沖縄地方議員の怒り、知事へ

皇紀2683年(令和5年)11月3日

「年収106万円」問題の解決が「家庭の貧困」を救う…!インボイスで見えた!カネの計算が苦手な政府の「落とし穴」、そのヤバすぎる中身(原田 泰) @moneygendai

2023年10月からインボイス制度が導入された。この是非はかねて議論が百出しているが、経済学から見てメリットがあるのかどうか、私見を示しておきたい。結論から言えば、日本全体に経済的なメリットはなく、むしろ民間にコストを押し付けて、国が税収アップを享受するだけという「金勘定の視点」が抜けた制度だと言わざるを得ない。…

(マネー現代|講談社)

 消費税がいかにわが国の経済を破壊する性質のものかについて、これまで何度も申しましたが、消費税の仕入税額控除の方式として適格請求書(インボイス)制度が先月一日から開始され、以前の反対運動もむなしく諦めるほかないのか、と思ってはいけません。この制度ごと無効にすべく消費税法の廃止を立法権力(国会)に訴え続けることが肝心です。

 その中で、日本銀行政策委員会の原田泰元審議委員のこうした分析も有効活用しましょう。年収「百三万円の壁」を取っ払って「百六万円の壁」を作り、私たちの暮らしを暗く閉ざした社会保険料の徴収強化問題も以前から指摘してきましたが、原田氏の「それ(採用した政策)にいくらのコストがかかるのかという金勘定という議論が抜け落ちている」とは、全くその通りです。

 雀どころか蚯蚓(ミミズ)の涙ほどの「減税?」に生活困窮者への「給付」をつけるという岸田文雄首相の政策は、まず政府が勝手に規定する「困窮者」を改めて特定し、いくらかを給付するという作業が待ち受けています。全地方自治体が政府に圧しつけられる手間を含め、その行政経費(コスト)がごっそりそのまま無駄です。

 これも給付の度に申してきたことですが、よって安倍晋三元首相が思い切った「すべて国民への十万円給付」は、同じ手間・経費でも、武漢ウイルス(新型コロナウイルス)禍の国民支援として比較的適切でした。

 インボイス制度にしても、こうした手間・経費の「カネ勘定」ができない、というより「自分たちには関係ない」と考える財務官僚の招いた失策であり、これをこのまま継続させてはいけません。

「知事は外患誘致」と辞任要求 地方議員連盟、国連演説批判

 沖縄の人々を先住民族とする国連勧告の撤回を実現させる沖縄地方議員連盟(会長・町田裕介沖縄市議)が2日、玉城デ…

(八重山日報社)

 もう一つ継続させてはならないのが沖縄県の玉城康裕(芸名=玉城デニー)知事の任期です。先月七日記事で申した刑法第八十一条違反(外患誘致罪)容疑により、逮捕されねばなりません。

 沖縄県民から見た内地人の多くは、沖縄行政の対日ヘイトスピーチ(憎悪差別扇動)化が深刻との印象を抱きますが、実はただの利権集団にすぎなかった左翼・極左の巣窟「オール沖縄」が、県内を牛耳る観光業「かりゆし」や建設業「金秀」の離脱で崩壊していく中、保守系市長たちが作った「チーム沖縄」はますます健在です。

 玉城知事の数数の暴言は、中共・共産党人民解放軍による沖縄侵攻を自ら招いており、絶対に許されません。今月一日午前二時過ぎから四時過ぎにも、連日徘徊する共産党軍の補完組織・海警局の武装船「海警2301」「海警2102」「海警1301」が領海侵入し、第十一管区海上保安本部(那覇市)の巡視船が警告を繰り返しました。

 しかし、海警局も外交部も、わが国の船舶が「中共領海に侵入した」などとわめいており、このような国際法違反の発言を決して見逃してはならないのです。玉城知事の言動は、こうした中共産党の暴力を進んで礼賛する「世界平和の敵」でしかありません。

 沖縄県の防衛は、こうした挑発から戦争へと発展しないよう構える最低限の外交道具であり、沖縄の政治家たちが結束して「玉城発言に賛成などしない」と示すことも、強力な武器となるのです。

