負け組って何なんだよ!

皇紀2670年(平成22年)5月15日

 平成2年製作・公開の芬蘭(フィンランド)映画『マッチ工場の少女』は、当時私が初めて観たアキ・カウリスマキ監督の作品で、これがいわゆる「敗者三部作」の最終章でした。

 12日記事では『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を取り上げたばかりですが、やはり本作も一切の救いがありません

 カウリスマキ監督は、とにかく余計な台詞を排し、冒頭もただひたすらマッチ工場で作業をする主人公の少女イリス(カティ・オウティネン)の恐ろしいほどの無表情を映し出しています。毎日の決まった生活。家には母親とその愛人。稼ぎ頭はイリスなのです。

 或る夜、イリスはダンスホールに出掛けますが、どの男性からも声がかかりません。そこで給料日に彼女は赤い派手なドレスを新調します。ところが、母親の愛人からは「売春婦」と罵倒され、母親にも「返品してこい」と言われてしまいました。それでもドレスを着て出掛けてみたイリスに、ついに男性からのお誘いがあります。彼女はそれまでの日常に変化をもたらす(冒頭との差でわずかな表情の変化を見せる)ほど喜び、妊娠もしますが、彼にとっては一夜の遊びでした。

 そこで何と、イリスは復讐を計画します。ここは監督も狙って演出したでしょう。薬局で鼠殺しの薬を買うのですが、イリスと店員の会話が極端に短くてかえって面白いのです。

「効き目は?」「イチコロ」「……すてき」

 本当に台詞が少なく、母親とその愛人が一日中かぶりついているテレビから流れる天安門事件のニュースくらいにしか字幕がつかなかったのでは、と勘違いしてしまうほどでした。カウリスマキ監督は、まさに「目で見せる映画」を撮っているのです。

 その演出の見事さは、ダンスホールのシークエンスで彼女の待ちぼうけを表現するのに、やたら足元に増えていくレモネードの空き瓶を映し出しています。もはやこれも笑いを誘いますが、すなわち救いのないような彼女の毎日を決して哀れなだけで表現しないのです。

 確かにイリスは低賃金労働の弱者、敗者、負け組かもしれません。私が世間の評価に反して山田洋次監督の『学校』といった作品をまったく評価しないのは、あくまで「巨匠が巨匠の目線で社会的弱者を温かく取り上げてあげました」という演出しかしておらず、カウリスマキ監督のようなイリスの暮らしに飛び込む演出がまるでないからです。

 こうなりますと、俗に「敗者三部作」と言えど、その「敗者」とは何なのでしょうか。わが国では、小泉構造改革で「勝ち組」「負け組」の「自己責任」が流行りましたが、民族協和、ともすれば皇民化のもとで多民族協和までも掲げた日本らしさが急に否定され、米国由来の拝金主義を有り難がって皆が疲弊したのです。

 今もって経済評論家の勝間和代さんのような「勝ち組幸福論」を叫ぶ人がまだいますが、彼女による若者の起業促進の訴えにしても、そこに「実(実物・実体)」がありません。そのような話を有り難がる前に、勝ち組・負け組というくだらない線引きに疑問をもつべきでしょう。

 私が以前、民主党が高校授業料無償化に踏みきったことで、給食費の無償化まで訴え始めた市民団体の存在を取り上げて批判したのは、無償化のための支給がまず行政の不効率であるという前に、生活保護の問題にしてもそうですが、本当に困っている人とそうでない人の実態が分からなくなってしまった日本の現状で安易な議論をするなと言っているのです。

 分からなくしてしまったのは、この勝ち組・負け組論議の中で、「私も和牛が食べたい」「休日には東京ディズニーリゾートに行きたい」といった願望の膨張と、自らの生活の中でやりくりして幸せを見つけていくという生きていくための知恵、或いは自らの力で生活を向上させていく知恵の低下を招いたことにあると思います。前提として、バブル経済の発生と崩壊や、ゆとり教育の実施も一因だったでしょう。

 一切の救いがないように見えるイリスの人生を、カウリスマキ監督がそのように設定し、静かにだが滑稽に描くことで、実は「救いとは、どこに線引きして言っているのかね」と私たちにまるで問いかけているようです。

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