二宮尊徳像を撤去する理由

皇紀2672年(平成24年)1月27日

 映画『旅芸人の記録』『霧の中の風景』などで知られる希国のテオ・アンゲロプロス監督が二十四日、交通事故で亡くなられました。思想の映像化に挑み、共産主義の理想的部分を追求して決別した意欲的な監督で、その長回しの多用には観るほうの辛抱も必要でしたが、私の中ではいまだに『旅芸人の記録』は忘れ得ない作品です。心よりご冥福をお祈り申しあげます。

 さて、わが国ではその思想が真っ当な議論になりません。

 http://mainichi.jp/life/edu/news/20120125k0000e040231000c.html
 ▲毎日新聞:二宮金次郎像:勤勉精神いまは昔、各地で撤去相次ぐ

 江戸時代の農政家で、いわゆる「作られた逸話」によって全国各地に設置された二宮尊徳の像と、戦前教育を悪として、その名残であると切り捨てることに何の関係があるのでしょうか。

 児童がまねをしては危ないと言いますが、勤勉と勤労を語る気力を失った大人たちの怠慢です。自分たちに語る資格があれば、このような危惧はありえません。自治労・日教組がはびこる地方では、これほど莫迦げたことが起こるのです。

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『二宮尊徳像を撤去する理由』に1件のコメント

  1. 千絵:

    あの像を失くしてしまうんですか…。
    例えるなら“(努力する姿の例え)高価な宝石を買うため必死に貯めていざ、買いました。 (失うと言う事に対する例え)でも一度もつける事なくよそ様にさしあげるようなもの”ですよね。 “努力の象徴”とも言えるものを失うと言う事はそう言う事ですよね。 それほどの損害に値すると言う事にもつながる。

    失くしてしまうなら現在の大人達、そして子供達は戒めになれそうなものがないと言う状況の中でね、そうでなくとも大体の方々は安楽に先走るものなのに“努力する”と言う事を忘れてしまう。 忘れてしまうと言う事は成長しない、と言う事につながりますよね。
    自分の努力している姿と人脈と言うものは決して他人に見せてしまってはならないものでしょうし、成長するきっかけとなりうるものは自分自身が見つけるものでもあるでしょうけれども、その“きっかけ”になれると思いますよ、この像って…。 失うものが大きいじゃありませんか。

    努力しないと言う事は例えば何かがあった時、反省する気持ち&(短所や苦手な分野に対して)改める気持ちもそこに存在しないじゃありませんか。
    大体、そんな人達に共通するもの、それは何かにおいて失敗した時、他人のせいにするんですよね。 それでいて、(大して普段から努めないのに)たまたま成功するような事でもあれば自分の功績だと言うふうに自惚れてしまう、そんな人になってしまう傾向もないとは断言しかねます。 ひとつの事があらゆる事につながる、と言う事です。