学友会の左傾化を止めた男

皇紀2680年(令和2年)11月21日

 東映株式会社の岡田裕介会長(本名=岡田剛さん)が十八日午後十時五十八分、急性大動脈解離のため東京都内の病院で亡くなられました。衷心よりお悔やみを申し上げます。七十一歳でした。

 父親の岡田茂元会長が八十七歳で亡くなられたのがわずか九年前のことでしたから、とても早かったように思います。東映を親子二代で支えた映画製作者ですが、実は映画への関わりは俳優としてのほうが先で、しかもデビューは東宝株式会社の森谷司郎監督作品『赤頭巾ちゃん気をつけて』でした。

 とてつもない迫力で「東映を作った」とさえいわれた父親に比べてスマートな印象の方で、豪快極まる(或る意味とんでもない)エピソードに溢れた「天下の岡田茂」のご長男として大変ご苦労されたことも多かったのではないでしょうか。

 現に岡田茂路線ともいえる「不良性感度」は不得意で、英国のデヴィッド・リーン監督(『アラビアのロレンス』など)を敬愛していたといいますから、一本立ち初の製作作品は自ら二・二六事件を題材に選んだ『動乱』(森谷司郎監督、高倉健・吉永小百合主演)を大ヒットさせ、見事に東映のイメージを変えました。

 それまでの東映は、やはり「不良性感度」であり、またそのようなタイトルをつけることを得意としていた岡田茂路線でばく進していたころです。私は東映京都撮影所の映画人たちから大学在学中も卒業後の勤務中もさまざまなことを教わりましたから、そのあたりの話はよく知っています。

 阪急(阪神急行)電鉄の小林一三が東宝(東京宝塚)を、その小林に見染められた時から財界人の道を切り開いた東急(東京急行電鉄)の五島慶太が東映(東京映画)を作ったのですが、その社風は大きく違いました。東映の映画人たちがよく「東宝さんはええわ、映画館が駅のすぐ近くにあって。東映はたいがい不便なとこにある。それで同じように興行成績競えって、そらムチャクチャや」とぼやいておられたのを覚えています。

 これは特に昭和から平成初期までの大阪市内の東映直営館の立地を指しており、梅田も難波も東宝は駅前(北野劇場、南街劇場)にありましたが、東映映画を観ようと思うと大阪駅から御堂筋を少し南下したところ(昔はその近隣に大映や日活の直営館もあった)、或いは道頓堀(松竹座やかつて中座、角座などがあった芝居小屋街)まで駅から歩いたものです。

 しかしながら数ある「岡田茂伝説」の中でも私が最もしびれたのは、当時の東映と山口組(田岡一雄組長)の関係を不快とした兵庫県警察が「岡田を東映社長(当時)から引きずり降ろす」などという政治的目的で東映本社などを家宅捜索、岡田社長と高岩淡のちの社長・日本アカデミー協会会長に厳しい取り調べを行なったことを特に岡田社長が激しく恨み、そうして出来上がったのが『県警対組織暴力』(深作欣二監督、菅原文太主演)でした。

 何といっても「海抜ゼロメートル」という原作を『二匹の牝犬』と命名するような岡田社長は、便所でこのタイトルを思いつき、撮影所中を「撮ったれー!」と広島弁で叫んで回ったといいますが、脚本の笠原和夫先生(『二百三高地』や『大日本帝國』など)は「そんなタイトルで本なんか書けるか」と思ったといわれるものの、これは今なお「脚本のお手本」とまでいわれるほどの傑作です。

 岡田茂元会長は、それでも東京大学経済学部のご卒業でした。その学友会を日本共産党が仕切ろうとしていることに気づいてこれを追い出したという武勇伝の持ち主ですが、ご本人は特定の思想に全く拘泥しない人だったそうです。

 その精神は、ご長男の岡田祐介会長やご長女で生命倫理学者の高木美也子女史に引き継がれています。つい父親の話ばかりしてしまいましたが、東映の岡田親子は、松竹の「奥山親子(奥山融元社長と奥山和由元専務)」とは違って幸せな成功の道を歩まれました。

 久しぶりに東映映画が観たくなってきましたね。

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『学友会の左傾化を止めた男』に1件のコメント

  1. minato:

    遠藤健太郎 様
    いつも有難う御座います。
    大変興味深く拝見させていただきました。