「お母さん」が差別用語?

皇紀2678年(平成30年)4月8日

千葉市 職員や教職員向けのLGBT対応指針策定 | NHKニュース

千葉市は、LGBTの人たちへの差別をなくそうと、性別を決めつけるような言動を避けることなどを盛り込んだ、職員や教職員向け…

(NHKニュース)

 大阪地方検察庁特別捜査部の山本真千子部長の前職が「法務省人権擁護局総務課長」だったことは、昨日記事で申しましたが、例えば警察の不断の努力もあって刑法犯の検挙数が毎年減り続けているにもかかわらず、私たち国民の多くがわが国の将来に不安を抱いています。

 その原因の一つは、人口減少と経済規模の萎縮以外に、言論空間の萎縮が挙げられるはずです。あれをいってはいけない、これもいってはいけないといった具合に、報道権力の自主規制が市井の暮らしの空間にまで及び、行政権力がさらに国民の口をふさごうとします。

 千葉市の取り組みは、昨年発表された「九都県市でLGBT配慮促進キャンペーンを実施します」以前に「LGBTの職員に「結婚休暇」など導入 全国自治体初」といった報道からも、極めて積極的なものだと分かります。

 私は、LGBTに対する理解を昨年十月三十一日記事で改めて明確に示しました。そのコメント欄に、同性愛者だという方から「LGBT(この言葉自体に個人的には拒否感があります)は同性愛でも圧倒的な少数派のレズビアンを頭に持ってきていると言う事は、かつてのウーマンリブ運動崩れの連中が、新たな差別を盾にした”飯の種”に利用しているとしか思えない」というご意見を賜り、それまで知らなかったことに気づきました。

 いわゆる「ノイジー・マイノリティ(やかましい少数派)」が言論空間の萎縮を促進し、言論や表現の自由を訴えながらその自由を徹底的に多くの人びとから奪っていくのです。これが権利闘争の正体であり、数多ある市民団体や支援団体を自称する連中の運動こそが人の暮らしにくさ、生きにくさを生み落としていきます。

 私はこれまで、このノイジー・マイノリティの対義語である「ポリティカル・コレクトネス(公正・公平・中立、且つ差別や偏見が含まれていない正しい言葉遣い)」による政治運動を、とできるだけ申してきましたが、そのように配慮することと「配慮を強要・強制すること」はまるで別物です。地方行政が始めた「配慮促進」に、その大前提が存在しているでしょうか。もしないままやり始めたなら、権力が人びとを縛りつけることになります。それのどこが自由のための運動なのでしょうか。

 全ての人びとができるだけ全ての人びとの幸福を目指すのであるならば、昨年の記事で申したわが国の国柄から学べばよいのです。過去先人たちの行いには誤りもありますが、欧米の宗教原理主義が犯した過ちからこの「異性愛・同性愛・両性愛・性超越問題」に対処することは不可能でしょう。現下の権利闘争は、全てこの欧米の間違いに端を発しています。だから決して解決しません。対立と嫌悪を増幅させるだけです。

 ひとまず千葉市が始めるらしい「言葉狩り」に抗議し、暮らしやすい・生きやすい千葉市を目指しなおすよう求めましょう。そもそも性別を否定して「性愛」が成り立ちますか? まるで同性愛者から「性」を奪うような行政権力の勘違いを正そうではありませんか。

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『「お母さん」が差別用語?』に4件のコメント

  1. やす:

