「閲覧するな」左翼の不都合

皇紀2684年(令和6年)10月13日

 女優の大山のぶ代(本名=山下羨代)さんが九月二十九日午後に亡くなられていたことが報じられた十一日、SNS上は、一気にアニメーション作品『ドラえもん』(原作=藤子・F・不二雄)の話題で埋め尽くされました。衷心よりお悔やみ申し上げます。

 私自身の認識も『ドラえもん』と言えば、未だその声は大山さんでした。七月十二日には、本作の「のび太」の声を担当していた小原乃梨子さんも亡くなられており、改めて衷心よりお悔やみ申し上げます。

 料理研究家でもあり、水の専門家でもいらした大山さんは、世代を繋ぐことに注力された方で、ご自身は、二度もお子に恵まれないご不幸があったそうですが、私を含むわが国の多くの子供たちが大人になり、さらに次世代へと語り継いできたほどの大きな財産を遺されました。

 大山さんが大病を患ったのを機に、文字通り「スパッと」ドラえもん役を水田わさびさんへ引き継がれた(ほかの俳優も全員が交代した)のも、そのような想いがおありだったかもしれません。

 役者の仕事のうち声優とは、絵に命を吹き込むようなものです。アニメというコンテンツでは世界を主導してきたわが国に於いて、それに関わる全ての人びとがもっと報われる業界であってほしい、と強く願います。

 ■動画提言-遠藤健太郎公式チャンネル(YouTube)チャンネル登録お願いします!

 ■高市早苗をご支援頂いた皆様ありがとうございました(自民党奈良二区青年局)

 さて、話は惨めなほどガラリと変わってしまいますが、十日記事で糾弾した二重処罰の第二弾で、特に「異常」と断じた東京九区について、自民党の同選挙区支部長に任命されていた今村洋史元衆議院議員が立候補断念に追い込まれました。

 また、今村氏(以前は日本維新の会所属)と同じく旧清和政策研究会に属しながら党総裁選挙で石破茂氏なんぞに投票してしまっていた菅家一郎元副復興相(福島四区)も、まさに「石破に入れたにもかかわらず」公認を外されたため、やはり立候補断念を表明しています。

 あまりにも酷い話ばかりで、彼らの政治家としての評価以前に森山裕幹事長と石破氏の「手口の汚さ」が目立ち、それを「公平・公正でよい」と私たち国民に勘違いさせるやり方も、やはり汚いとしか申しようがありません。

 一事不再理の原則を破っている時点で、現行憲法(占領憲法)第三十九条に(刑事裁判の話ではないが)抵触しかねないことをしているのが「岸破森」政権なのです。公平でも公正でも原則に忠実でも何でもありません。

<独自>辺野古抗議活動制止警備員死亡 事故映像を入手 11日に県議会で映像確認へ

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設に抗議していた女性を制止した警備員が6月、ダンプカーに巻き込まれて死亡した事故で、現場付近に設置されたカメ…

(産經新聞社:産経ニュース)

 わが国では目下、全く筋の通らないおかしなことばかり起きています。七月一日記事で取り上げた左翼・極左暴力活動家による警備員致死事件で、十一日の沖縄県議会・土木環境委員会が防衛省沖縄防衛局が提出した事故映像を確認しました。

 ところが、玉城康裕(芸名=玉城デニー)知事派の「オール沖縄」与党は、映像の閲覧を中止するよう議長に迫り、挙げ句に「こんなものを見なくても安全策は講じられる」などと論点も何もかもをはき違え、すり替えた暴言を吐いたのです(沖縄テレビ放送記事を参照)。

 自民党らに向かっては、何かと「すべてを明らかにせよ」「全部公開しろ・閲覧させろ」などとわめき散らして議事を妨害したりする左翼・極左党派は、いざ自分たちの不始末、いやそれどころか「殺人」と言っても過言ではない暴力行為を隠蔽しようと「すべてを明らかにするな」「公開・閲覧するな」とわめくとは、強い表現で申し訳ありませんが「完全なる人間のクズ」でしかありません。

