橋下批判と批判への批判
11月27日に投開票される大阪市長選挙と、その経緯から同日投開票となった大阪府知事選挙を前に、橋下徹知事に対する人格攻撃が週刊誌を舞台に始まりました。
このいわゆる「橋下批判」は、文字通りただの人格攻撃であり、その一角を成した関西学院大学の野田正彰教授(精神科医師)は、山口県光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審で、被告を精神鑑定した人物です。
事件の裁判を巡って、かつて橋下辯護士(当時)と被告辯護団が対立したことは、皆様もまだご記憶にあろうかと思います。野田教授は、国旗・国歌に反対する極左政治行動に余念がない東京都立学校教職員を取り上げて、彼らの人権を蹂躙するような「起立・斉唱強制」があったとし、これを「君が代症候群」などと主張していたわけですが、橋下知事の批判には、それこそ知事のご家族の人権を蹂躙するような記述が並べ立てられていました。
橋下府政や、掲げている政策を批判するのではなく、知事の出自について「父親が暴力団員で、自殺した」「彼は子供の頃から嘘吐きで、彼を評価する学校の先生は1人もいない」といったことだけを書き並べるような人物に「人権」を語る資格は全くありません。
私に対するインターネット上の批判もそうですが、どれもまるで批判になっていないものばかりで、少しでも「国旗掲揚、国歌斉唱は当たり前」と述べる橋下知事や私のような人物を見ると、必ず何者かたちがこの手の人格攻撃を始めるのです。そして、そのような方々は間違いなく別の場面で「教師と子供たちの人権を守りたい」などと平気で語ります。
地域政党「大阪維新の会」を立ち上げた橋下知事と、市長選挙に臨む氏に対しては、もっと意味のある、本来どうすべきかという批判が成立しないのでしょうか。
私は当初から、橋下知事のことを「保守派だ」と手放しで応援したがる方に「違う」と申してきました。だからこそ、氏のやった良いことと悪いことを冷静に見てきたつもりです。
橋下知事が「大阪都構想」をぶち上げた根っこには、府知事になったものの政令指定都市である大阪市と堺市にはほとんど手がつけられず、氏にしてみれば「(失礼な話だが)田舎ばかりをいじらされる」という不満があったようで、大阪市の財政が立て直されつつある中、府は相変わらずで、市が持っている資産をどうしても手にしたい欲求に駆られたということがあるでしょう。実際には、大阪府知事にも大阪市長にも大阪を「都」にすることは出来ません。政府が認可しないに決まっています。
府が各市町村と連携して諸事を調整していくという本来の職務に我慢しきれなくなった橋下知事は、出来ないことを公約に掲げており、出来なければ政府を批判して事を終わらせ、ほかの政策をもって支持を集約しようと考えているのでしょう。
その一つが、府の教育基本条例案です。これを支持したがる方に申したいのは、仮にも可決・成立ののち、大阪府に日本共産党の知事が誕生した場合、これがどういうことになるかよくお考えになってから賛成していますか? はっきり申し上げて、府の案と同じものが兵庫県で施行されれば、現知事(日教組・自治労支援)の時代で既におしまいです。
橋下知事らが掲げた「知事による教職員人事の直接介入」というのは、好意的に考えて橋下知事なら面白い展開になるかもしれません。しかし、氏の主張していることは、民主党の輿石東幹事長という「日教組の代弁者」が言い放った「教育の政治的中立はありえない」と同じなのです。
私は日教組と戦って、彼らの手口と腹の内がよく分かっただけに、このような継続性を許さない法案や条例案には、誰よりも警戒するようになったのかもしれません。
橋下知事が「保守派」でない理由は、ただ一つです。氏は結局のところ「革新派」と寸分違わぬ同じ考え方であり、個人の理性と意志と心情に準じて一切の疑いを持たず、叶うならば天皇陛下をも選別・格付けするというような思想を巻き散らしているに過ぎません。
懸命に職務を果たす多数の職員たちを尻目に、政治行動を優先して個人の権利を誇大に主張する中核派職員たちを、何としても公務の場から外して欲しいと願います。それでも、橋下知事らの政策は、地方自治としてあまりに無意味なのです。
全国の公営で唯一黒字経営を継続している大阪市営地下鉄を民営化してどうするのですか? 部落解放同盟との距離を置けないでどうするのですか? 同和行政はとっくの昔に終結したのです。
地方自治が何のためにあるのか、私たちはもう一度よく考えるべきです。公務員が労働組合を組織し、教育が偏向し始めた原因は、政府が作り出したものであり、出来るなら橋下知事は「一首長として政府に国史教育案を提示する」「日教組、自治労が地方自治の障害になっているため、その解体を要求する」と、実際に出来ることを主張して選挙を戦って下さい。