安倍氏慰霊碑は個人崇拝か

皇紀2683年(令和5年)1月9日

 岸田文雄首相(広島一区)は九日未明、仏伊英、英連邦加州、米の順に歴訪のため、政府専用機で羽田空港を出発しました。五月十九日から二十一日に広島市で開かれる第四十九回先進七か国首脳会議(G7サミット)のいわば「地ならし」が目的です。

 旧年中に令和五年内の衆議院議員解散総選挙を断言してしまった私ですが、報道権力各社が予想している通り解散の決断は、四月の統一地方選挙を経てG7サミット以降になるでしょう。

 何が何でも自身の選挙区に巡ってきたG7サミットを自らやりたいと思うのが政治家です。平成十二年七月の第二十六回G7サミットを沖縄県でやると決めた小渕恵三元首相(在任中に死去)は、さぞやりたかったことでしょう。

 結局は森喜朗首相(当時)が出席しましたがその際、米民主党のビル・クリントン大統領に「出鱈目な英語(Who are you?)で挨拶した」などと報道権力に書き立てられました。

 実はこれが、毎日新聞社の高畑昭男論説委員(当時)によるとんでもない作り話だったのです。しかし、未だにこれを信じて森元首相を揶揄する人がいます。

 サミット以前のいわゆる「神の国」発言などが著しく気に入らなかった対日ヘイトスピーカー(日本憎悪差別扇動家)によるこの種の捏造は、今なお脈脈と続いているのです。

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(産経ニュース)

 森元首相は、そうした悪質な捏造報道に対し「森喜朗という個人を誉めてくれなどと言っているのではない。しかし、そういう報道が日本の首相、ひいては日本そのものを貶めている」と批判しています。

 私も森元首相を批判したことが数えきれないほどありますが、もともとは英語が話せない韓国の金泳三大統領(当時)を巡る韓国内の冗談を森首相に意図して置き換え、対日ヘイト各人がまき散らした捏造を許せません。

 安倍晋三元首相が訪台を前に暗殺されてしまったことについても、台湾高雄市の皆さんが寄付を募って建ててくれた銅像を、安倍元首相個人ではなく日台友好の精神そのものが讃えられたと思っています。

 私の祖父は、地元で上がった銅像建立の話を断りました。個人崇拝を嫌ったからです。祖父は、大東亜戦後の困難な行政を「自分一人の功績ではない」と語っていました。

 そうした環境で育ったからか私は、空港や道路などの社会基盤に個人の氏名をつける諸外国の慣習がどうにも慣れません。タレントの神田うのさんが羽田や成田空港を「安倍晋三国際空港」にしてはどうかと提案されたのは、そうした慣習をわが国にも導入してはどうか、とのものでしょう。

 国際社会では何の違和感もありませんから、それなら山口宇部空港を「伊藤博文空港」、或いは戸塚道路(横浜市戸塚区)を「吉田茂通り」と名づければよいと思います。

 少なくとも安倍元首相が暗殺された「異常な街頭演説場所」を証拠隠滅のように消し去るのはいかがなものでしょうか。

 東京駅構内には、大正十年十一月四日に丸の内南口で暗殺された原敬元首相の、さらに昭和五年十一月十四日に当時の第四ホームで銃撃された濱口雄幸元首相の遭難場所が記されています。

 濱口元首相は一命を取り留めましたが、それでもホーム直下の現中央通路に印が施されており、後世の私たちに伝えているのです。安倍元首相の遭難場所がかき消されることへの抵抗は、当然のものと思います。

 これらは、個人崇拝ではありません。たとえ暗いものでも歴史を後世に伝えるためです。「二度とあってはならない」と思えばこそであり、これに反対する者は、個人個人が嫌いな人物を「いつでもどこでも殺してよい」と言うのでしょうか。

 そうして互いに殺し合えば、もう誰も生き残れません。それが戦争の恐怖です。口では「反戦平和」を語る護憲派が安倍元首相を激しく嫌いながら、ことほど左様に好戦的である事実を、私たちは徹底して非難し、精一杯拒否なければならないのです。

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『安倍氏慰霊碑は個人崇拝か』に1件のコメント

  1. きよしこ:

    事件の内容やその衝撃の大きさから、たしかに慰霊碑や石碑を設置するのに抵抗を覚えるのも無理はありません。しかし、当該の道路の整備の中止を求める声が多いのは奈良市と奈良県警こそが真相究明許すまじとばかりに証拠隠滅を図ろうとしている魂胆が余りにも明け透けだからです。安倍内閣時代に口を開けば「真相は闇の中」だの「事実関係を明らかにせよ」だの騒いでいた面々はこの凄惨な事件に関する真相を追求しないどころか死してなお個人の侮辱に余念がありません。無抵抗のまま一方的にその生命を奪われた人に対して、せめて手を合わせ故人を偲ぶための場所を設けることの何が悪いのでしょう?個人崇拝などという誇大妄想を展開する人たちこそ安倍元首相を「いくらでも名誉を傷つけて構わないサンドバッグ」として崇拝しているのです。いったい何が「反戦平和」なのでしょうか。