなるわ」と叫びたくなる例といい、司法権力による「法のこねくり回し」こそ許せません。

 池田被告が飲酒運転の発覚を恐れ、和田さんを轢いてから口臭防止剤を買いに走った行為を「ひき逃げ」とは言わないという田村裁判長の判決文は、例えば「左翼活動家は無罪、保守系活動家は有罪」といった司法権力の暴力行為を正正堂堂認めるような代物でした。いくらでも被告によって使い分けられる、という。

 以前から申していますように司法に対する国民的信用失墜が断続して発生した場合、必ずその国は崩壊へと向かいます。立法や行政の腐敗はともかく、司法が法の運用に於ける最も重要な公正を失ったと多くの国民が判断してしまった場合、次第に治安(道徳や倫理を含む)が崩壊を始めるからです。

 昨今の司法判決があまりにも酷いことは、ここで逐次裁判長(判決の責任者)名を明記して取り上げる、と申しますより記録していますが、被害者ならびに被害者ご家族の処罰感情を一切代弁せず、大いに私たち国民の不信をかっています。自分にもしものことがあっても、司法のくせに公正に裁いてはくれないのだ、という強烈な不信感です。

「ハマス」によるイスラエルへのテロ攻撃に激震…アメリカが厳しく非難する中、岸田が放った「救いがたい」一言(長谷川 幸洋) @gendai_biz

イスラム原理主義組織ハマスによるイスラエルに対するテロ攻撃は、中東の安定を揺るがしただけでなく、米欧のウクライナ支援、さらには台湾有事への対応も変えてしまいそうだ。欧米のテロ非難に加わらなかった岸田文雄政権は、最初から対応を間違った。…

(現代ビジネス|講談社)

 最後に一つ。これも極端に申せば、この記事による限り岸田文雄首相は、それほど愚かな声明を発さなかった、ということになりましょうか。

 保守派の多くが親イスラエルなのは理解していますが、今回ばかりは、多くの人びとがパレスチナの身を切られるような苦痛を知っていたため、直ちに「イスラエル支持」とはならないようで、少なからずほっとしました。

 イスラエル軍は、シリアのダマスカスなども攻撃し始めていますが、むしろわが国政府としてイスラエルに対して「直ちに攻撃をやめよ」と(パレスチナ側にもですが)警告すべきです。人を閉じ込めておいて、勝手に「生きたかったら南へ移動しろ」などと吐き捨てるようなイスラエルがまともなわけがありません。

 もう一度申しますが、人が人を殺して「無罪」というのを認めてはならないのです。

スポンサードリンク

『殺人→無罪のその後の責任』に4件のコメント

  1. 日本を守りたい:

    「宮崎正弘の国際情勢解題」令和五年(2023)10月14日(土曜日)
     日本の在留外国人は322万3858人
      嘗てなかった迅速さで日本文化が壊れている
    タッカー・カールソンは、不法移民問題は『戦争だ』とコメントし、この深刻な問題に斬り込んだ(2023年10月13日、タッカーの番組)。
    「不法移民によって、米国は急速に変化している。それも民主的な手段によるものではない」
     移民による治安悪化は米国に限らず、ドイツ、フランス、英国で顕著だ。ところが極左のジャック・アタリは「日本も移民を増やすべきだ。でないと日本は滅びる」などと愚の骨頂を説いている。ま、グローバリストの窮極の狙いは国家破壊だから、極左は移民政策を強硬に進めるのだ。

     2023年10月13日に出入国在留管理庁が発表した在留外国人は322万3858人だった(六月末統計速報)。22年末から4・8%の増加ぶりを示した。なおこの数字は三ヶ月以内の短期在留と帰化人を含まない。