 警備員を致死させた暴力活動家の老婆は、自身がこの事故で骨折したことを報告した上で、同じ活動家たちの前で「骨は折れても心は折れない」などと叫んで警備員のご遺族を酷く憤慨させたそうですが、もはや人としてどういう神経をしているのか、私には全く理解できず、どなたかご教授願えれば幸甚に存じます。

 彼らの言う「平和」とは「人権」とは、一体何でしょうか。占領憲法を「護れ」と言い続ける限り、日米安全保障条約の正体である「在日米軍基地提供条約」は変わらず、石破氏が岸田文雄前首相に言われて早速私たち国民を欺いたように日米地位協定の改定を目指すこともできないのです。

 六日記事で追及したれいわ新選組の大石晃子共同代表と同様、何の意味もない「してやった」活動は、私たち国民に対する迷惑行為でしかありません。まして沖縄県に張りついている活動家は、それでとうとう人を殺したのです。

 これほどのことをしたならば、もう二度と「平和」「人権」「公平・公正」「透明な政治」といった類いの言葉を口にするな! 私たち国民ももう騙されてはならないのです。

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『「閲覧するな」左翼の不都合』に4件のコメント

  1. 波那:

    さっき、これを読んで泣こうかと思いました。

    ≫石破茂首相は親子代々の日本基督教団の信者だ。あの西早稲田の教団だ。

    ≫「慰安婦には謝罪し続けなければならない」との発言は、首相の出自と支持団体の意向を反映したものでもある。

    統一協会と何が違うんでしょうか?

    ▽石破茂首相と北朝鮮との関係は長くて深い関係!金丸訪朝団は現在も続いている!
    https://ameblo.jp/ishinsya/entry-12871058324.html

  2. きよしこ:

    「ちびまる子ちゃん」の「まる子」役のTARAKOさんが亡くなられたのも今年でしたが、「これで育った」という認識を共有できるという点においては大山さんのドラえもんの声をおいて他にありません。

    平成八年に原作の藤子F不二雄先生が逝去され、いよいよ声優が交代となってから完全にアニメの視聴をやめました。認知症を罹患されて表舞台を離れて以降、私は意図的に大山さんの声を聴くのを避けてきたような気がします。聴くだけでどうしても涙腺が刺激されてしまうので。

    今頃は先立たれた御主人の砂川啓介さんや共演者の皆様と穏やかに過ごされているのかもしれません。大山さんの生前の御活躍に改めて御礼を申し上げ、心より御冥福をお祈り申し上げます。

  3. ナポレオン・ソロ:

    241013―2 唯の反日活動家でしか無い究過激派と反日帰化人にはペナルティを!
    お早う御座います ソロです。
     遠藤さんが文中でしきりに言っている「暴力行為で相手を死に至らしめた殺人行為」とは、具体的な詳細が知りたいので、何れ取り上げて頂きたいです。 之をやって居る人々は、既に80歳が目前に迫っている「やり直しが利かない世代」ですから、沖縄米軍基地問題は彼らに取ってのライフ・ワ-クなのかもしれないが、中身は非合法すれすれですね。

    今年の7月頃、ノーベル賞作家の大江健三郎が亡くなったけれど、彼も沖縄に関係した、創作か現場レポ-トか判らない「沖縄ノ-ト」と言う「反日作品」を残していますが、要は、此の人は根っからの嫌日家なので、黄綬褒章か紫綬褒章を貰う話を固辞していたのに、ノ-ベル賞受賞には飛び上がって喜んだと言う嫌日ぶりでした。

    その直後、私の蔵書から彼のモノが全て廃品回収に出されて消えましたね。彼が分断デビュ-した作品は、社会党の委員長だった浅沼稲次郎議員の演説会場での襲撃で、19歳の少年が壇上の浅沼委員長を刃渡り30smは有ろうかと言う刺身包丁で刺して抜き放った瞬間を捉えた写真が掲載されて、大きな話題になりましたね。

