皇室を卑しくする占領憲法

皇紀2672年(平成24年)12月24日

【コラム】 絶対王政と絶対個性

今ではすっかり王室が一番卑しい存在になった、
 いちいち国民に気を使わなきゃならん、と。

 平成二十二年に英国が製作した映画で『英国王のスピーチ』というのがある。監督は私と同い歳のトム・フーパーで、現在公開中の『レ・ミゼラブル』も撮った。気のせいか彼の演出はアニメーションの押井守監督に似ている気がする。画の撮り方がそうなのだ。

 まぁそんなことはさておき、英国王ジョージ六世の物語はコリン・ファースとジェフリー・ラッシュの名演もあって実に面白かった。英国王室というのはいわば欧州の中心、大陸側からすれば僻地の新興勢力であり、取るに足りない。なんてなことを言っていたら仏国の王室が倒され、ハプスブルク=ロートリンゲン家も皇位を失い、保守的なバイエルンの地にあったヴィッテルスバッハ家でさえもその地位を追われてしまった。

 今や皇室は世界の中でわが国にしか残っていない。しかも欧州型の権力者ではない皇帝というのは他に類例がなく、天皇陛下は祭祀を司られるご存在だ。

 しかし、王室というのはそもそもその国家の絶対権力に始まっており、英国が欧州で幅を利かせ出したのもエリザベス一世が戦争の指揮を執り勝利した時からだと申して過言ではなかろう。それまでは本当に僻地の王室だった。

 そんな中、ジョージ五世の台詞が実に興味深い。英国民に語りかける放送を収録し終えた後、幼少からの吃音に悩み消極的な日々を過ごすヨーク公、すなわちのちのジョージ六世に父王がおっしゃるのだ。今ではすっかり王室が一番卑しい存在になった、いちいち国民に気を使わなきゃならん、と。

 民主主義だと皇室も王室もこうなる。神聖ローマ帝国のマリア・テレジアらは啓蒙専制君主を唱えたが、仏革命でマリー・アントワネットとともに処刑されてしまったルイ十六世とて決して絶対王政にふんぞり返っていたわけではない。それでも現世個人の理性を絶対とするならば、王室は消された。

 エリザベス二世の代になって英国王室が下賎な報道の視線の先に置かれたのは誰もが知るところだろう。それを「開かれた王室」と言うのだが、そうだろうか。まさしくこの映画の中でジョージ五世がおっしゃったように、ただただ最も卑しい存在に成り下がっただけだ。

 その国が弱った時、或いは苦しい時、皆が病める時、特に精神的支柱となるのが皇室や王室の存在だろう。だから今でも爵位を持つ領主たちは災害などの発生時、領地内に住む人々のための巨額の寄付をする。でも知事や市長ではないから政治的実権はない。

 東日本大震災の時、被災地では菅直人首相の訪問に罵声が浴びせられたが、天皇陛下と皇后陛下が跪かれて被災された人々に寄り添われたのを見て、或いは流された玉音放送、あの自衛隊員や被災者らを励まされた放送ね、あれを見て私はやっぱり代々より皇統を相続したことの深い意味に気づいたわけよ。

 「オレ様の気分はハッピーハッピー」なんぞという程度の理性で仮にも皇室が潰されるほど莫迦らしいことはない。英国王室はエリザベス二世のあとに相当の苦難が待ち受けているだろう。それは自分たちが蒔いた種だ。わが国に置き去った占領憲法の基本である欧米型民主主義というのは、国という大きな家にとってシロアリのような存在であり、私たちの思考回路を「絶対個性」に陥らせる麻薬でしかない。

 文=遠藤健太郎 (真正保守政策研究所代表)

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