テロ非難で防衛職員が懲戒

皇紀2683年(令和5年)7月30日

 今夏も昨夏に引き続き、いやそれ以上の酷暑が続きそうです。皆さん、くれぐれもお身体ご自愛ください。

 災害級の酷暑が始まった先週、一部報道に「ノーベル賞受賞物理学者『気候変動は存在せず』が物議 CO2には良い面も? 専門家『自然変動でも大雨は増減』」という記事が出ましたが、この元記事は、The Daily Sceptic配信記事です。

 以前から申していますが、私たち人類の所為(CO2=二酸化炭素の排出)程度で地球の大きな気候変動を招くというのは、実に尊大な思想に思えてなりません。多くの学者が指摘しているように、むしろ地球は、緩やかな氷河期に差しかかっています。

 国際金融資本が目をつけた「CO2排出利権」は、自然科学に基づくというより政治・経済の分野で決まった結果として誕生したもので、あくまで国際的利権の都合でしかありません。

 それが環境保護ビジネスを生み、その副産物として環境保護テロリズムが跋扈するという未だ進歩しない人類社会の仕組み通りに物事が進んでいるだけです。自然に対する感謝畏怖の念も、そこには全く存在しません。

防衛局職員を減給処分=辺野古移設反対派に不適切発言―沖縄

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設を巡り、防衛省沖縄防衛局は28日、埋め立て工事に使用する土砂を搬出している同県本部町の本部港で、移設反対派の市民に対し不適切な発言をしたとして、60代の非常勤職員を同日付で減給15分の1(1カ月)の懲戒処分と…

(時事通信社)

 テロリズムと言えば、沖縄県に集結する対日ヘイトスピーチ(日本憎悪差別扇動)集団による「反基地闘争」も酷いもので、現行憲法(占領憲法)を放置し続ける限り「在日米軍基地提供条約」にすぎない日米安保条約に基づく在沖米軍基地に疑問を呈するにしても、政府が国民を守る義務までもを否定し、暴力を繰り返して県民を困惑、疲弊させ続ける「市民(という名の活動家)」が正しいわけなどありません。

 防衛省沖縄防衛局はこれまで、職員がこの活動家たちに取り囲まれ、暴力をふるわれたことがあり、県内のこうした惨状を伝える動画にも記録されています。

 むろん「差別発言」は人権問題ですが、活動家の暴力、暴言を野放しにしてきたからこそ、防衛局の職員たちも矢面に立たされるのであり、面前で暴言を吐き散らされれば言い返したくもなるものです。

 この非常勤職員は、結局退職してしまいましたが、暴力の根源は無処罰で、彼だけが懲戒処分されたというのは、行政の責任としていかがなものでしょうか。先述の通り活動家を野放しにしているのは、政府の責任です。

 その政府の末端として、言い返したのはまずかったかもしれませんが、不公平に重い処分だったと思えてなりません。この職員をここまで厳しく処分したのであれば今後は、破壊活動家を徹底検挙するよう警視庁、警察庁へ指示を出して下さい。

 行政の長は岸田文雄首相、あなたです。

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『テロ非難で防衛職員が懲戒』に2件のコメント

  1. きよしこ:

    何かと「災害級の猛暑」と強調する(事実ではありますが)報道機関は、今冬の「災害級の寒さ」を忘れたのでしょうか?あの当時から個人的に「この夏は大変な暑さになるぞ」と思っていましたが、今年に限らず夏場こそ酷暑を根拠に「地球温暖化」を連呼するものの強烈な寒さを根拠に「冷却化」を疑う報道は見たことがありません。私は「冷熱二極化」と呼んでいますが、つまるところ報道権力を頂点とした利権集団にとっては暑さで人が死ぬのは問題だけど、寒さで死ぬのは問題なしということでしょう。とんでもない差別主義的発想です。

    それが巡り巡って反基地活動家の言動は「権力への正当な批判」、警察や防衛局職員のそれは「虐げられた弱き市民たちへの卑劣な暴言」とする醜悪な差別構造を生み出しています。「話せば分かる」は、反基地活動家のような精神異常者には通用しないのです。であればこういう時こそ行政権力を存分に活用して徹底的に排除すべきです。それができなければ行政機関など必要ありません。

  2. 日本を守りたい:

    私は、以前 「宗教的真理とは 如何なるものであるのか」をテーマとして、メールマガジンを発刊していました。ここに、その中の一部を 転載させて頂きます。よろしければ、お目汚しですが、どうかご高覧ください。

    「若い人たちへ」

       私は 少年・少女の自殺が報道されるたびに 心が痛みます。

     自殺者のあった学校では、その後に 校長先生が「生命の大切さ」を説くようですね。
     では、何故、生命は大切なのでしょうか。大切だと言い得るのでしょうか。

     それは、人が、「大切なものと結ばれているから」なのです。
      
     「結ばれている」というのは、宗教的な象徴の力を有する言葉です。
     偶然性・時間性を超えた 約束の成就であり 永遠性に連なるものです。
     別の言い方で言えば、外的な関係ではなく、内的な関係 
     すなわち 人の内部で既に起きてしまった出来事であり、
     この事件に気付かせられる事こそは 「信仰」と呼ばれるべきものなのです。

     「信仰」とは、特定の宗教を信じ込む事ではなく、
     人生への ただ一つの確かな態度の事なのです。
     それは 人生を 根底的に受容して肯定する事なのです。

     そして このような「信仰」は、恩恵として与えられるものであって、
     人が自力で掴み取るものではありません。
     親鸞の 「本願他力」という言葉の意味するところです。

     繰り返し言わせて下さい。
     人は、既に、大切なものと結ばれているのです。
     それは 如何なる悲惨な運命によっても 絶たれる事の無いものなのです。

     人の宝 すなわち尊厳と喜びは 人の内部に在るのです。
     その泉は涸れる事が無く 常に新たに湧き上がるのです。

     若い人たちは いろんな困難にぶつかり 悩みもするでしょうが、
     恐れる必要は無いのです。大切なものと結ばれているのですから。
     この事を心に留めていてくださいね。拝。