真の減税ウソメガネはコイツ

皇紀2683年(令和5年)11月18日

新型コロナ、ワクチンで死者9割以上減 京都大チームが発表 接種なければ死者36万人に達した恐れ

 新型コロナウイルスワクチンの接種によって、国内の2021年2~11月の感染者と死者をいずれも90%以上減らせたとの推計結果を京都大・西浦博教授(理論疫学)ら…

(zakzak:夕刊フジ|産經新聞社)

 まだ言うか……。「八割」も当たらなかったくせに、今度は「九割」だそうです。武漢ウイルス(新型コロナウイルス)恐怖扇動で北海道大学から京都大学へ「栄転」した西浦博氏の「商売」は、欧米のワクチン利権を担ぐことで完結します。

 もう二度と「これ」が無駄口をたたくところを見たくありませんが、世界で最もワクチン接種を繰り返したわが国が繰り返すほどに死者を増やし、大東亜戦争後最悪を記録している超過死亡数をどう説明するのでしょう。

 このような連中に安倍晋三元首相が翻弄させられ、ワクチン利権に乗っかった菅義偉内閣官房長官(当時)が首相の座を奪ったというのが本当のところです。

神田財務副大臣、知人が「自動車税など200万円立て替え」…返済求められても応じず

【読売新聞】 340万円にも上る税金滞納を認めた神田憲次財務副大臣(60)が13日、事実上更迭された。税理士でありながら固定資産税などを納めず、経営会社の保有不動産が4度も差し押さえられていた財務省ナンバー2の姿に、「辞任は当然だ」…

(讀賣新聞社)

 つまり、内閣と自民党の外に私たちにとって重要な政策の方向性を操作する者たちがいるのです。十四日記事冒頭で申した神田憲次前副財務相の個人情報漏洩も、財務省の手によるものでした。

 ここではよく、霞が関の行政権力を「指定暴力団」と表現し、実際には工藤会にしか適用されていない「特定危険指定暴力団」に財務省(財務組系主計会と主税会)が唯一該当すると説明しています。私たち国民に対する詐欺、脅迫や恐喝に相当する霞が関官僚の行ないは、文字通りの暴力行為であり、この喩えが一例として分かりやすかろう、と。

 そこで本日は、岸田文雄首相が「増税クソメガネ」だの「減税ウソメガネ」だのと多くの国民から揶揄されるに至った政策立案を、財務省の一体誰がやったのか、ここではっきりさせます。

 財務省  新川浩嗣主計局長
      青木孝徳主税局長
 首相官邸 一松旬首相秘書官(主計局主計官から出向)

 主にこの三名が「クソ増税」のための「ウソ減税」という詐欺を立案した実行犯です。

 かつて、消費税率の引き上げを二度も保留した安倍首相(当時)と私たち国民に対する嫌がらせに、理財局と大阪府の「大ポカ」を平然と利用した主計局と主税局は、理財局上がりの佐川宣寿国税庁長官(当時)の出世を阻み、「大阪地検特捜部がお前だけを逮捕するらしい」とわざと耳打ちし近畿財務局職員を死に追いやって、後は左翼・極左が「反アベ」で勝手に盛り上がるよう仕掛けたのが「森友問題」でした。まさに暴力団よりも凶悪な組織です。

 本年七月の人事で、財務省主計局次長から出向していた宇波弘貴官房長(現職)に代わり、六期も飛ばして官邸へ送り込まれたのが一松(ひとつまつ)秘書官ですが、岸田首相とは開成高校(東京都荒川区)の後輩に当たり、省内で既に大物扱いを受けていたことから、それだけ国民に対する詐欺と恐喝が巧いのを意味しています。

 茶谷栄治事務次官も主計局長上がりで、奈良県出身(東大寺学園卒業)ということもあり、奈良県副知事へ出向した経験を持つ一松氏を可愛がっているようです。

 さぁ、皆さんお気づきですね。このような連中が仮にも「高市早苗次期首相」を待ち構えているわけです。

 高市氏は奈良二区選出で、先の知事選挙では明らかな嫌がらせを受けましたが、ともすればそれは、自民党内(茂木敏充幹事長や当時の森山裕選挙対策委員長ら)だけの仕業ではなく、積極財政派の高市氏を嫌悪する財務省の「奈良一派」が絡んでいた、いやそれどころか主導していたかもしれません。

