中国の迷惑と日本のデフレ

皇紀2683年(令和5年)9月18日

「迷惑電話の報復か」中国人観光客が日本人の“塩対応”に困惑…処理水問題とは別の根深い理由

日本には、中国にはない「おもてなし」がある――サービスの質の高さに期待して訪日する中国人訪日客は少なくないが、最近は旅行中に遭遇する“塩対応”にショックを受けているという。そこにあるのは、日本全体にしみ込んでしまった“中国嫌い”だけではなかった。ポストコロナの接客最前線を追った。…

(ダイヤモンド社)

 これほど頓珍漢なことを平気で書く経済誌があってよいのか、というダイヤモンド社の配信記事です。全く別の二つの問題を、さも関連があるように見せかけて書いています。

 それはまず、東京電力福島第一原子力発電所の「処理水」をめぐる中共・共産党の非科学的、且つ不当な対日攻撃に狂わされた一部の中共人によるヘイトクライム(憎悪扇動犯罪)の問題と、第二に、三十年以上にも及ぶわが国のデフレーション(給与・物価下落)が目下、最悪のスタグフレーション(給与下落のまま物価上昇)を招き、就労環境が劣悪化している問題です。この二つの問題は、まるで別の話なのです。

 しかしながらこの書き手は、どうしても典型的対日ヘイトで記事を構成したかったのか、私たち国民によるいわゆる「おもてなし」が中共人観光客に対してだけなくなったように書き、その原因が受け入れる私たち側にあって、欧米と比較し「日本はこうあれ」と締めくくっています。もはや「阿呆か」と言いたい。

 そもそも「サーヴィス」は、無料ではありません。むしろわが国以外の国ぐにでは、それなりの料金を支払わなければ「おもてなし」を受けられないのが分かりやすいほど当たり前です。

 私たち国民の間にもそれにまつわる問題があり、おもてなしを「受けて当たり前」と思っている人びとが過剰な「お客様は神様」思考に縛られ、時として顧客暴力(カスタマー・ハラスメント)を招いてしまいます。そのような思考は、捨て去るべきです。

 そうではなく、私たち日本人の「思いやり」をこそ再認識すれば、例えば店員も客も互いの立場を気遣い、理不尽な顧客暴力を締め出すことができるでしょう。くだらない「持続可能なナンチャラ」なんぞを謳っている暇があるなら、こうした国民的意識向上を唱えるべきです。

 さもなければ、サーヴィス業の求人を募集してもなかなか応募がありません。安い時給で嫌な思いをさせられることが確定していれば、誰もやりたがらないものです。それを「我慢が足りない」などという精神論で乗り切ろうというのは、あまりにも現下わが国の経済状態をご存じなさすぎるでしょう。

 体力のある企業が破格の時給で従業員を募集すると、途端に自治体職員が飛んできて「やめてください」というようなわが国は、デフレマインドで調整する悪癖が板についた労働力搾取国家へと既に転落しているのです。自民党が「移民受け入れ」しか言わなくなったのもこのせいです。

 中共人に限らずすべての国ぐにからの観光客が「日本のサーヴィスが劣化し始めている」と感じているならば、それは武漢ウイルス(新型コロナウイルス)狂乱扇動以前のわが国があまりに客への気遣いがよくできていたからで、かえってそれが「過剰だった」「気味が悪いほどだった」と言う欧州人もいます。

 高次元のおもてなしに疲れた私たち日本人の最大の問題は、物価に対して給与が上がらない、少なくとも手取り収入がどんどん目減りしていることです。経済誌なら、純然とこの問題に立ち向かうべきであり、中共人の対日ヘイトと絡めて私たちが悪いように書くとは莫迦莫迦しく、開いた口が塞がりません。

 消費税法そのものを刺せ! 社会保険料等の徴収強化を刺せ! 財務省らがどうしてこうなったか、日米問題から国際金融資本の闇、現行憲法(占領憲法)の問題まで語ってみろ、と言うのです。私はこれからも、諦めずに訴え続けます。

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『中国の迷惑と日本のデフレ』に2件のコメント

  1. 日本を守りたい:

    「真の対話」

      真の対話によって 人は その人自身の 内部が開かれるのを感知する。
     真の対話の 彼を呼び 彼に語る声は 彼の内部から来るのだから。
     この世界の向こう 彼岸からのように 遠く 
     同時に 彼自身の内部 彼自身の根底のように 知らなかった近くから
     慕わしい闇の奥から 魅了する沈黙の深みから
     ただ彼だけのために 彼だけを目的として その声は 来る。

