「嫁問題」と多様性ポリス

皇紀2680年(令和2年)12月2日

SNSで「嫁」と投稿、「不適切だった」と企業が謝罪! 街の人は「上から目線」「卑下されている」「悪意なければ気にならない」などなど

ある企業が先月(2020年11月)、SNSに投稿した「嫁」という言葉が物議を醸した。夫婦の何気ないやりとりを紹介したものだったが、批判を受け、企業は不適切として謝罪した。「嫁」という言葉。夫が他人に対し、そう呼ぶことを既婚女性たちはどう思っているのか。「スッキリ」は街で100人に聞いた…

(J-CASTニュース)

 私はそもそも、わが国こそが「多様性(ダイバーシティ)」を認めてきた元祖のような先進国だと思っています。それが明治維新以降、むしろ西洋列強の文化や宗教観を輸入しておかしくなったのであり、今さら欧米に「日本は多様化しろ」といわれる筋合いもなければ、対日ヘイトスピーチ(日本憎悪差別扇動)活動家たちの多様化論は、莫迦の一つ覚えのように「欧米は進んでいる」などと無知蒙昧なことをいい、極端であまりにも暴力的です。

 それはなぜかと申しますと、その多様性の中から民族性に適合した取捨選択の歴史的過程を一切無視し、それまでの文化、風習や習慣を完全否定するからにほかなりません。

 自分の妻を名前で呼ぼうが「妻」「嫁」「家内」「女房」「奥さん」「上(かみ)さん」「お母さん」、はたまた「鬼嫁」「極妻」「財務省」「ラスボス」と呼ぼうが人の勝手であり、その表現も自由なはずです。しかし、多様性を大声でわめくクレーマーは、あらゆる自由を主張しながらこの自由だけを決して認めません。

 また、自分の夫を女性がどう呼ぶかについてもうるさく介入し、たとえば「主人」などと口走ろうものなら「主従関係でもないのに〇※△~(聞き取り不能)」と金切り声を上げて徹底的に非難してきます。他人が呼びたいように呼ぶことを絶対に許しません。

 仮に政治家などの個人の思想に関連して論評する際、その人物のこうした日常的習慣をも指して批判の対象にすることはありますが、私たちの国語にある豊かな表現をさまざまな場面で表現してみせる私たち民族の愉しみを、対日ヘイトに中傷されることほど許しがたいものはないのです。

 多様性をいうなら配偶者を「嫁」と呼ぶのも「主人」と呼ぶのもほっといてくれ!

 このようなことで企業を困惑・疲弊させて謝罪に追い込むようなやつを今後「多様性ポリス」と呼ぶことにします。あの「自粛ポリス」なる連中のしたことと同じことを、こいつらはしているのです。

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『「嫁問題」と多様性ポリス』に1件のコメント

  1. 心配性@我は蛮夷なり:

    くれぐれも、「魔女狩り」だけは気を付けたいですね。
    人間の思考は、ときどき先鋭化、過激化しますが、それが一番よろしくない。

    「嫁」は置いておくとして、仮に「失言」する人がいたとしても、悪気の無い相手に対して鬼の首を獲ったように攻撃してはいけませんね。
    人間は、精密機械ではないので、日々失敗しながら生きています。
    笑いながらその場を上手く収められる「度量の大きさ」が、今一番求められているのではないでしょうか?
    本当に「多様性」のある社会を望むなら「度量の大きさ」が必要であり、それがないと、「自粛警察」ではありませんが、「多様性警察」が跋扈するか、最悪「文革」のようになってしまいます。

    それから、まだ「欧米礼賛」をしている人が沢山いるようですね。
    コロナ対策でも、再び欧米を称賛する人々がいるようですが、以前の超過激なロックダウンにしろ、その後の感染再爆発にしろ、欧米のコロナ対応は控えめに言っても「失敗例」だと思います。