 外務省の有馬裕北米局長(現在)をわが国側代表とする日米合同委員会のように、現行憲法(占領憲法)下では私たち国民の政策を私たちの「民意」で決められないのです。これが占領憲法のいう、左翼・極左が私たちに「ありがたがれ!」とわめく「民主主義」の正体にほかなりません。

 これを打破しない限り、延延と霞が関暴力団と米軍マフィアの奴隷のような暮らしが続くのです。

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『真の減税ウソメガネはコイツ』に2件のコメント

  1. 日本を守りたい:

    こちらさまのコメント欄に書かせて頂きます事に 感謝を申し上げます。
     以下は、十年くらい前に書いた文章ですが、お許しください。統一教会などに騙される人が
     一人でも減るようにと願って 書いた物です。
     
     たとえば、白い鳩は平和の象徴と言われます。白い鳩を見ると、人は精神において 
     あるメッセージを受けます。白い鳩を見なければ生起しない種類の精神的なイメージと
     出会うのであります。そのイメージの呼び名が「平和」なのであります。
     ( もちろん、いろんな平和のイメージとその象徴が在ります。たとえば、
     母と幼児が笑顔で手をつないでいる姿などは、白い鳩に優る平和の象徴と言えましょう。
     ゲンちゃんが以前のメルマガで「人こそは、神を象徴する者である。
     人の実存が如何に堕落していようとも。」と書いた理由であります。)

     白い鳩は、記号( たとえば矢印のようなもの )とは違います。
     記号は便宜上の取り決めに基いているだけのもの ですから、取り決めが変われば、
     記号は取り換えられる事になります。しかし、平和を象徴し得るものは、白い鳩であって、
     白鳥や白サギや白いアヒルに取り替える事が出来ません。白い鳩は「平和」との、
     内的な関係を宿しているからです。白い鳩は「平和」と内的に結ばれているのです。
     白百合が純潔の象徴 というのも同様であります。白百合に劣らぬ美しさの、
     白い牡丹や白椿や白菊など数ある花の中で、純潔の象徴としては、
     白百合が選ばれているのであります。白い鳩が平和の、白百合が純潔の、
     象徴となり得る事には、宗教的な意味が、すなわち超越性と運命性が有るのです。
     このように語る事そのものが、象徴的な言い方なのですが。( なお、「平和の記号」
     「純潔の記号」は そもそも在り得ません。記号には象徴の力が無いのです。)

     平和や純潔といった理想は ただ信じられているものであって、
     論理的に確証されて目標になったものではありません。そして、
     「ただ信じられているもの」ではありますが、決して空想でも夢想でもなく、
     世界の現実の、一つの次元であります。それを人は、象徴によって、
     受け取るのであります。「平和」とは何か? それは「争いが無い状態」などと、
     言葉で説明する以前に、母と幼児が笑顔で手をつないでいる姿や、白い鳩などが 
     象徴しているものなのであります。「神」を象徴する者 その神話によって、
     宗教が生まれました。いえ、正確には、信仰によって宗教が創造されたのであります。
     人は、「神」を象徴する何かと 出会ったのであります。ただし、「神」は、
     「神」を象徴する何か が象徴している神なるもの を、無限に超えている者であります。
     啓示と神秘とは同時であるからであります。神を象徴する何かによって神が象徴され、
     人は神を受ける。しかし同時に神は神自身を隠すのであります。人は神を受けてなお、
     神は秘されているのであります。依然として、神秘なのであります。
     だからこそ、神は偶像に堕する者ではないのであります。

     たとえば「平和」で説明しますと、「平和」は、
     母と幼児が笑顔で手をつないでいる姿が象徴している平和を 
     不断に超えつつあるのであります。深まり、高まるのであります。
     人はそれを受ける事が出来るし、それと結ばれます。しかし、
     それを創り出して、所有物のように扱ったり保存したりする事は出来ません。
     母と幼児は笑顔を失う事もあり、そして、再び取り戻す事が出来ない幼児虐待や
     家庭崩壊を人は経験します。そして、それを未然に防げなかったのです。
     人は、神を受けております。平和を 純潔を 愛を 受けております。
     しかし、同時に、人の実存においては、神から疎外されております。
     神を受けている者である自分自身から、引き離されております。

