クルド人が取材者を脅迫訴訟
最近の神戸大学(神戸市灘区六甲台町)は、「偏差値30」とかでも入学できてしまうの? こう申しては何ですが「現Fランク大学」に至るまで難関校と言われた受験戦争時代をくぐり抜け、卒業するころには、政府にわが国経済を「焼け野原」にされていた私たちの人生とは、一体何だったのでしょうか。
日本銀行が金融緩和政策を見直し、いわゆる「マイナス金利」を解除しましたが、消費税導入からじわじわと企業が生産性を下げ、給与を上げないよう息をひそめ始めたわが国で、且つ外的要因による物価上昇(コストプッシュ・インフレーション)にすぎない現状のまま金利政策を変更してしまえば、世に言う「経済格差」がもはや手のつけられないほど一層加速してしまいます。
第三次安倍内閣の平成二十八年一月に始まったマイナス金利政策は、安倍晋三元首相の経済政策(アベノミクス)が成長戦略なきまま日銀(黒田東彦前総裁)の量的金融緩和に頼ったため、私は当初から「これでは失敗する」「やはり失敗した」と申してきましたが、これは成長戦略、財政出動、金融緩和の順序を間違えたのであって、緩和そのものが間違っていたわけではありません。
仮にもこの順序が正しく、成長戦略に実体があれば、今ごろ大手を振って緩和を解除できたでしょう。しかし、消費税法の無効(消費税廃止)にすら手をつけられない現状で、企業の生産性が回復する兆しも、給与が上昇してスタグフレーション(給与下落のまま物価上昇)から抜け出せる要素も何もありません。
植田和男総裁は、旧大蔵官僚上がりの氷見野良三副総裁らと共に、一体どのような理由に基づいて緩和解除へ飛び降りたのか、今まさにビルの屋上から突き飛ばされそうな私たち国民が納得のいく説明などできるのでしょうか。もし「円安をどうにかしたい」と一言でも口にしたら、俗に「失われた三十年」と言われたこれまで延延と続いた異常な円高がようやく解消した現状を「ぶち壊したいのか」と詰問したいところです。
ただ、会見で「緩和的金融環境」などと中途半端な発言をするから、円高逆戻り現象は起きませんでしたが。
現にわが国の物価上昇率は、他国と比較してこれでも極めて低く抑えられています。経済を説明する出鱈目な連中が「円安だ、大変だ」と言うのが本当なら、未だ五百ミリリットル入りの清涼飲料を百五十円前後で買えたりはしていないでしょう。例えば韓国では、同量のコカ・コーラが二千三百ウォンまで値上がりしていますが、わが国もそうなっているはずです。
日銀の一貫した政策について、何一つ目標を達成していないにもかかわらず、またも私たち国民の多くを切って捨てようというなら、まさに政府も日銀も対日ヘイトスピーチ(憎悪差別扇動)権力でしかありません。緩和解除を歓迎する金融機関などその他企業があり、人びとがいるのは知っていますが、私はこれを徹底して批判します。
さて、前段が長くなって申し訳なかったのですが、極めて重大な対日ヘイト事件をここで取り上げないわけにはいきません。一部の在日クルド人が起こす非道な暴力行為について取材してきた石井孝明氏が、その当事者たちに脅迫的(スラップ)訴訟を提起されたことは、既に昨年十二月七日記事の冒頭で言及しました。
私も産經新聞社も、この問題に言及する際、初めから一貫して「一部の在日クルド人」と注意深く申してきたはずです。それが令和二年六月十六日記事で取り上げたころは暴力的騒動を「支持しない」としていた日本クルド文化協会(埼玉県川口市)が、わが国へ続続と入国して難民申請するクルド労働者党(PKK)のテロリストたちと深く交わり始めてからなのか、それとも実は最初からなのか、先月二十二日記事で取り上げたワッカス・チョーラク事務局長と思しき在日クルド人による「日本人死ね」などの事件を起こすようになり、大きく問題視せざるをえなくなりました。
彼らの背後には、いつもの社民党もいるでしょうか。或いは、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)の構成員が「こうして騒げば日本社会は折れる」と指南している、という話まであります。
その結果、川口市の惨状を取材しただけの石井氏を責め立て、訴えるという「それ自体が暴力行為」に出た一部の在日クルド人を、どうして私たち国民が受け入れられましょうか。
川口市民の声に耳を傾ける覚悟を決めた産經新聞社も、彼らに何をされるか分かりません。石井氏を「殺す」「ここに死体を持ってくる」などと脅迫して逮捕されたクルド人が不起訴だったら、よもや石井氏がこの裁判で敗れるなど、あってはならないことです。
この行方如何(左翼・極左司法権力の行ない)によっては、もう本当に彼らを許さない決意をさらに強くしなければならないでしょう。大変な問題へと発展しないうちに、暴力行為に及ぶ一部の在日クルド人を強制送還(難民申請の不認定)にしてもらわねば、私たち国民の暮らしの安全が守られないのです。
皇紀2684年(令和6年)3月20日 12:55 PM
札幌の裁判所で 同性婚に関わる判決が出されたとか。
どうせ読むに値しない判決でしょうが。以前に載せて頂いた文章の一部から
今一度 同性婚について書きます。お許し下さい。
「唯一つの 大切なもの」
唯一つの 大切なもの。
それを 人は 直接に知る事は無いと ゲンちゃんは思います。
直接に知る事は出来ないし 直接に知る必要も無いのだと
ゲンちゃんは思います。
それこそは 何と幸いな事でしょうか。つまり、
人は 如何なる宗教からも 解放されるのです。
解放されて良いのです。
野の草花の一つでさえも 最も優れた宗教の神話の神に代わって
人の内部に関与する事が出来るのです。
言葉に優る対話を 人にもたらしてくれるのです。
言葉が語り得ない 存在の秘められている義を象徴してくれるのです。
( ここまでが 以前の文章です。)
人は本質的に だから全ての人が 自由なる存在です。
そして人の自由には、限界がありません。
人は限りなく自由なのです、義を求める限りは。
義は時間的なものではない。時間を超えているものです。
永遠性に連なるものが 人に与えられているのです。
男が父と成る事 女が母と成る事 そのようにして生命が
新たに生まれ新たに受け継がれていく
それは存在の根底からの 義の促しと導きによってなのです。
男と女が結ばれる事 それは単なる性愛の欲求が達する地点を超えた
義に至るための歩みなのです。
だからこそ、結婚は、人に与えられる最高の祝福から始まるのです。
以前に書いた事を今 もう一度 書きます。
同性婚は、結婚の名に値しません。
存在の秘められている義を 秘められたままにしてしまうか、
不滅の火のように体現するか。その自由こそは人の至高の可能性です。
人こそは、如何なる宗教的象徴にも優って 神を象徴し得る存在なのです。
たとえその実存が 如何に堕落していようとも。
人は、神の高み 神の深みを 知り得る者なのです。
この幸いのためにこそ、人生があるのです。
死が間近に迫って 愛弟子アーナンダに語ったという釈尊の言葉を
再び書きます。「この世界は美しいものだし、人の生は甘美なものだ」
若い人たちには、如何なる妨げにも負けずに 結婚を成就して欲しいと
私は願わずには居られないのです。拝。
皇紀2684年(令和6年)3月20日 7:04 PM
最近、常識の欠如したおかしな裁判官が多いですから、
気を緩めてはなりません。