表現の不自由な会場変更
民間が自由に言論・表現の場を求めることに対し、私は抗議しません。あいちトリエンナーレの問題は、愛知県などが主催して公金を投じていたにも拘らず、不敬極まりない特定の政治思想活動を見逃したから抗議しました。
表現の不自由と申せば本来は、大島渚監督の映画『愛のコリーダ』に端を発した訴訟に代表されるような性表現の不自由がわが国では極めて多く、海外の映画監督からも批判されたことが何度もあります。
さらに、例えば旭日旗に「日本万歳」と筆でしたためた書作品を、同じく表現の不自由でほぼ取り扱われないにも拘らず、なぜこの展覧会では同様に扱わないのかという問題があり、特定の政治思想に傾倒してしまっていることは明らかでした。
そうであるからこそ、どこでやろうとしても抗議を受けてしまうでしょう。抗議するのも表現の自由の訴えですから、主催者たちが自由を叫んでこの種の展覧会をやろうとすればするほど抗議を受けるのは必然です。
都合よく「自分たちが右翼的なイヴェントに抗議して潰すのは自由。自分たちが右翼的な人びとに抗議され潰されるのは不自由。法的措置を講じます」というのは、まともな表現・言論活動として全く通用しません。「恥を知りなさい」というのです。
皇紀2681年(令和3年)6月11日 4:29 PM
左翼だったら「あらゆる差別表現に対する規制を撤廃せよ!」と叫んで欲しいですよね。