ボブ・ディランは貰わない

皇紀2676年(平成28年)10月16日

 特にわが国語は、奥が深いものです。十四日記事の中の「御崩御」が「二重敬語だ」とのご指摘を密かにいただきましたが、それは「崩御」そのものを敬語とする一般的な説明に基づくものです。

 しかし、崩御や薨去といった言葉は、それを使用すべき対象が限られているだけという考え方に基づき、「天皇」や「皇太子」だけでは敬語にならない、或いはほかに「崩御される」という表現が二点敬語になるか否かの議論も同様、その対象が敬意を表すべき御存在ゆえに敬語とする考え方も正しいでしょうが、その対象に於ける「死去」の唯一の表現でしかなく、それだけでは敬語に当たらないという考え方があります。

 ただはっきりしているのは、例えば「御崩御される」という表現が明らかに二点敬語になるということです。また、外務省在タイ日本国大使館の最初の文書に「御崩御」を用いながら、現在の文書では「御」を取って修正しているように、公文書として敬語が過剰にならないようまとめることもあります。

 皇室を「御皇室」と表現する方もいますが、占領統治以降現代国語の文法説明(特に皇室関連)に何らかの考えをもって決めつけたような点があるのは事実で、明治のころは「聖天子、崩御あらせらる」や宮内省公文書でも「崩御あそばさる」などの表現を用い、崩御という言葉だけでは敬語にならないことを表しました。

 この議論の答えは、未だ出ていません。恐らくこのまま出ないでしょうし、皇室関連ゆえか議論そのものを「ない」とする国語学者もいますから、ご指摘は真摯に受け止めるとして、特に過去記事を修正しないことにします。ご了承ください。

 http://www.sankei.com/life/news/161015/lif161015……
 ▲産經新聞:【ボブ・ディランにノーベル賞】いまだ本人と連絡つかず、受賞発表から丸1日 選考委員「これほど長い沈黙は珍しい」

 さて、プーミポンアドゥンラヤデート国王陛下御崩御の報とともに、この日もう一つ私たちを大いに驚かせたのがボブ・ディランのノーベル賞文学賞受賞です。

 以前にも申しましたが私は、個人的に村上春樹が嫌いで、かつて小説『ノルウェイの森』のあまりのつまらなさに二度と読まなくなった経緯があるため、日本人でありながら「村上にだけは受賞させまい」という何やら底意地の悪い想いを抱いております(笑)。

 よってこの時季の風物詩のようになった「ハルキストの狂い咲き」にも関心がなく、しかしながらハルキストたちに申し訳ないとも思いながら、今回のボブ・ディラン受賞を聞いて、何が何でも村上に賞を与えないノーベル賞の方針を見ました。

 そもそも平和賞と文学賞は、どうにも「怪しい」わけで、ボブ・ディランが素直に受け取るとは思えません。ジャン=ポール・サルトルのように華麗に断ってくれると、かえってうれしく思います。

 報道各社は、村上がノーベル賞をとれない理由をあれこれ書いていますが、大衆小説としての軽さや商業主義うんぬんより、賞を意識し出してからの発言それ以前の呆れた違いを選考過程で既に見抜かれているのではないでしょうか。

 一度見抜かれたものは、もう消えませんから、まるで着せ替え可能のリベラルを装っただけのような作家が賞をとることはないのです。

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『ボブ・ディランは貰わない』に6件のコメント

  1. きよしこ:

    先日、プミポン国王の崩御に関するコメントをした時、ふと「崩御なさる」は二重敬語になるのではと思ったので「崩御の報に接し」などと書き込んだのですが、日本語としての正誤は私にも分からず、改めて日本語の奥深さと難しさを実感すると共に、特に皇室関連の言葉に関して結論が出ていない、あるいはわざと出さないことこそ「不敬」から最もかけ離れたものであり健全だと考えます。個人的には「皇」の字そのものが非常に崇高なものであるため、その前に「御」を付けることさえ憚られると考え「御皇族」ではなく「皇族の皆様方」と記述してきました。つまるところ最も大切なのは臣民としての国家元首に対する忠誠と敬意であり、それを忘れて結論の出ない言葉の用い方に延々と振り回されるのは本末転倒だと思います。