    江戸時代以前は同性愛なんて当たり前で信長や信玄の逸話は有名です
    同性愛を否定して、男女の性差を過剰なまでに区別する価値観は遠藤さんの記事にもあるように明治以降の西洋的価値観で、当時日本に訪れた外国人が男女混浴に大変驚いたと言われています
    正直な話私は同性愛者ではありませんし、男に迫られても嬉しくありませんが、こういう考え方の根本は学生時代から何事も男女で分けなくてはいけない もちろん男女の体操着の着替えは別 高校になれば女子高と称する男人禁制のようなのも出てくる こういった過剰なまでの男女区別と性差に対する過剰反応があり、それが行き過ぎて今の過剰なセクハラ問題と少子化を招いていると私は考えています
    私なりの考えですが、性差はあくまで肉体的な問題であって、心や魂といったものは別で、それをごっちゃにして男だから女だからというものを意識しすぎて、人を愛するという本質を忘れてしまっているから、同性愛者を気持ち悪いという理性ばかり育ってしまうのではないでしょうかね
    こんなことを言うと女性に怒られそうですが、昔の男女混浴は性差を超えて人を見るという意味で合理的であったと思いますし、いきなり女性の裸を見せられても意外と興奮しないもので隠そうとするから変に男の妄想を駆り立て、性を歪めてしまう原因を作り、結果として女性を道具としてしか見れなくしていると思いますし、そのことでかえって女性を警戒させ過剰なセクハラ問題へと反転し、どんどん男女を乖離させてしまう その結果少子化が進んでしまったのが今の日本だと思います
    個人的な意見として男女を過剰に区別するのではなく、極端に言えば男女の着替えも一緒にする 女子高なんて廃止する 男女混浴を復活させる 子供の内から男女で接する機会を増やすことで自然と男女の違いを学ばせることが結果として同性愛者に対する差別もなくなると私は考えます
    女性の方に怒られるのを覚悟で書かせて頂きましたが、男女の体の違いはあっても魂に違いはないですし、男女の役割の違いからより人を思いやる意識を育てる意味で男女を神が作ったのではないかと私は思っています

  2. 心配性:

    日本の場合、江戸時代なども、欧米キリスト教社会とは比較にならないぐらい、ゲイには寛容だったと思うのですが。

    海外の同性愛者のパレードは、派手なコスプレと陽気な踊りで見ていても楽しいと感じるのですが、日本のパレードでは、なぜか「天皇制反対」や「反軍国主義」のような、殺伐としたプラカードが並ぶ時があるという話を聞きました。

    いずれにせよ、パレードは陽気で明るい方がいいに決まっています。

    日本人の本来の国民性の一つとして、「お祭り好き」といった傾向があると思います。

    最近、国のお役所に対して腹が立つ時があります。
    男も女も、陽気に、歌い踊り笑いながら、「ええじゃないか~ええじゃないか!」と、霞が関へ向けて行進するのも楽しくていいかも知れないと感じます。
    後の世に言う「霞が関行進」です(冗談です。)

  3. きよしこ:

    私自身は身体や精神にこれといった障害もなく(強いて言えば「莫迦」ですが)、何らかの宗派にも属さずいわゆる「LGBT」のいずれにも該当しません。それでも障碍者や特定の宗教の熱心な信者、LGBTに対して差別的な意識を持ったことは一切ありません。また、誰にも「差別はいけません」と教育を受けた覚えもありません。おそらく本能的に「一方的な差別は自らの首を絞める」と感じていたのだと思います。しかし、複数の宗教団体から執拗な勧誘を受けた経験もあり、「寛容」や「平和」「平等」といった文言に対して懐疑的になりつつあるのも事実です。おそらく心身に障害を持っていたり性的少数者に属していたりする方々も、多くのジレンマやコンプレックスを抱きながらなんとか社会に馴染もうと尽力されているかと思います。しかし古今東西、世の中は多数派の多数派による多数派のための社会を形成したきたのであって、そこに差別的な意図があるわけではなく、全ての人間が平等に暮らせるような社会を作ろうとすればとてつもない時間と資源と資本が必要になってくるのです。そしてその実現を、「人権」「平等」を盾にした市民活動家(を装った営利団体)が率先して妨害しており、少なからぬ自治体がそれを後押ししているのが実情です。配慮の強制・強要が社会的弱者の肩身を狭くし、誤った認識を瞬く間に広めてしまうのだということに気付かなければ、腐った行政権力のせいで多数派と少数派が互いに不信感を抱く、本来の我が国の国柄とは正反対の世の中になってしまいます。まさか「女性だけが妊娠するのはおかしい」とか「トイレや更衣室が男女で分かれているのは差別だ」などという言論が当たり前になる世の中など誰も望んではいないでしょう。

  4. あき:

    この千葉市には、びっくりです。 もう此処までくると異常です!もう腹が立ってたまりません。
    結局飯の種は欲しいだけなんです、差別利権、差別商売こんなのはのさばらせてはいけません。
    気違い沙汰です、以前からこの下らない言論統制は許せない。  ホモ、レズ、他個人問題でしょ、いい加減にしろ、子供の頃から変態教育し、人間的に劣化させようという魂胆が丸見えです。 一般の人ももう声をどんどん上げないと反日商売共のやりたい放題ですよ。