     彼は驚き 喜んで その声に応える。

     あなたは 私を目的としているのだと 私は 感じる。 
     だが、何故 そうなのか。
     私以外の者が 何故 私を目的とするのか。あなたは 何なのか。

     私にとって あなたは あたかも母の中の母 父の中の父ででもあるかのようだ。
     おそらくは 今だけでなく いつまでも あなたは 謎のままである。
     そして この謎は 私に与えられる喜びの その源泉に行き着く唯一つの道程のようだ。
     この予感は いずれ 確信となるだろうと 私には思われる。
     もはや私は あなたから離れ難いと感じているのだから。
     あなたもまた、私から去らないであろう。そうとしか思われないのだ。
     真実と言い得るものが在るとすれば 私とあなたとの この事だけである。
     もはや私の中に あなたが居る そして あなたの中に 私が居る。この事だけである。   

     人は この世界に在りながら この世界を超えている者との対話を 経験します。
     それが 人にとっての 宗教性の根源的な経験なのです。
     その宗教性から あらゆる文化の萌芽が形成されます。
     そしてそれは どこまでも 高まり また深まって
     如何なる苦悩と悲惨にも優る喜びを 人にもたらしてくれるのです。
     人が人である事の その受けている恩恵の 止む事の無い働きによって。
     そして人は その喜びを与えてくれる恩恵に 自身を捧げる。
     喜びが 人を真の労働へと向かわせるのです。もはや手段ではない労働 愛の働きへと。

     人は既に 最も大切なもの、いえ、唯一つの 大切なものを 内部に有するのです。
     人の宝は 既に人の内部に 在るのです。唯一つの大切なものと 結ばれているのです。
     その事に気付かされた時から 人は 人を苦しめるあらゆる束縛から解放されます。
     束縛とそれによる緊張を受けつつも、それにもかかわらず、「本当に生きる」事が出来る。
     「本当の自由」を生きるのです。今 私が言い得るのは ここまでです。

     どうかモーツァルトの最後の交響曲第41番「ジュピター」その最終楽章をお聴き下さい。

      https://www.youtube.com/watch?v=prvBEXbnDR0

     森有正が日記に書いた わずか一行の モーツァルトへの評価。賛辞。
     「モーツァルトの音は 古びない。」
     これは 幾百の凡庸な批評に一線を画す 最高のモーツァルト評であると 私は思う。

     「冬の旅」を書いた天才シューベルトは 死の苦しみに導かれて 神の前に進み出た。
     そして遂に 神の前で 倒れた。 
     それこそは 人の限界である。誰が 神の前で 立って居られるだろうか。
     だが モーツァルトは 神の前で立ち そして 神と共に戦う者と成った。
     ただただ 畏怖する他は無い事である。
     それをゲンちゃんに感得させたのは モーツァルトの最後の交響曲の最終楽章。
     モーツァルトは 神に愛されている事を確信していたに違い無いと 
     ゲンちゃんには思われる。
     その確信が無ければ、真の勇気 生きる事への真の勇気を有する人には成り得ないのだから。
     死を超えるという経験こそが、モーツァルトに最後の交響曲を書かせたのだと 
     私には思われるのです。

     モーツァルトの最後の交響曲について ウィキペディアには 次のように書かれている。

     (引用始まり)「モーツァルトを崇敬していた リヒャルト・シュトラウスは、若い頃
     『ジュピター交響曲は私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。
     終曲のフーガを聞いたとき、私は天に居るかの思いがした』
     と賛辞しており、1926年に自身の指揮で録音も行なっている。」(引用終り)

     リヒャルト・シュトラウスが終曲のフーガを聞いて感じた天国を 私も感じる。
     それは 神の終り無き戦いに 人の魂が震撼する天国なのである。
     それこそは 永遠の眠り やすらぎに優る 永遠の覚醒と言うべきである。
     神を経験する事なのである。

     その神は クリスチャンの神ではなかった。
     モーツァルトは 死に臨んで 教会に属する聖職者による儀式を拒否した。
     神は 死に臨むモーツァルトの内部に居た。
     そして神の内部に モーツァルトが居たのである。

  2. 日本を守りたい:

    「ゲンちゃん」は、私が以前 発刊していたメルマガ中の 私のペンネームです。
    宗教哲学による「喜びを語ること」を目的として書いていました。
    まぐまぐ社が どうやら反日勢力のようなので、今では発刊を止めています。
    こちらでお許しが得られるなら、時々、書かせて頂きたく存じます。拝。