【高市大収穫】さよなら創価公明

皇紀2685年(令和7年)10月10日

 本日午後、自民党の高市早苗総裁と創価学会公明党代表の斉藤鉄夫氏が会談し、それを終えると斎藤氏が記者たちに「自公連立政権は一旦白紙とし、これまでの関係に区切りをつけることとしたいと思います」と一方的発言に及びました。

 高市総裁の誕生から私は「創価公明を叩き出す好機」と何度も申してまいりましたが、こうも早く、むしろあちらから「叩き出されます」と言ってくれるとは、初めは高市総裁への脅迫のつもりだったでしょうが、引っ込みがつかなくなって自爆した模様です。

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 これで国会での首班指名がどうなるかと申しますと、衆議院に於ける自民党の議席数が196で、創価公明が24、合わせて220議席であり、過半数の233には及ばないので「岸破森進次郎」が日本維新の会との連立を模索していました。

 しかし、かつて石原慎太郎元運輸相(元東京都知事)が「公明党は必ずあなた方の足手まといになるでしょう」と警告したのち、創価公明を「」と表現した麻生太郎副総裁(元首相)が国民民主党と政策協議を進めており、仮に自国連立政権が成立すれば国民民主の27議席が加わって計223になります(※注)。

 つまり、自公連立よりわずかでも増えるわけです。立憲民主党幹事長の安住淳氏が国民民主の榛葉賀津也幹事長を呆れさせるほど首班指名をめぐる揺さぶりをかけたのもこれを阻止するためでしょう。

 早速始まった「高市内閣阻止」の動きは、まだ組閣もしていないうちに激しさを増しており、安倍晋三元首相が返り咲いた時ですら起きなかった創価公明の倒閣工作によってますます対日ヘイトスピーチ(憎悪差別扇動=反日左翼の思惑が明け透けになっています。

 安倍元首相が返り咲いた時に創価公明ができなかったのは、自分たちも政権に復帰したかったからであり、高市倒閣に持ち出した「政治とカネ」などという理由は、嫌がらせ目的をも達成する後付けです。

 また明日配信の記事でも述べますが、兎にも角にも多くの国民の皆様、ようやく「変な政権の枠組み」が終焉を迎えました。これも高市総裁のお手柄であり、この選択は正しかったのです。

 前政権の「間違えて終わった人」が何か喋ったようですが、まんまと創価公明に邪魔されました(話題を持っていかれた)し、何もかもに於いて皆様、おめでとうございます。

 (※ 国民民主が連立を否定すれば、来たる「高市政権」は政策ごとの部分連合となり、かえって自民党によい緊張感をもたらすかもしれません)

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『【高市大収穫】さよなら創価公明』に3件のコメント

  1. sana:

    獅子身中の虫、蝙蝠寄生虫がやっと離れてくれた。
    スパイ防止法の関連で、お支那さまから何か指令でもあったんですかね。
    そして、引っ込みがつかなくなったとか・・・
    国土交通省のポストもやっと返還、日本の防衛や外国人問題が多少まともになるかも。

  2. 素浪人:

    今晩は。

    創価朝鮮の自滅、見事でございました!高市さんは神妙な表情をされていましたが、社交辞令も無難にこなし、外交的には素晴らしい態度であったと思います。しかも非は明らかに創価朝鮮側に有ることは、真っ当な観察眼を持つ日本国民であれば分かることですので、高市自民は堂々と創価朝鮮無き後の政党運営に勤しめば良いだけかと存じます。

    本日は、高市さんが総裁選出された瞬間に比肩する、日本にとっての慶事でございました。飯うま、酒うまの数多の日本国民が生まれたことでしょう。今はその余韻を楽しみたいと思います。

  3. ナポレオン・ソロ:

    251011-2 高市政権の誕生前のドタバタ、創価公明の切り捨てが出来てラッキ-
    今日は ソロです。
    動やら、私へのサイバ-攻撃が終わった様で、こうしてスム-ズにコメントが書けますが、3日前迄は3~4行書くのに2時間位懸っていましたから、途中でコメント完成を断念した事が2~3度有りましたね。

    扨、公明党の政権離脱ですが、凋落傾向がハッキリ出始めた公明党ですが、党内に居ては、正確な読みが出来ないと見えて、なんと自分から政権離脱を表明しましたね。 嫌がらせの心算だったかもしれませんが、高市さんには好いプレゼントにしかなりませんでした。 

    26年間のタッグだったけれど、公明党に助けられた話なんて思い出せませんね。 其れより、関東圏での創価部隊の横車的な折伏活動は、私も小学生時分に経験した事が在りますが、正に「夜討ち朝駆け」で、主に母子家庭が標的でしたね。で、国政選挙に成れば集団でやって来て無理やり選挙に行かせる。 