    カールソンは、国家の基本的性質に対しての重大な悪影響を主張し、「国家の性格(コアパーソナリティ)の形成と国家としての成功は、人口によって形成される。ところが、歯止めのない人口動態激変は大混乱を招く懸念が大きい」とした。「ところがバイデン政権の政策によって、大量移民が惹起され、にもかかわらずこの劇的な変化に目をつぶってきた。その結果、過去 36 か月に発生した大量移民危機は、数字でも歴史の記録を更新した。あまつさえFBIのテロ監視リストに載っている移民の逮捕者数は記録的な数字となった」

    EU議会のタルチンスキーは、「不法移民がゼロであることは、テロ攻撃がゼロであることと同じです。ヨーロッパで最も安全な場所は(移民を受け入れない)ポーランドです。」

    この安直な移民受けいれという深甚な問題、明日の日本の問題であり、ただちに移民制限政策に切り替える必要がある。政府は移民を増やすなどと場当たり的な寝言から目を覚ませ!

     以上は引用。「場当たり的な寝言」ではなく、確信犯による犯罪であると私は言う。
    日本は国会も政府も 反日勢力によって侵食されて、ひたすら反日政策の立案と実行に邁進しているのだ。既に議論の段階ではなく、日本人は 戦わなければ滅ぼされて行くと覚悟すべし。

  2. みどりこ:

    >責任能力という考え方は、
    死刑判決に相当する犯罪を起こしたものを、
    合法的に助けることができる制度を
    何者かが考え出したものでは

    「彼方のブログ」のブログ主さまから同事件記事のコメントに対し、以上のようなお返事を頂き、なるほどと思った次第です。

    http://otto-kanata.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-4c8a54.html

  3. アンチレッド:

    刑事責任能力については「自認」にするのが簡明ではないかと思います。
    例えば、「一時的な妄想によって犯罪行為を行った場合でも、刑事罰を受けます」
    などのような刑事責任同意書にサインしなければ社会参加できないようにする、といった感じです。
    法治社会においては、刑事責任能力がない人間が社会参加できないのは当然でしょう。
    「脳死状態になったら臓器提供に同意します」というドナーカードと類似のものとも言えます。
    「哲学的ゾンビ(屍)」などという妄想は「社会的脳死状態」とでも言えますから。
    この刑事責任同意書は日本に入国する外国人にも当然適用されるべきものです。
    外国人の場合は特に「日本語による取り調べ・裁判に同意すること」も必要でしょう。
    日本語が分からないから刑事責任を逃れるなどということが許されていいはずがありません。
    刑事責任同意書にサインすることは、国民の立法・司法への関心が高まる効果も期待できます。

    「そんな理屈が通るなら判決なんて何とでもなるわ」=裁判官による私刑(リンチ)でしょう。
    裁判が司法権力者による「私刑(リンチ)の場」になっていることに気づいたのは「大量懲戒請求裁判」です。
    実質的に被害がない(日弁連が懲戒請求として受理することを認めていない)にもかかわらず、損害賠償額が億単位になるとか、ありえない状況です。

  4. 日本を守りたい:

    「花を摘んだり、歌を歌ったりして暮らしなさい。車 寅次郎」

      映画「男はつらいよ 第13作~寅次郎恋やつれ」から ひとつの場面のご紹介。

     寅次郎が恋する女性 歌子は、若くして未亡人となり、
     一人で生きて行く道を定めようとして 迷っていました。
     望む仕事はあるけれど、重荷に過ぎるかもしれない。自分にも出来る仕事を選ぶべきか。
      「どうしたら良いかしら、寅さん? 」

     寅次郎は歌子に言いました。
      「仕事なんかやめて、花を摘んだり 歌を歌ったりして暮らしなさい」と。

     その言葉を聞いて 寅次郎の妹の さくらは「バカねえ。」
     さくらの夫 ひろしも「ハハハ」と笑ってしまいました。

     仕事 労働 それは尊い事と言って良いでしょう。
     もとより、生活費を得るために 人は働かねばなりません。
     そして、「働き者は良い人 怠け者は悪い人」これが すっかり世間に定着した 
     人を評価する尺度なのであります。

