議論から逃げる小泉を倒すには…

皇紀2685年(令和7年)9月21日

インバウンド政策に市民の怒り「自国民は置き去り」「効果感じられず」 経済専門家が「観光立国は無理」とする決定的理由 | AERA DIGITAL(アエラデジタル)

慢性的な人手不足のなか、インバウンド(訪日外国人客)対応のため、多くの人的資源が割かれている。インバウンド政策は本当に日本を豊かにするのか。経済の専門家は、政府が目指す観光立国は「成り立たない」と…

(AERA|朝日新聞出版)

 まず、参政党が宮城県知事選挙(来月九日告示・二十六日投開票)に独自候補の擁立を断念し、自民党の和田政宗氏と「手打ち」してしまいました。これで参政党は、党勢のさらなる拡大に向けた好機を自ら捨ててしまったことになります。

 和田氏と締結した政策覚書には、参政党の主張(水道事業の民営化・移民推進の見直し、土葬の不許可、大規模太陽光発電パネル計画の停止など)がすべて盛り込まれてはいますが、和田氏に対する国民的不信感(先の参議院議員選挙で落選)ばかりは拭えません。

 参政党が候補者を出した場合、和田氏との間で「保守票が割れる」と見たのでしょうが、それほど今の和田氏に保守票が入るでしょうか。参政党がついた限りは支持を得て、五選を目論む村井嘉浩氏を倒せるかもしれませんが、和田氏が知事になって本当に約束を守るか否か、そこからが参政党の力の見せ処になります。

 ■動画提言-遠藤健太郎公式チャンネル(YouTube)チャンネル登録お願いします!
 おすすめ【移民難民】ついに暴かれた日本の闇と恥部

 さて、ここで朝日新聞出版の珍しい指摘に話を移しましょう。わが国政府のいわゆる「観光立国政策」に対し、表題にもなった「大阪府・六十代男性」の「自国民は置き去りの愚策」という声こそ、朝日新聞社や立憲民主党ら左翼・極左が「外国人排斥」などと攻撃の対象にしてきた現下政治に対する国民の不満ではありませんか。

 朝日は、こうした私たち国民の純然たる訴えに今後、真摯に耳を傾けるということなのか、それとも単に観光立国化を推進してきた自公連立政権を批判したいだけなのか、腹を括っていただかねばなりません。

 なぜ先の参院議員選で参政党が躍進したのか、彼らの「日本人ファースト」にいよいよ国民的期待が寄せられ始めたのか、左翼・極左が「多文化共生」を喚く度に私たち国民ばかりが疲弊させられてきた現状を、真に「弱い立場の人びとに寄り添う政治」を唱えるならば見つめ直す時です。

 現在国内にいる「弱い立場の外国人」は、自公連立政権が政策として「連れ込んだ」人びとであり、これにまつわる制度の一切を廃止して「弱者に追いやられた国民」を救ってこそ、真の左翼(リベラル)ではないのか、と。

 対日ヘイトスピーチ(憎悪差別扇動=反日)は、左翼の定義ではありません。左傾化した自民党が立憲民主党ら左翼・極左諸共選挙に敗れたのは、反日では当然国民が救われないどころか酷く傷つけられ、一体誰が私たち国民のための政治をするのかわからなくなったからです。

 昨日記事で申したように、高市早苗元経済安全保障担当相が靖國神社参拝をはじめ消費税率の引き下げまで引っ込めてしまい、いかに「左傾化自民の『財務省の犬っぷり』が酷いものか」をかえって露呈させました。

 事実上の対抗馬である小泉進次郎氏の総裁選挙対策本部が「公開討論から逃げる」方針である以上、高市元担当相が政策論争で勝ち上がることも難しくなりましたが、唯一ここから大逆転を狙うなら、小泉「阿呆莫迦」陣営との決定的差を見せつけられる外国人問題に斬り込むしかありません。

 高市元担当相が出馬会見で外交・安全保障政策に多くの時間を割いたのは、その点に於いては譲らない意志が強いからでしょう。ならば「外国人排斥」ではなく「日本国民を守る経済政策」を強調して支持を得ることです。

 その鍵は、上記アエラ記事にもあり、参政党が指摘してきたことの中にこそあります。わが国を安売りせず、高い位置へと盛り上げる政治の実現を宣言した高市元担当相は、頭が悪すぎて何の議論もできない・応じない小泉氏を倒すならこれしかないのです。

 いや、今ここで倒してもらわなければ、二年後に施行される「育成就労」と名づけた新制度で八十二万人移民推進が始まってしまいます。もはや私たちの暮らしの安全は風前の灯火であり、責任を取らない政治家や国家公務員、彼らと癒着する「似非リベラル」財界のやりたい放題を絶対に許してはならないのです。

スポンサードリンク

『議論から逃げる小泉を倒すには…』に1件のコメント

  1. 日本を守りたい:

    いつもありがとうございます。

     「薔薇よ 最初の唇
      お前によって私は
      人が内部に受けるくちづけを知った」
    これは 私が若い頃に書いた詩「薔薇に寄せて」の冒頭部分です。

    全く詩人ではない私が、詩を書くようになったのは、
    宗教的真理を表現するために、おのずと、詩へと導かれたのでした。
    私には詩が必要であると感じて、優れた詩人の作品に触れるうちに、
    自分でも書くようになりました。

    優れた詩に共鳴して、私の中に起こる 私が知らなかった喜ばしい囁きを 書き記す。
    それだけの事。ただし、それは散文ではなく、詩でなければなりません。

    詩は、半分だけ開いた花の蕾のように、魅惑する表面と、
    それが未だ隠している奥義への 示唆であり誘いなのです。

    鈴木大拙は「仏教の一番大事なところは 言葉では言えない」と語りましたが、
    私はそれを全否定はしませんが、それでも、
    宗教的真理が詩によって「決定的に象徴される」と感じています。

    優れた詩人は、民族の神の預言者、
    いえ、民族の神を超える 普遍なる神 「神の中の神」の預言者です。
    (預言者でないならば、優れた詩人ではありません)

    この続きは、次回に書かせてください。拝。

コメントをどうぞ