格付けする愚かさ
『ミシュランガイド京都・大阪・神戸2011』が22日に発売され、『東京・横浜・鎌倉2011』は11月27日の発売予定なのだそうですが、仏国のミシュラン社が平成19年に欧州以外で初めて日本に手をかけて以来、私は大いなる疑問を持つのです。
一方で、文字通り欧州が自分たちの文化圏以外で初めて論評の対象に認めた外国が日本であったことを、まるで「民族の誇り」のように言われる方のお気持ちも分からなくはありません。しかし、そもそも「食文化の格付け」に何の意味があるのでしょうか。
http://www.j-cast.com/tv/2010/10/10077531.html
▲J?CAST:ミシュランガイドしゃら臭い…ワイドショー散々な評価
ここで指摘されたらしい「植民地主義的な発想」などと言うよりも、とにかく「格付けする」という行為が現世個人の価値観を絶対とする危険思想に直結していることが私には気掛かりなのです。これは、習熟度を確認する目的の試験で点数を付けるのとはわけが違います。
人間の持つ哀しい「偏見」の習性を肯定するような、個人の理性と意志と心情に何の疑いも呈さない仏革命思想の成れの果てが、この「格付けする」という行為に他なりません。このことにすら誰も正確に疑問を呈さないのは大きな問題です。
いや、私自身もついぞ「偏見」に自らの意志を委ねてしまっていたことがありました。それは、神位または神階に対する何らの疑問も持たなかったことであり、延長5年にまとめられた『延喜式神名帳』の示す社格に対しても同様に、むしろ例えば「ここは官幣大社であるから有り難い」というようなことを平気で口走っていたわけです。
よく考えてみずとも、八百万の神に人が格付けするなどとは言語道断の驕り以外の何ものでもありません。かくも簡単なことに気づかないのは、日本民族が極めて早い段階で優れた地球意識をも記していた『日本書記』にさえ神位を授けるに相当する記述があったことからも、まさしく哀しき人間の習性と言えましょう。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20100326/dms1003261629010-n2.htm
▲産經新聞:本家ミシュランが人気ブログ「ねたミシュラン」に抗議文
さて、ミシュラン社がこのような形で増長するのは、紋切型で申せば仏国の企業だからでしょうか。目下、年金制度改正に反対する若者たちが大規模な反政府デモを繰り広げていますが、基本的に仏国人は良くも悪くも自分たちの政府を慣例的に信用していませんし、自分個人のことにしか関心がありません。対政府の抗議デモをするかどうかは、国家(大多数の社会的利益)のためではなく、あくまで自分個人の価値基準に照らし合わせて「許せない」と判断するかどうかで決まるようです。
「歴史の浅い仏国料理を至上のように言うなんて、あなたの舌は大丈夫か?」などとつい意地悪を言いたくもなります。鹿児島県霧島市の上野原遺跡からは、1万年以上も前の私たちの祖先が燻製や蒸し料理を味わっていたことが発見されました。仏国のタイヤ屋さんに日本料理を論評して威張る資格があるのでしょうか。
いよいよ明日!10・24緊急集会
http://www.shinhoshu.com/2010/10/post-157.html
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皇紀2670年(平成22年)10月24日 10:03 AM
食いたいものを食う。これが一番の贅沢、腹に収まればミシュランだろうと、ダンロップだろうと私には関係なし。