     しかし、ゲンちゃんは 寅次郎の言葉に敬服しました。

     花を摘んだり 歌を歌ったりする事は、仕事 労働と同じくらいに大切な事だと 
     ゲンちゃんには思われるからです。
     その大切さを知らずにいたら、仕事 労働のために人は消耗するばかりで、
     人生が与えてくれる喜びから遠ざかる事になると。
     そして人が 仕事 労働の日々に囚われ、押し潰されてしまう事にならないために、
     花を摘んだり歌を歌ったりする事の喜びを
     おろそかにしないで欲しいと ゲンちゃんは思うのです。

     小説家 椎名麟三は 「復活のイエスキリストによって救われた」と告白しました。
     「キリストは私に告げたのだ。生きてくれ、もっと十分に生きてくれ! 
      おまえはそのように生きる事が出来るようにされているのだから。
      貧乏くさい生き方ではなく、きょう1日の苦労がきょう1日で十分であるような
      ほんとうの生き方が出来るようにされているのだから、と。
      こうしてキリストは、私の絶望して拒否していた人間性を私に与えてくれた。
      その時私は生き始めたのである。」

     椎名麟三が亡くなり、その告別式で 大江健三郎氏が述べた弔辞の一節を引用します。

     「椎名麟三さん、日ましに私どもにあなたの励ましの光が必要となるでしょう。
      私どもはあなたを記憶し続けぬわけにはゆかず、あなたの『ほんとうの自由の光』
      『ほんとうの救いの光』へ向けて眼をあげ続けぬわけにはゆかぬでしょう。
      私ども無信仰の者にとっても あなたはいつまでも私どもと共にあります。」
                                      (引用終わり)

     「…私ども無信仰の者にとっても…」と ことさら言うからには、
     大江健三郎氏にとっては、信仰とは何かしら特別な事なのでしょう。しかし、
     ゲンちゃんは 信仰とは決して特別な事ではないと 言わねばなりません。
     椎名麟三も ゲンちゃんと同様、信仰とは決して特別な事ではないと 言うだろうと 
     ゲンちゃんは思います。信仰者 無信仰者という区別に 何の重要性も有りはしないと。

     もしも 信仰が特別な事であるのなら、ゲンちゃんには信仰は有りません。
     特別な事とは、特別な力 つまりは魔法の力という事です。
     人が魔法の力を望むのなら、お金に頼るべきです。お金は権力ともなりますから、
     お金には何でも出来るし、それを正義だと宣伝する事も出来る。人を支配する魔力。
     この魔力の支配を 逃れ得る者は居ません。人は魔法の世界を望むからです。
     何でも思い通りに出来る世界を。その世界に君臨する者は王様 
     そして王様が御加護を御願いする相手が神様。
     魔法の世界こそが 人にとって最高の世界であり、せめて死後は 王様のようになりたい 
     そのためには 人が決して疑ってはならない神。人を支配する神。
     信仰とは 人が神に連なる者となるための魔法の力。

     しかし、ゲンちゃんにとって、信仰は 魔法の力とは対極の事です。

     人の 人自身の望みに優る事が 人に既に起きている そんな事件を 
     人が受け止める事は 人の感覚にも理性にも 超越の事でしかありません。
     ゲンちゃんは以前のメルマガで

     人は花を見る事で 感覚も理性も「超えられる」「超えられてしまう」という経験をするのだ。

      と書きました。人には花は見えるけれど、神は見えません。
     神は人の感覚も理性も及ばない 人を超えている者だからです。

     しかし、人は神に対して 決して無感覚でも無理性でもありません。
     人は神を受ける事が出来るのです。

     寅次郎の言葉。「お天道様は 見ているぜ」

     寅次郎にとって お天道様は 神仏の如きもの 神仏を象徴するもの 偶像なのであります。

     ゲンちゃんは 偶像を否定すべきだとは思いません。
     偶像崇拝によって人格を すなわち自由を 失ってしまう事にならない限り。
     人は偶像に神性を見る 偶像は与えられている神性によって立つ者であり、神性を失えば倒れる 
     偶像が倒れる時には 人も倒れる もはや自力では立ち上がれぬ人にこそ 
     全てを失ったと感じている人にこそ 偶像ではなく神が 
     生の最初の力を 生の最初の時を 恩恵の始まりを もう一度 経験させるのであります。