 改めて沖縄市議会の町田裕介議員をはじめ、豊見城市議会の宜保安孝議員、石垣市議会の友寄永三議員らに感謝申し上げます。次は、外患誘致罪の容疑で捜査してもらうよう警察庁警備局公安課にも要請しましょう。

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『沖縄地方議員の怒り、知事へ』に2件のコメント

  1. アンチレッド:

    >この制度ごと無効にすべく消費税法の廃止を立法権力(国会)に訴え続けることが肝心です。

    これに関連して一本の動画を紹介します。
    5分弱の短い動画で、現在の日本および世界を知るうえで見て損はない動画です。
    (日本語字幕版) 国家の専制なしでは 社会主義は成り立たない – YouTube
    https://www.youtube.com/watch?v=siU0iVgMVfY
    字幕の一部を抜粋して書き出すと、
    フランスの経済学者で著述家でもあるフレデリック・バスティアは1850年に出版した書籍「The Law(法)」で次のように述べています。
    「社会主義に対抗するために法を使うのだというが、社会主義が依拠しているは、まさにその方そのものなのだ。社会主義者は合法的略奪を行うことを欲しており、非合法的な略奪をしようとしているのではない。
    社会主義者は他の独占主義者と同様に、法そのものを自らの武器にしようとしているのである。そして一度方が社会主義者の側につくと、どうやってそれに対抗することができようか」
    バスティア氏は疑問を投げかけています。
    政府自体が略奪の源になれば法律はどうなるのか。
    以上抜粋

    >いくらのコストがかかるのかという金勘定という議論が抜け落ちている」とは、全くその通りです。
    >その行政経費(コスト)がごっそりそのまま無駄です。
    誰かのコスト=誰かの収入ですから、政策実施にかかるコスト=収入=公金チューチュー=合法的略奪と考えれば、「彼ら」はわざと意図的にコストがかかるようにしていると言えます。
    財務官僚がなぜ「東大法学部」出身者で占められているのか?
    合法的略奪のためとすれば財務官僚の所業が説明できます。
    上記動画を知ったのは2020年の米大統領選のときでしたが、2024年米大統領選へのトランプ前大統領の出馬を阻止しようと、民主党が法律を武器化しているのも社会主義者の特徴と一致しています。
    最終手段としてトランプ氏暗殺も危惧されているようですが、盟友だったともいえる安倍元総理が財務省によるモリカケ攻撃の果てについには暗殺されてしまったことの二の舞にならないことを願うばかりです。

    国民や自民党の多くの国会議員が反対だったにもかかわらず、権力の横暴で強引にLGBT法が成立してしまった状況は、もはや社会主義ともいえる状態だと思います。
    ただしまだ日本が救いなのは、合法的に武力を行使できる存在である警察官や自衛官が、中共のように国民に銃口を向ける存在ではないことです。
    しかし、警察上層部は完全に権力側ともいえる状態であることは、文春が報じている「木原事件」での「殺人事件疑惑もみ消し」でわかります。
    「木原事件」は木原氏のゴシップ記事とみることもできますが、権力側警察上層部vs国民側現場刑事という見方をすれば、社会主義に対抗する国民の闘いともいえます。

    デジタル通信技術を駆使して全世界が中国のような社会主義的国民監視管理社会にされてしまうとの危惧が指摘されていて、現実にWHO主導のいわゆるパンデミック条約が進行しているようです。
    これに国民がどう対抗できるのか、絶望的状況にもみえますが、通信技術の双方向性に着目すれば、国民一人一人を完全に監視管理するシステムは、方向を逆にすれば国民一人一人が政府に直接関与できるシステムと同じです。
    身近なことに例えれば、多数の犬にリードをつけて一人の人間が散歩させているとき、普通は人間がリードを使って犬をコントロールしているわけですが、犬と人間の力関係や意識が逆転すれば、犬が人間をリードでコントロールする状態に瞬時に変わってしまうことに似ています。
    こうなるためには、多くの国民が自分たちが政府をコントロールする側であるとの意識を持つことが必要です。

