【主張】同性愛者の人権

皇紀2675年(平成27年)5月6日

 http://www.sankei.com/life/news/150415/lif150415……
 ▲産經新聞:渋谷区同性パートナー条約 明治神宮が「同性婚の聖地」になる日

 体を壊しているのだからわざわざ疲弊するようなことを提言しなければよいのに……とも思うのですが、東京都渋谷区の同性愛に関する条例問題、或いは同性愛者の人権問題そのものに対し、すでに基礎となる考えを私は平成二十二年十二月十八日記事で述べています。再度これをご熟読ください。

 ところが、渋谷区に対して保守派のほとんどが「家族を壊す危険な条例だ」などと抗議に打って出たため、私がまず初めに「(同性愛者の聖地といえば新宿二丁目と聞いているので)新宿区は一体何をしているのか」と感じたのとは考え方の大きな隔たりがあることを思い知りました。さて、これをどう解きほぐせばよいのか、と。

 産經新聞社は、八木秀次氏の「既に学会で否定された説を論拠としたジェンダーフリーの出鱈目」を皮切りに、同性愛の問題をジェンダーフリーや夫婦別姓(氏)と同列に並べて「個別に解決できる問題を大きな問題に仕立て上げ、社会の原則自体を大きく変えようとする左翼運動の常套手段」と断じた論文を月刊正論から一部配信しています。

 この定義自体に私も異論はなく、そもそもの私の考え方からすれば同性愛者の人権問題をなぜ革新派が専売特許のように扱ってきたのか、むしろその間違いを指摘したいのです。

 まず、私自身が同性愛を正しく理解できているかという一抹の不安を前提としても、同性愛者の問題とジェンダーフリーはまったく関係ありません。ともすれば同性愛は男女それぞれの性愛に強い思い入れを表すもので、ジェンダーフリーになってしまえばどんどん理解されなくなっていくのではないでしょうか。女性の相手は女性でなければならず、男性がより「女性らしさ」を目指したりするものなのですから。

 さらに、家族を壊すといいますが、明治維新以来のキリスト教またはユダヤ教原理主義の流入により同性愛を「忌むべき行為」とする宗教思想が蔓延したおかげで、歴史的記述に遺る平安以来江戸までの「衆道をたしなむ」とまで言い表し、美しく着飾った若衆の性愛をすら享受してきた日本古来の緩やかな価値観文化、すなわち「何にでも耳を傾ける神道文化」が次第に忘れ去られたことで、自らの家族に同性愛者がいることを認めないというような姿勢が定着してしまい、いよいよ親と子の家族関係を引き裂いてしまうケースが多く見られるのを見過ごしてはならないのです。

 同性愛が子孫を残さないことは申すまでもなく、異性愛に於いても必ず残せるわけではないことと区別するとしても、従来の婚姻制度とは別の制度をもって同性愛者の存在を決して忌むべきとはしないという方針を打ち出すことは、いかにもわが国らしいと申せるのではないでしょうか。世界中の人びとが天皇陛下の祭祀の国、八百万の神神の国であることの真の意味を理解する日が来るでしょう。

 よく考えてもみてほしいのです。国や家族が同性愛者の人権を口にしたとたんに個人が「ならば同性愛者になろう」と言ってなれるものではありません。生まれもって悩み、家族に言えず死を選ぶというようなケースは、小さなところで解決できる問題ではなく私たち国民の意識が変わらなければ解決できない大きな問題なのです。

 まさかここに「何にでも耳を傾ける国なら移民も認めろ」などと幼稚なことをおっしゃる方はいないでしょうが、先人たちは少なくとも同性愛を「国を滅ぼさないもの」として排除せず、キリスト教の流入は排除しようとした歴史があります。この伝統にこそ学ぶべきものがあるのではないでしょうか。保守派こそが人権問題に正しい切り口を与え、自ら行動すべきなのです。

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『【主張】同性愛者の人権』に6件のコメント

  1. 反対派です。:

    いつもブログを拝見しています。初めてコメントさせていただきます。

    個人的に「同性愛を許容できるかどうか」という問題と「同性婚を認めるべきかどうか」という問題はほとんど関連性の無い別の問題だと思っているので、同性婚に関する議論において両者が混同されている事に違和感を覚えてしまいます。
    同性婚の話題になると必ず「中世の日本には男色や衆道という文化があった、同性愛は社会的に許容されていた」とおっしゃる方が居ますが、それは確かにその通りです。だからと言って、男同士で結婚して所帯を持つことまで許容されていたのでしょうか。さすがにそこまでは許容されていなかったのではありませんか。
    私は同性婚には反対の立場ですが、だからと言って同性愛者が人として劣っているなどとは思っていません。同性同士で恋愛するのは個人の自由だし、男性が女性物の服を着て外を出歩くのだって個人の自由です。制度としての同性婚に反対しているだけなのに、あたかも同性愛者の人格や存在を否定しているかのように受け取られてしまうと思うと、意見を述べるのも億劫になってしまいます。