     信仰とは、自分自身を 根底から受け容れる態度であります。
     特定の宗教を信じる事よりもずっとずっと根源的な 生への姿勢であります。

     人は 特定の宗教の神に出会う以前に 神に出会っています。
     人は まず神に出会ってから 他の物と この世界と 出会うのです。
     もしそうでないならば、人は 一切の物に対して この世界の全てに対して 
     出会いを深める事無く 互いに引き止め合う事無く 過ぎ去るだけであります。
     自分自身に対しても そうなるでありましょう。
     自分自身を 根底的に受け容れる態度などは無用の事となるでしょう。
     人は 人だけが この世界に対しても 自分自身に対しても 
     根底的な肯定を与え得るか否か を問われています。
     自由だからであります。神を受けているからであります。愛が望むからであります。

     そして人は 神を受けるべき理由が有るから神を受けているのではありません。
     愛されるべき理由が有るから愛されるのではありません。
     理由が無いにもかかわらず、神を受け、愛されているのです。
     愛の本質は 無償である事 そして 
     神に 愛に 反する者 背く者であるにもかかわらず、愛されているのです。
     これを知る事が 人の 救い なのであります。既に十全に受容されているからこそ、
     それに気づかされて 人は自分自身を 根底から受け容れる事が 出来るようになるのであります。

     椎名麟三の場合。
     「私は無意味からの脱出を求めて、その数多くの試みを作品化しているが、
     それは私の挫折の記録でもある。私のそれらの作品が、私に意地悪くたずねるのだ。
     すべてが無意味であるとしたら、何ゆえ生きているのだ、
     作家としての誠実を持っているとしたら、死ぬのが当然ではないか、と。
     この問いは私を全く追い詰めてしまった。新宿の飲み屋で毎晩飲んだくれた。
     その頃、太宰治の情死事件があって間も無かったので、
     今度自殺するのは椎名麟三だろうと、多くの作家や批評家から期待された。
     おそらく私の生涯で、こんなにも期待された事は無かっただろう。・・・」

     無意味さを生きる事が そのままで 意味有る生となるという逆転、いえ、
     無意味さをも意味をも超えて、生きる事への全的な肯定を 
     復活のイエスキリストから与えられてしまった椎名麟三という男。
     しかしゲンちゃんはやはり言わねばなりません。それは特別な事ではないと。
     椎名麟三は人生に意味を求めました。人生を愛そうとしました。
     しかしそれは、人生が彼に意味を求めたからであり、人生が彼に愛を求めたからなのです。

     (もし 答えに出会っていないならば、人は真剣に問い続ける事が出来ません。
      答えが人に迫る真剣さが、人を真剣に問わせるのであります。
      もし人が 神を受けていないならば 神を求めはしません。
      神無き世界の不幸からの逃避のためならば、
      神以外の物が人を捉えて人を支配するだけです。)

     既に彼は 意味と出会い、愛を得ていました。だから死にたくなるほど苦しかったのです。
     出会っているのに、得ているのに、引き離された花婿と花嫁のように、
     本当に結ばれる事が出来なかったのであります。
     それが何故なのかを ゲンちゃんは言い得ません。どうしても言うなら、
     愛は必ず妨げを受けて 妨げを克服しなければ成就しないのだと言うしかありません。
     意味といい 愛といい 人生が既に内包している答えによって、
     彼が 生きる事への全的な肯定に到達した事は、
     彼が特別な人だったからでもなく 特別な事が起きたからでもありません。
     