    さて、先生が村上春樹氏を嫌っているのは知っていましたが、わざわざ太字でしっかりと強調されるあたり、本当に心の底から嫌いなのだなと感じました。私自身はそもそも小説を読まないため面白いとかつまらないとかがわからないのですが、この時期になると湧いてくる、いわゆる「ハルキスト」たちの「受賞できないと分かっていながら一縷の望みを託すフリだけでもしてみる」さまが非常に不快だったのでNHKの字幕スーパーで「ボブ・ディラン、ノーベル文学賞受賞」と表示されたのを見て安堵しました。私はボブ・ディランには全く詳しくないのですが、何より言葉を大切にし、派手なパフォーマンスを嫌い、ノーベル賞受賞が決まっても特にこれといったアクションも起こさないその活動スタイルがある意味文学的だなとは思いました。ノーベル財団がそう考えたうえで文学賞を授与したかどうかは知りませんが。

  2. ノッポ:

    >個人的に村上春樹が嫌いで、かつて小説『ノルウェイの森』のあまりのつまらなさに二度と読まなくなった経緯があるため・・・・・・・ 

    ブログ主様のおっしゃる通り、「ノルウェーの森」他、すっごく昔読んでみましたが、私の頭では理解できず断念しました。「ハルキスト」たちが毎年大騒ぎしますが、どこがいいんだろう?春樹作品を読むことが、インテリだと思っているのか、今年も受賞できず、私は大喜び。

  3. 弓取り:

    はい、ボブディランの受賞にはぶっとびました。世界中で、どれほどの人が予想できたか。作家じゃなくてミュージシャンですから。吟遊詩人という括りでしょうか。アシュケナジユダヤつながりがありはしないかと勘ぐってしまいます。
    別に嫌うわけではないのですが、彼よりは、文学史に残りそうな人はもっといたはずで、村上の好きなカポーティだって受賞していません。推理作家やSF作家も選考対象にしてほしいと思います。ノーベル文学賞は、エスニック持ち回りとグローバル・リベラルの選考基準の傾向を感じます。キリスト教的な世界観や価値観からの脱却のよすがとしての文学です。中心は欧米作家なのでしょう。

    なんにしても、村上春樹はないですよね。私も何冊か読みましたが、とうとう好きになれませんでした。舶来コピー趣味の気取りと未成年志願者的な内向きさを、言い回しと暗喩で実態を粉飾して自己正当化している感じが鼻についてしょうがありません。実際、読んでいると、幾多のアメリカ映画のあれやこれやのシーンを思い出すことも多くて、よそから借りてきたツギハギ世界を「僕」が徘徊しているだけじゃないのか、と感じることも再々です。翻訳しながらネタを探していないかと猜疑心さえ生まれます。
    個人的な感想ですが、そうすると、日本の日本語作家として、どんな付加価値をつけたか疑問です。日本的なものに踏み込まず、その周辺を迷走しているだけに思えます。彼が受賞したら、ちゃんとした作家たちに同情せざるを得ませんでした。
    長々と勝手な感想でした。失礼しました。

  4. しげる:

    同意致します。
    昔から村上春樹はテレビのランキングなどで取り上げられて来ました。
    私もノルウェイの森を読みましたが、それ以来村上春樹は一度も読んでいません。

  5. まい:

    昭和天皇・先帝陛下が御崩御になったときも宮内庁長官が”崩御あらせられました”と会見してますね。”崩御される”か”御崩御になる”のどちらかも正しいです。二重敬語を指摘した人は”御”の字が二回出てくるのを根拠におかしいといったのかもしれませんけどそれは理由になりませんね。”御即位”が”即位”になったり”譲位”が”生前退位”だったり最近の皇室ニュースに敬語がなくて困ります。人から指摘されたことでもこんなふうに取り上げて説明して下さると助かります。
    P.S. “御皇室”と表現するのは南出喜久治先生ですね。きよしこさんが書かれてるように”皇”には敬語が含まれてるのであれは二重敬語だと思います。南出先生ごめんなさい。

  6. コメント失礼:

    ディランはもう十数年前から受賞がうわさされていたので、意外感は全くありません
    ただ、芥川賞がいつからか受賞者に名誉を授けるよりも、受賞者の名声にあやかる怪しい賞に成り下がった如く、これが一つの転機であるとは思います
    春樹について言えば彼はペンクラブ代表ではないからもらえないと私は思っています。康成も大江も代表として盛んに英米文学者と付き合っていました。確か二人とも世界大会の主催を成功させた直後にもらっていたのではなかったかな
    案外そういうもらい方をした海外の作家も多いですよ