     釈尊もイエス・キリストも、人の世界と歴史の中に出現した 人であります。
     だから、釈尊もイエス・キリストも 人によってその姿を見られ、その声を聞かれました。
     しかし、ゲンちゃんにとって、それは決定的に重要な事ではありません。
     聖なる者は、その姿を見られ、その声を聞かれてもなお、人にとって、
     隠されている者だからであります。人にとって、
     その人自身の心の深層が隠されているように。
     人の奥底にその人自身の魂が隠されているように。
     聖なる者が象徴している「神」は、人にとって、隠されている現実であります。
     そして、真の現実であります。「神」の関与を受ける事によって、それによってこそ、
     全宇宙が 現実性を得ているのであります。存在が存在と成っているのであります。
     「神」の関与だけが、存在の根底となります。目的となります。
     人はそれを見るのではなく、それによって見られるのであります。
     人は、見えない神によって 見られている。それこそは、
     人の生が最初に 根源的に 経験する出来事なのであります。

     「お天道様は見ているぜ。」突然ですが、これは、ゲンちゃんの記憶に残る 映画
     「男はつらいよ」の寅さん 寅次郎の台詞であります。その場面は、とらやの茶の間で、
      彼は大切な「身内」である面々に向かって言ったのですが、実は、
      彼自身に言わずに居られなかったのでした。お天道様に見られて居場所の無い、
      誰よりも申し訳無い自分である事を知っている寅次郎ですから。さっそく旅立って、
      北海道の大地で彼にとって「聖なる」労働に勤しむ・・・つもりだったのですが、
      マドンナのリリーが現れて、伴淳三郎さんなら
      「あじゃぱー」と言う展開になっちゃいました。・・・

      寅次郎もゲンちゃんも、たぶんおおかたの人は皆、普段は、
      神によって見られている事を忘れております。
      神の関与を受けている事など全く無いかの如くに、生きております。
      しかし、寅次郎は、「お天道様は見ているぜ。」を 時々、
      自分に言い聞かせる男であります。心の中で、黙ったままで。
      寅次郎は「お経は嫌い」だし、マドンナがクリスチャンだからと、
      自分もキリスト教に宗旨替えをするんだと御前様に申し出てしまう、
      表面的には不信心者。しかし、寅次郎は、「お天道様」すなわち
      神を象徴するものによって、見られていると心の奥では感じているのであります。
      宗教の信者ではないけれど、実は信仰と共に生きている男なのであります。
      勝手気ままな風来坊が、しかし、彼を淋しがらせる者と共に 
      旅を続けているのであります。真の孤独を知る者は、神と向き合ったのであります。
      そのわずかな時が、生涯を通して 過ぎ去る事がないのであります。

     宗教的な真理が告げている永遠性とは 限り無く続く時間性の事ではなくて、
     有限性の中に閉じ込められて同じ事を繰り返す時間性を脱却して、
     時間と時間的なものの全てが、時を超えて帰るべき故郷であり往くべき目的であります。
     それによって全ての者が 本当の 本来の それ自身となる次元なのであります。
     人は 歴史は 不断に永遠性に臨んでおります。人は単なる生理過程ではなく 
     歴史は単なる時間の経過でも循環でもないのであります。
     永遠性の関与を受けているので、人は本質と実存の疎外を克服すべく、
     時間性の突破へと促がされます。どんな人も偶像と共に その人にとっての宗教と共に 
     そして神と共に生きているのであります。永遠性は、生も死も超えております。
     そして生と死とに関与しております。永遠性によってこそ、始まるべきものが真に始まり、
     終わるべきものが真に終わるのであります。

     偶像崇拝によって自身を見失い、自身を害ってしまう、
     その危険性に付きまとわれているのが人という者であると ゲンちゃんは思います。
     人は何かを偶像にして自分を結び付ける。それは人が、
     偶像において神を見ているからであります。その神が、
     人の願望によって人が創り出したものに過ぎないのならば、
     人はその神と共に滅びるだけであります。本当には 
     何も新しい出来事は起きなかったのであります。しかし、その神が人の創作物ではなく、
     人を超えた真の神であるなら、人の消す事の出来ない事件が 新しい出来事が、
     既に起きたのであります。死にも優るものが、信仰によって 人に来ているのであります。
     人が 本当に自分を変える 本当に自分自身を得る道に 立っているのであります。拝。

  2. 日本を守りたい:

    https://www.youtube.com/watch?v=OmXwXY7UI3g

    https://www.youtube.com/watch?v=7PspNVxrUDA

    庭の千草 歌詞の意味

    https://www.worldfolksong.com/songbook/ireland/niwano-chigusa.html

     この歌に 私は祈りを感じさせられます。明治の日本人の徳操と気骨を養う一助であったように思われます。義務教育の音楽の課程から 古典的な良い歌を排除する文科省を抜本的に改革すべしと思います。