理不尽を経験しない子が…
この記事を読んで思わず吹き出してしまったので、皆さんにもご紹介しておきます。以前から正体のよく分からない荻上チキ氏は、本気でこんな活動をしているのでしょうか。いや、よく分からない人だから本気でやっているのでしょう。いい歳した大人が恥ずかしくないのでしょうか。
校則に対する理不尽を訴え、学校と折衝しようとするのは、生徒会の活動として聞くことが稀にあるとして、もう一度確認しておきますが三十六歳にもなったいい大人が会を立ち上げてやることではありません。
「生徒会の自治権(なんぞと申してはみましたが早い話が『子供の世界』)に対する不当介入」とまでは申しませんが、子供の不満を聞いてやることはあっても「だったら自分たちで校長先生に頼んでみな」ぐらいのアドヴァイスをしておくところを彼は、一体今度は何の権利闘争(破壊活動)に繋げようとこんなことを始めてしまったのでしょうか。
確かに各学校則には、甚だ目的の不明なものもあり、納得がいかなければ(高等学校の場合)そもそも受験しません。入学したい学校を選ぶことはできるのですから、私はそうしました。学区制に於ける公立中学校でどうしても気に入らないのなら、私立を探せばよいですし、そんなお金がある家庭ではないというのなら、やはり入学してから学校長と話し合えばよく、それでもらちが明かなければ教育委員会に相談したり、地方議員に問題提起してみてはいかがでしょうか。子供でもそのぐらいのことはできます。
理不尽と向き合うということはそういうことであり、理不尽がそこにあるというのもまた、大変な人生勉強になるのです。近ごろの教育は、特に子供の危険回避に躍起になりますが、危険な目に遭ったり理不尽なことに出くわしたりすることで人は一人前の大人になります。大人の世界は理不尽なことだらけですから、子供のうちに経験させておかないと可哀想です。
荻上氏は、こんな活動が「すきすきだいすき」なのでしょう。今度は女子高校生にでも手を出してまた……いや、やめておこう。どうしたらこんなお勉強しかできない莫迦に育つのか。
皇紀2678年(平成30年)8月12日 10:28 AM
例えば、関東地方などでも、創立100年を超える古い学校だったりすると、大昔の校則の名残なのか何なのか、わりと最近に至るまで「(授業中に)方言を使用しない」といったとんでもないものがあって、先生も生徒も「あはは!ギャグかよー!w」とお腹を抱えて大笑いしていたという話を聞いた事があります。
いわゆる現在の共通語というか「標準語」は、明治以降に一部上流階級の言葉などを参考にして、人工的に整備されたものですから、それを浸透させるために、首都圏の学校であってもそうした校則を設けていたのでしょう。(つまり、関東人も昔は相当なまっていた?)
皇紀2678年(平成30年)8月13日 8:45 PM
特に近頃、様々な場所で「大人の世界は理不尽だらけだから、それに耐える力を身に付けよ」という論調が散見されますが、どうも個人的に受け入れ難く思います。上手く表現できないのですが、耐えることができるのであれば、それは理不尽とは呼ばないのではないか、と。つまり学校や教育委員会、地元代議士らへ陳情する権利が保証されている以上、よほどのことが無い限り「耐え難い苦痛」を味わうこともないし、そもそも耐えられない思いをしてまで学校なんぞ行く価値のある場所ではないと思います。かなり前になりますが、武田鉄矢さんが「学校とは、学校という場所が自分に合っているかどうかを見極める場所である」と話していたのを深く賛同したのを思い出します。もちろん学校という共同体における「ままならないこと」を自らの知恵と工夫と周囲の助言によって解決する経験は何物にも代えがたいものです。しかし、「理不尽なことにも耐えろ」という発想が例えば凄惨な虐めを受ける子たちに忍耐の強要と自己肯定感の収奪を招いてしまわないか、それだけが心配なのです。
で、私も昔から誰に需要があるのか全く理解できない荻上ナントカ氏のやっていることは、一見立派に見えるものの実際は学生から「問題に向き合い、知恵を出し解決する能力」を奪ってしまう「勉強のできる莫迦にありがちな、余計なお世話という名の偽善」であり、今風に言えば「キモさ爆発」のLINEを流出させた「乱痴気」なんぞを文化人扱いしてレギュラー番組を持たせるTBSラジオも底なしのクズです。一度でも不倫を犯した人間を教育の現場に介入させるなんて、どう考えてもおかしな話でしょう。こういうことこそが本当の「理不尽」というものです。