     神は その不在によってこそ 人に内的に関与するのだと 
     ゲンちゃんには信じられるのであります。
     人の眼には見えぬからこそ、人の内部に関与するのだと。なので、
     五木寛之氏が 親鸞に語らせた言葉
     「しかし、目に見えないものを信じるということは、まことにむずかしい。」を目にして、
     ええっ、そんな、おやおや と がっかりしたのです。
     人は目に見えないものを信じる必要など無いのです。
     目に見えるものが 見えないものを象徴するその時に 
     見えるものをもう一度しっかりと見る事こそ必要なのです。
     見えるものが持っている 見えなかった深みが 開かれるその時に。
     その出会いは幸いと喜びをもたらします。信仰が息づいたのであります。

     椎名麟三は証言しています。
     「キリストを信じている今もなお救われていない自分を知っている、にもかかわらず、
      人間はキリストにおいて救われてあるのだ。
      キリストを信じない人でさえ、実はキリストにおいて救われてあるのだ。」
     彼は 彼を救ってくれた復活のイエスキリストを通して 
     人を救う普遍的な力を その源泉を信じているのです。信じられるのです。
     だから、救われたのは彼という個人すなわち個にとどまらず、
     普遍に 全ての人が 「キリストを信じない人でさえ、救われてあるのだ」と言うのです。
     聖書の中のキリストによって彼を救った力は 全ての人に降り注いでいるのだと 
     彼には思われるのです。キリストも キリスト教という宗教も 特別な事ではありません。
     特別な事であるならば、特別な人に 奇蹟をもたらすのでしょう。でも、そうではないのです。

     「1日の苦労は きょう1日で充分である」 
     この言葉を その意味を 人は野の草花と共有する事が出来ます。
     草花が無言で人に語ってくれている と言うほうが正確かもしれません。
     草花は 種の落ちた場所 其処がどんなに不都合な場所であっても 
     其処でしか 生きて行けません。
     苦難にもひたすら耐えて根を張り 葉を伸ばし ついに花を咲かせて 全身で喜んでいます。
     「1日の苦労は きょう1日で充分である」と
     人よりも良く知っているのです。そうに違いないと ゲンちゃんには思われます。

     人にとって、花を見る事も 言葉を知る事も
     同時に 花によって見られる事であり 言葉によって知られる事となるのであります。
     ゲンちゃんがいつも言う「宗教的真理」とは、
     人を人にしてくれている根源的な力なのであります。
     人はいつも そのような力によって 見られ 知られ 触れられているのであります。
     それが確かになる時 喜びが湧き上がります。
     人が人生から逃避するための手段としての快楽は 
     空想を糧として肥大し やがて幻滅に終わります。
     しかし喜びは ただ現実の深みだけから湧き上がって来て 人から去らないのであります。
     人の現実は 空想や夢想や願望よりもずっと豊かなのであります。
     どこまでも深いのであります。
     経験し尽くせない喜びを 人に与えようとしているのであります。
     そして 現実の根底にこそ、宗教的真理が生きているのです。
     それは超越でありながら 根底でもあるのです。

     生は 死を否定したり打ち消したりはせず、死を担い、死を内包しています。
     死は生の要件となり、生は死を憩わせるのです。
     死は 永遠性の関与を受ける事が出来ません。
     生が永遠性の関与を受けて 死を憩わせるのであります。
     それによって、生が生それ自身に 全的な肯定と受容を成就するのであります。
     生が 死を 許容するのであります。

     ここで再び 椎名麟三の言葉。「安心して、じたばたして死ねる。」

     長い間 椎名麟三に迫り続けていた神は 椎名麟三にとって 死を超える友となりました。
     椎名麟三は、神によって全的に受容されている事が信じられるようになりました。
     しかし、やはりゲンちゃんは言うのです。「特別な事ではありません」と。
     人の生は (全ての人は) 神による全的な受容から始まっているからであります。拝。