    浅沼さんは勿論左翼側の人物ですが、温厚で紳士的な誰にでも好かれる好人物であった様で、葬儀の詳細は知りませんが、保守/野党の別無く、故人の生前の徳を偲び、衷心からのお悔やみと慰霊の心をご遺族の方々と関係者に送っていたとの記事を後日読みました。犯人の19歳の少年は、その後ドゥなったもかは知りません。 

    然し乍ら思うに、日本人とは須らく、斯く在らねばならないと思います。 即ち我日本の社会の現在や未来に対する思いは各々で違え共、日本を此処迄命を捧げてでも、守って来た先人達の日本人の未来に対する思いや願いで顕現する現在を生きている我々は、先人達に恥じない生き方をせねばならないと、改めて固く心に誓い直すものです。

    同じ左翼でも、大江と浅沼さんは、是程後世の日本人に遺す彼らが生きた人生の意味や質が、是程、如実に現れるとは、故人となった御両人も、予想だにしていなかった事でしょうが、是が釈迦牟尼が言う「人徳の差」なのだと思いますね。

    人間は過ごした人生と言う時間を如何にして過ごしたのか?に因って諮られますが、自分が生きて来た現実は、先人の努力に依って顕現している事に対する敬慕の念と感謝の心を広く著した上で、社会主義をべ-スに、弱者救済、平等な社会の実現、と言った社会の未来を向上させ様と語る、なので決して独裁主義のスタ-リニズムではありませんね。

    寧ろ、浅沼さんの社会主義は、マルキシズムに付随した様な物で無く、田中角栄氏が天然社会主義者と呼べる様な日本伝統の「扶け合い社会」の延長に有る「天然社会主義」と呼ぶべきものだったと思うのです。その典型が社会保険制度デショウ。然も、之は戦前の商工ぢ人で、巣鴨刑務所に、A級戦犯として10年投獄されていた岸信介さんが戦後作った物です。

    マルキシズムが生まれた19世紀の欧州は、戦争に明け暮れる王侯貴族に対する庶民の怨嗟の声に満ちた社会だったので、その反動として社会主義が生まれたのですが、悲しいかな欧州社会は歴史が浅いが故に、社会思想に日本の様な「扶け合う社会」のメリウット的なモノが存在しなかった。其処にマルクスやエンゲルスの登場して理論化した。

    是が共産主義なのだが、此の思想も未完成だったけれど、特に帝政ロシアの圧政に苦しんでいたハザ-ル系のユダヤ教徒の農民達「≒メンシェヴィキ」達を勇気付けた.そして、帝セロシアが東洋の諸国日本に、まさかの敗戦を喫しその強大な軍事力の質に疑念が集まり、ㇾ-人率いるボルシャヴィキに拠るロシア革命「=ユダヤ革命」が1917年に起こった。

    こう言う経緯で共産主義が表舞台に現れて、世界を2部する勢力になったがマルクスが言う様に共産主義は決して、科学的に十分では無いのは、世界の這い怪我其れ迄の400年以上にわたる停滞期が一転して、目まぐるしく変わって行く物凄い速度に追いつけなくなって行ったのです。その証拠にロシアでは未だ十分な産業革命が終わって居ません。

    GDP世界2位に躍り出た共産シナの近代化は、DS の一部であるDロックフェラ-と日本の技術指導、投資によって、為されたもので、其処に彼らのオリジンナリティは在りませそれを日本の在日出身の政治か小沢一郎が、事大主義者宜しく「私は中共の前線司令官です」と宣ったから、技術後進国と劣等感を抱いていたシナ人が一転君主国的な態度に変わった。

    日本の60~70年代の過激な暴徒の暴動や都市テロ行為は、左翼集団の者だけでは無く。例えば、アイヌ族の適応障害から日本社会に蓄積した怨念晴らしだったり、最初は学生運動だったものが、次第に被差別部落民の社会的保護に目を付けた非合法組織の犯罪で、その主足る犯行を在日朝鮮人がやって居ると言う様に変質を繰り返している事が判って居る。

    なので、之は一種の侵略なのでは無いかと言う声が挙がっても可笑しくないが、後ろに控えて居るのは、戦後80年も経つのに、未だに日本を敵視し、警戒しているDS 精力を後ろ盾にしている心算のCIA 支配下の反日韓国人が、この構図が共産シナが、次第に反DSのロシア寄り傾かざるを得ない現在、その米国での大きな変化が現実の如何反映するか?