    「同性愛も同性婚も両方肯定する」か「両方否定する」の二種類しか選択肢は無いのでしょうか。私のように同性愛は許容できても同性婚は許容できないという人もたくさん居ると思うのですが、そういう人はこの議論に参加する資格が無いのでしょうか。

    体調を崩されているそうですが、どうかご自愛ください。

  2. きよしこ:

    つい3日ほど前に偶然、先生が過去に書かれた記事を拝見していたので今日この話題が取り上げられたのには何かしら「運命的なもの」を(勝手に)感じてコメントします。
    今月号の『WiLL』の人生相談コーナーにも、同性愛者の男性が「世の中はもっと同性婚に寛容であってほしい」との胸中を吐露されていました。私は同性愛は大いに結構だと思いますが、同性婚には反対であります。理由は本日先生が仰ったことと全く同じです。しかしながら、同性愛者本人や彼らを「支援」する人々はなぜか「同性婚の否定」と「同性愛の否定」を(おそらく意図的)に混交し、社会の原則を根底から覆そうとするのです。革新派による偽善的な言い分にはこの期に及んで言及しませんが、問題は「家族制度の破壊」以上のことが言えない保守派です。「ではなぜ家族制度が大事なの?」という単純な問いに答えられない。彼らにとって保守の定義は「反民主党」「反革新系左派」「反中・反韓」でしかなく、「日本」「天皇陛下」「国體」を主語に据えることが無い。だから祭祀主義国家の奇跡を理解も享受も伝導もできない。日本人にできないことを外国人ができるわけもない。
    今年のゴミの日も占領憲法でメシを食う人たちが「改憲・護憲」でまた不毛な議論をしました。
    校舎の建て替えをするからと、一時的にプレハブ小屋を建てて授業をすることにして、そのプレハブ小屋を必死に守ったり改築したりして何になるのでしょうね。保守派が阿呆だと中韓の回し者が肥えてゆくだけです。一瞬で壊したものが一瞬で修復できるなどという甘言は映画の中だけでお願いしたい。

  3. matu:

    現下の占領憲法において規定された「人権」「平等」なるものは、そもそも一般的な日本人が考えるような(理想的な)精神的なものではありません。人権思想は、生まれながらに対立抗争を前提としており、それを個別に守ろうとすれば当然人々は抗争へと導かれ社会は混乱疲弊するのです。
    西洋の歴史今の日本をみれば解ることです。(だからこそこの日本弱体化憲法に高らかに謳われているのです)

    ここで、同性愛者に対して一見保護するような規定を作ってみたところで事態はますますひどくなる一方だと思います。そしてそれが解っていて推し進めるものたたちがいるということでしょう。そういう意味でジェンダーフリーと繋がっています。
    そのようなものを、「いかにもわが国らしい」と認めることはできません。

    では日本精神はなんであったか
    「それぞれの立場を認め、敬い、それぞれの役割を果たす」=大和の心だと考えます。言葉にしてしまうとあまりに簡単だと感じるかもしれませんが、占領憲法下で育ったわれわれは、我利我利の人権思想に汚染され、本当のところが理解できなくされていると感じます。
    理解するためにはひとつには、天皇皇后両陛下のご存在に想いを馳せることかと思います。
    失礼しました。

  4. dandy:

    これは説明が難しい話ですね。
    思うに同性愛を容認するか、しないかは別として、これを法制化する事には疑問が残ります。
    法制化してしまうと、ある程度『線引き』されてしまうため、古来より認めてきた『ゆるやかな価値観の共有』を難しくするのではと思います。
    個人的には同性愛を忌むべきものだと思いませんが、毛嫌いする人の理由も論理的に説明することは難しいでしょう。キリスト教などの宗教の影響を受けた人もいるでしょうが、単に『嫌いなものは嫌い』『生理的にダメ』という説明不可な方もおられるでしょう。
    法制化は運用にてある程度の柔軟性を持たせることは可能であっても、基本的にはオンオフのデジタル志向が強くなります。
    これが行き過ぎると、同性愛に対して生理的に嫌悪感を抱く人に対して『差別主義者』のレッテル貼りが多発する恐れがあると思われます。
    『ゆるやかな価値観の共有』の中には『理由なく嫌』という人もいれば『当然認めるべき』というあらゆる偏見を内包しているでしょうから、このバランスを敢えて崩すような法制化は控えるのが良だと思う次第です。
    では『多数決で決めればよい』などと『これが民主主義だ!』と言い張る某市長みたいな事になれば構図はまさにフランス革命そのものですから、遠藤さんが警鐘を鳴らされている通り保守派を標榜される方は特に注意が必要かと思います。