  2. 日本を守りたい:

    人は ある約束へと開始された時間を生きている。
     それは 途上に在る という意味を 与えられている。
     それがどんなに限り無い幸いであるかを知り得た時、
     人は 時の終りを超えてしまう。永遠性によって 触れられたからである。

     この世界の何処にも 完成された秩序は ありません。
     しかし生命は それ自身の 完成からは遥かに遠い今が
     絶えず完成へと差し招く永遠性によって引き寄せられている事を 
     感知し得るのです。途上に在るのだと。

     ゲンちゃんは 以前のメルマガで
     「宗教的真理によって、人間の 理性の中の理性が開かれる。
      神の啓示とは、無いものが見える事ではない。
      今まで見えていた物の 見えなかった深みが 見える事である。」と 書きました。

     見えなかった深みが見えるという事は 
     深みから見られる 見られているという事であります。

     人は この世界の深みから 見られております。
     遡る事も進む事も出来ない 時の深みから 見られております。

     人は 全ての存在に通じる深みから 見られております。
     そして それ以上に 人は その人自身の深みから 見られるのであります。
     それこそは 特定の神話を有する特定の宗教によるのでは決してない、
     根源的な宗教的経験 すなわち 名を持たぬ神を受けるという経験なのであります。
     これに気付かされた事 それこそは
     ゲンちゃんにとって恩恵に他ならない経験であり、
     宗教なるものに絶望して 
    階級闘争を超える生き方を見出す事が不可能だとしか思われないニヒリズムから 
    ゲンちゃんを救ってくれた経験なのであります。

    宗教的真理によって、人も 人の宗教も 
    絶えず温められ また 焼かれる。焼き清められる。

    人は 美しさに優る清らかさの次元に 招かれています。
    美しさは はかないもの 失われるものでもあり、
     虚栄のために用いられたり 偽装されたりもする。
     しかし、清らかさは 人の知る全てを超えています。
     清らかさは 減じる事も変質する事も無く、
     卑しい目的のために用いられる事もありません。
    「清らかな人」は 何も恐れる必要が無いのです。
    至高の境地というべきでありましょう。
    そしてそれは、人が往くべき目的の地であると同時に
    人が帰るべき故郷でもあるのです。
    清らかさによって生まれ、清らかさによって導かれるのです。
    だから 人は本来 限りない喜びの泉に浴する者なのです。
    それを妨げ、喜びを失わせる魔力によって
    人は束縛され、囚われてしまう。
    しかし人は、束縛されたままで、囚われたままで、
    実は救われているのです。この事に気づかされて、
    親鸞は「本願他力」と言うのです。

    「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば 
     ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』「後序」より)

     このわずか三十三文字の しかし 比類ない喜びの言葉に、
     親鸞という人の 詩人としての成熟と 
     真正の宗教者としての完成を
     ゲンちゃんは強く確信しています。

     不可思議な矛盾が 成就しています。
     「弥陀のお救いは 唯 親鸞ひとりのためだ」と言う 
     強烈な 絶対の信仰。
     しかし、そのように思えるからこそ、それなのに、同時に、
     全ての者が救われるのだと 親鸞は確信しているのです。
     これこそは、人の内部だけに起きる
     「結ばれている」という恩恵によって成就する事なのです。
     限り無い者が 親鸞の内部に 来ているのです。

     親鸞は 真正の宗教者であると同時に
     彼自身の宗教から 解放されている人です。
     その境地こそは、宗教的真理によってのみ、
     人が導かれる境地なのです。
     親鸞は ゲンちゃんが 前号のメルマガで書いた
     「人を苦しめるあらゆる束縛から解放された人」なのです。
     これこそが 本願他力 という言葉の意味であると
     ゲンちゃんには思われるのです。そして それは、
     もはや 本願他力という言葉も 無用となる境地なのです。
     あらゆる宗教が 無用となる境地なのです。
     如何なる束縛によっても決して失われない喜び を得ているのです。拝。