    この世紀の転換点を生でリアルタイムに見届けられるのは、僥倖と言わざるを得ない。

  4. 日本を守りたい:

     いつもありがとうございます。

    如何なる宗教が在ろうと無かろうと、
    ただ、愛する者だけが神を知る、そういう神こそが、
    神の中の神、神話も名も持たぬ神である。
    人は、愛して狂う者でもあるので、
    神によって(宗教的真理によって)、焼かれる 焼き清められる者でもある。
    それこそは、恩恵なのである。

    この恩恵に与かる機縁について、
    親鸞は「念仏には、義無きを義とす」と言い、
    「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
    ひとえに親鸞一人がためなりけり。」とも言った。

    何故、私に父母が在り、何故、私が愛されるのか、
    何故、人にとって全てが偶然の 義無き世界の中で、
    「私が本当に結ばれている者」すなわち
    「神の中の神、神話も名も持たぬ神」を 人が感知し得るのか、
    それは、ただ不可思議・不可知の「恩恵によって」というほかは無い。

    親鸞は、阿弥陀如来と呼ばれる仏 救済者について、
    「その救いの根拠など、人知の及ぶところではない」と言い、
    同時に、「母が私一人のための母である その如くに 
    阿弥陀如来は 私一人のための仏である」と断じた。
    万人への救いであり、しかし、同時に、
    親鸞ただひとりのための救いであると感得してしまったのである。
    恩恵によって救い取られているという万感の吐露であり、
    親鸞にとってただ一つの真実なのであった。
    この矛盾の成就という真実こそは、親鸞が真正の宗教者である事の証明である。
    これが、人の到達し得る 最も確かな真実である。

    先日、私が書いた
    「最も遠くに それなのに同時に 最も近くに 神を感じる」と言う事。

    神は、出会う事の出来ぬ 限り無く遠い者でありながら、同時に、
    「私よりも私を見、私を聴き、私よりも私を知っている者」なのだ。
    そのような神を 人は 愛さない。人が愛するのは、
    ただ「私に奉仕してくれる神」
    すなわち「私の願いをかなえてくれる魔法使い」であって、
    フォイエルバッハという男が言った「人が願望によって作り出した神」である。

    だが、真正の神は、
    人の願望を超える「恩恵」ただそれだけで、人に関与する者である。

    以前、私が紹介した 名も知らぬ ある老婆の言葉
    「阿弥陀様からは逃げられん」これは、
    大学に居る 宗教関係の「教授」らの 
    浅薄な幾百の言説が及ばない宗教的真理の表白である。

    人にとって、逃げたい そして何度でも逃げて、しかし逃げ切れない。
    それが真正の神なのである。人が 本当に結ばれているからである。

    逃げ切れないと悟った時、彼女は 
    恩恵による絶対的な受容と肯定に与かっている事に気づかされて、
    初めて知った幸いによる喜びと畏怖に 身が震えたに違いないと 
    私には思われる。
    真正の神の関与を受けて、人には 喜びと畏怖が 同時に起きる。
    人の願望が作り出す神によっては 人は 自己満足を得るのみである。
    それは完結しない。人の自己満足は、
    永遠性に連なる受容と肯定に 無縁の事であり、
    そこには人が本当に結ばれている者は 無い。
    人は、自身の存在に真の義を見出し得ぬ者であるにとどまる。
    だから存在の不安は、払拭され得ないのである。

    未だ書くべき事が残っていると感じていますが、
    今回は、ここで終わりとします。拝。

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