    それで已む無く母が入信しましたが、流石に、夜討ち朝駆け攻撃は無くなったけれど、今度は其の折伏活動に駆り出そうとしましたね。 私は只でさえ学校の登下校の際に上級生からの虐めが常態化していたので、虐めの要素を是以上増やしたくなかったので、無視して居ました。 

    その前後に、帰りがけに2組の待ち伏せに遭って、進退窮まったのですが、人数を数えたら全部で10人以上いたので、先ず脱出を図る為に近くにあった大き目の石を前を塞いでいた集団の一番背の高い子の顔めがけて投げたら、見事命中、彼は鼻から血を噴きしてその場に蹲った。

    私は、周りが驚いてその子に駆け寄った隙に、傍の里芋畑に飛び込んで汽車の線路に目掛けてダッシュしましたが、後ろから石の礫が雨霰、足やランドセルにも何発か当たりましたが、幸い頭には当たりませんでした。

    然し、目指す鉄道の線路には、黒煙を吐き乍ら蒸気機関車が驀進して来た・・でも此処で止まったら、彼らに捕まって終うので、記者が警笛を鳴らすのも構わず線路の向こう側向けて飛び込みましたら、機関車が急ブレ-キを踏んでくれたお陰で助かりましたが、向う側の崖下迄堕ちた私は、直ぐに起きて痛む足を引きずり乍らも自宅向けて走り出しました。

    まぁその後、学校に行くフリをして、近くの市立図書館に籠って、読書三昧を1ヶ月程していたら、クラス全員から「学校へ来て下さい」と言う同じ文面で明かに書かされた手紙が来て、お袋に見つかり、全て白状させられました。

    その後、母と一緒に学校へ行きましたが、その時、石をぶつけた相手は2つ上の子だと判り、家を教えられて母と一緒に菓子折りを持って謝りに行きましたが、小母さんはカンカンに怒って話にも何もなりませんでしたが、小父さんが「子供の喧嘩に親で出たら恥だ」と言ったっきり、何も言いませんでしたが別に赦してくれた訳では無いのは判りましたね。

    こう云う目に遭うのも、私が小学校2年の時に郵便局員だった私の親父が公安警察に頼まれて、共産主義者のブラック・リストを渡されて、リストにある人の郵便物を途中で開封して、内容を報告する所謂Sの役目をして居たが、局内の上司の共産主義者に暴かれて、郵便法違反で執行猶予付きですが懲役1年でした。

    勿論郵便局は首に成り、親父は地元にも居られなくなり、鹿児島市の会社に勤めやがて、熊本県境の出水市で車のセ-ルスをやって居ましたが、元は鹿屋の特攻基地の航空無線士だったのです。 

    熊本の逓信講習所卒業して北京に留学したと言ってましたが、戦後は特攻兵士との最後の夜の話が脳裏に浮かぶので、無線士だけはしたくなかったが、結婚して、姉と私が生まれたので、真面な職は公務員しか無く已む無く無線士をしていた様です。まぁ親父も、そう言う意味では戦争の犠牲者も一人ではありますね。

    其れで面白い事に、熊本の逓信講習所は戦後暫くして、国立の電波高専に成りましたが、私が中学を卒業した翌年に出来たので、一級下の剣道部の子が全寮制の学校を卒業して、東京に就職しましたね。 

    私は家が貧しかったので、同じく国立高専でも、商船高専に受かって此方も全寮制の5,5年の学校に通いましたが、途中或る教科の教官と些細な事から喧嘩に成り
    殴り合いにはなりませんでしたが、5~6時間、睨み合い、怒鳴り合いの喧嘩をして最後に「お前は俺がこの学校を絶対に卒業させてやらない、覚悟しとけ」と宣言されました、事実次の試験から全て零点でしたね。

    処が私が留年させられて辞める心算だったのが、翻意したのは在る教官のお陰だったが、その話を卒業式の日に教官宅に行き、そう言ったら、共感がことのほか喜んでくれて、私もとても嬉しかった事を覚えていますが、商船関係で良い思い出はそれ位で、後はゴミみたいな話ばかりでしたね。

    なので、今、商船高専の時に同じクラスだったり、同じ練習船に乗った連中との付き合いも、今は全て断って終いましたが、奴らの価値観が私のモノとは距離があり過ぎるので、如何なる良い思い出も、彼らが噛んで居れば、忽ち色褪せて感じますね。 

    今迄過ごした人生の時間全体で考えれば、全く時間の無駄だったのかもしれませんが、練習船で世界一周を経験した事や航海の途中に看た黄金の巨大な月や船が蹴立てる波に夜光虫が宝石の様に波に散りばめて光っている幻想的な体験は、陸に居ても決して経験出来無い事なのは、好く判ってます。

    攻撃が止んだ嬉しさも有って、今回は身の上話ばかりになって終いました、済みません。高市総理の健闘を嗅げながら祈念致しています。