「戦後七十年」権力の姿

皇紀2675年(平成27年)8月15日

 http://www.asahi.com/and_w/interest/entertainment/CORI2057477.html
 ▲朝日新聞:みんなで考える戦後70年

 本日は七十年前、当時の鈴木貫太郎首相の会見程度では事態の収束が不可能に堕ち、お手上げとなった政府を前に、先帝陛下に御収めいただいた「終戦」の玉音が放送された日です。これをもって多くの国民が愕然とし、或いは安堵したのでしょうが、決して大東亜戦争が終わった「終戦記念日」ではありません

 新聞やテレビなどのメディア各社はこの節目に多くの特集を組んでいますが、戦時中は国民までもが互いにそうし合ったように、個人の頭の中に手を突っ込んで思想改造を試みるような行為は最も醜悪です。

 政治活動とは違いますから、国会議員も公務員も報道企業の社員・従業員も、権力側にいる者は皆このような絶対に許されない行為に手を染めてはなりません。もしや自覚がないのではと思われるのでことわっておきますが、報道は大手であればあるほど立派な権力です。

 ただただあったことを知り、学び、これから起きることをやっつけながら生きていくのです。その「知る」「学ぶ」過程に於いて、権力側の言うことを妄信するほど愚かなことはありません。いわば政府の言うこともテレビや新聞の言うことも、全て疑ってかかれということです。

 もちろん権力ではありませんが私の申していることもであり、常づね「別に私の申していることが絶対正解ではない。私がこう申したことをきっかけに自分で考えてほしい」と訴えてきました。ですから、保守・革新を問わず言論の自由の範疇でそれに対して反論の必要がない部分には、敢えて反論しないこともあります。それがかえって気に食わないという人もいるでしょう。

 しかし、例えば「日本書記」を読んでも分かる通り、結果はともかく公平であろうとすることこそ日本人の習慣であり、保守すべきものの一つだろうと私は思っています。

 ですから「平和」や「人権」を口にしてさえいれば良いとでも企んでいるであろう一方的なものの言い方の権力を許してはならないのです。

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『「戦後七十年」権力の姿』に1件のコメント

  1. 心配性:

    日本のマスコミは、この談話のいったいどこがそれほど気に食わないのでしょうか?↓

    【戦後70年談話】首相談話全文http://www.sankei.com/politics/news/150814/plt1508140016-n1.html

    バランスのとれた文章ですし、普通に深く反省し、普通に謝罪している様にしか見えませんが、なぜ「反省していない」「曖昧」「意味不明」「波紋を呼ぶ可能性がある」「謝罪を避ける」といったネガティブな評価が下されているのでしょうか?

    むしろ「村山談話」よりも格段に長いため、より具体的な事例を列挙して「反省」しているように思いますが、テレ朝やTBSといった「反政権」的なメディアだけではなく、日テレやフジテレビなど「政権寄り」のメディアまでもが言葉の一部を切り取って、「これでは中韓が怒るのでは・・・」とやっているのですから、少し奇異な印象を受けます。

    私は、欧米が旧植民地に対して毎年の様に謝罪や賠償をする姿を想像できませんし、日中戦争時、中国に大量の武器や資金を提供して「我々が貴国をサポートする。たとえ日本が『講和』を持ちかけたとしても、どーんと大船に乗ったつもりで一歩も引かずに戦いなさい!」と蒋介石をけしかけていたアメリカが反省する姿を見た事もありません。

    一方で総理が毎年の様に反省している日本の姿は、欧米や中国に対するある種の「嫌味」にも見えないでしょうか?
    「我々は旧植民地や、かつてあなた方が支配していた東南アジアの国々に対してれだけ頻繁に謝っていますよ・・・」と。