  5. たくや:

    友人にすすめられて読みました。とても救われました。同性愛の支援団体は「すこたん企画」からの流れで左翼系がほとんどで、関係ないのに9条守れとかいろいろ言ってきます。こんなのがほんとに支援団体なのかなぁって疑問に感じてました。でも保守系の人たちはみんな同性愛を攻撃するんだと思ってガッカリしてたのは事実です。ぼくも同性婚とかでわざわざ表明したいわけじゃなくて、ただ攻撃されたくないんです。遠藤さんが言われるように現在の婚姻制度とは別枠でゆるやかに認めてくれれば救われるんです。なのにやっぱりコメントを読むと、認めないって保守系の方は言うんですね・・。なんだかんだ言ってるけど同性愛差別がある現実を知らないんでしょ。遠藤さんは正しく理解されてますよ。ほんとのイケメンです。これからは毎日読みます。ぼくにできることはします。ありがとうございました。

  6. kinako:

    家族制度を改変するという事に対して、保守派の大半は反対するでしょう。
    国柄保守、國體護持派の私も同様です。家族制度は文化國體を構成しており、この改変は國體への攻撃と考えられるからです。
     しかし、今回の問題に関しては、前提から疑問を感じています。即ち、同性愛者の方々が本当に婚姻制度の改正を望んでいるのか?という疑問です。
     同性愛者の望みは、彼らの感じる世間からの偏見や差別が緩和され、生き辛さが解消される事なのではないでしょうか?そしてそれは、既に新たな軋轢を生じつつあるこの方法で果たして達成できるのでしょうか?
     
     そもそも何故、同性愛と同性婚が混同されて語られているのか?最初にコメントされた方が書かれていますが、本当に疑問に感じます。そして、おそらく意図的に混同しているという、きよしこさんの指摘は正しいと思われます。即ち、婚姻という権利関係を持ち出すことで、対立の構図を描こうという意図によるものです。
    matuさんが書かれている通り、人権思想は対立抗争を前提としています。権利を主張すれば、権利と衝突する。よってdandyさんの仰る通り、法制化する事は「ゆるやかな価値観の共有」を却って難しくしてゆくでしょう。(横ですが、matuさん、dandyさん、ご無沙汰しております。)
     自由、人権、平等を旗印に、権利と権利を衝突させ、対立を引き起こす。反日革新派が伝統国家である日本を革命国家に変質させる為の手法です。
     
    ではここで、>同性愛者の人権問題を何故革新派が専売特許のように扱ってきたのか
    という記事中の指摘に立ち返ってみますと、答えは明白です。
    社会的に立場の弱い少数派の側に「彼ら」はいつの間にかいるのです。ひとたび少数派の立場に立ってみると思い知らされるのですが、そこには保守からの救いの手はなく、「彼ら」の声があります。
    この構図は、原発問題でも当てはまるのではないかと思います。震災直後、不安に駆られた市民の多くを反日側が取り込んだ。政治思想とは関係なくただ不安だった層の受け皿に保守派はなれなかった。
    保守派と呼ばれる側はいつも反日側に大きく後れを取り、彼らの用意した土俵の上にいとも簡単に乗っかって負けてしまう。ご丁寧にも既に対立の構図ができあがっていて、両者の立ち位置が用意されている時点で疑いをもつことなく一方の側に付いてしまう、何度トラップにかかっても学習しない。何故か?
    それは、少数派の同胞に寄り添う気持ちを失っているからではないのか?
    護国の気持ちの根底に祭祀の国家の精神を呼び覚まし、実践していかなければ彼らの「自由、人権、平等」には勝てない。
    同性婚を認める為に、条例を足掛かりに民法を改正する、それが本当に同性愛者の望みなのか?どうしたら彼らの生き辛さが和らぐのか?真に向き合い、共に考えるところから始まるのではないかと思います。